リベサヨ(リベラルなサヨク)からいろいろ考える

「リベサヨ」という言葉は、hamachan氏がhamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)で使いだしたのだと思いますが、最近ではツイッターでもよく見かけるようになりました。とはいっても、hamachan氏が使いだしたときの意味とは、違う意味で使われているようで、どうもリベラルと左翼をいっしょくたにして「リベサヨ」と言っている人が多いようです。そもそも右とか左とか、イメージが先行して語られるので、人によってそのイメージにギャップがある。そこにリベラルまでくっついたので、ちょっと混乱してます。僕なんかより若い人は、左翼=リベラルというイメージがしっかり張り付いてしまっている人も多いようなので、たぶんhamachan氏が言わんとしたことが、いまひとつピンとこないのかもしれません。でも僕はこの言葉が、日本の政治思想の対立軸を考える上で、そしてヨーロッパの左翼を知る上でも、けっこういい切り口になるのではないか、と思ったので、ちょっとこの「リベサヨ」という言葉を掘り下げて、いじってみたいと思います。
と、そのまえに、hamachanブログの、リベサヨに関するエントリー、ふたつほどリンクも張っておきます。
リベじゃないサヨクの戦後思想観: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
特殊日本的リベサヨの系譜: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


それでは、この「リベサヨ」という言葉の意味からいきます。hamachan氏の言いたいことを、僕なりに解釈してみました。まず、そもそものリベラルとはなんなのか。EUの労働法制を研究されてきたhamachan氏は、ヨーロッパにおけるリベラルと、日本での使われ方の違いに違和感を感じたはずです。日本では、リベラルという言葉は、どちらかといえば左派を意味しますが、ヨーロッパでは「リベラル」は右派だからです。日本で、いつ頃から「リベラル」という言葉が使われるようになったのかは謎ですが、おそらくアメリカの「リベラル」からきているんでしょう。アメリカはもともと自由主義の国で、いわゆる左翼、ソーシャルな社会民主主義の勢力が弱い国です。民主党共和党もどちらも保守自由主義政党ですが、1930年の世界恐慌以降1960年代までは、民主党優位の中で穏健な経済福祉政策が進められました。一方共和党は1970年代以降、徹底した経済自由主義タカ派な安全保障政策を掲げるようになり、新自由主義新保守主義と呼ばれるようになります。このようにしてアメリカでは、右派が(新)保守、左派がリベラル(自由主義)と呼ばれるようになりました。しかしヨーロッパの場合は、リベラルは右派で、公共福祉政策を重視するソーシャルが左派です。どうもこのあたりがいろいろと混乱していて、日本のサヨクがリベラルを標榜するとか、なんか妙におかしなことになっているんですね。


そこで、ヨーロッパの政治勢力を、右 ⇔ 左 と、もうひとつの軸として リベラル ⇔ ソーシャル で、マッピングしてみました。といっても、あくまでも僕の印象なので、これは違うぞという人もたくさんいると思います。まあ、そこは一つ大目に見ていただいて、あくまで思考を助ける意味で、仮説を組んでみる、整理を試みる、そんな感じでお付き合いください。

縦軸に 右っぽい ⇔ 左っぽい を、横軸に リベラル ⇔ ソーシャル としてあります。ヨーロッパといってもいろいろな国があるのですが、とりあえずフランスやドイツあたりをイメージしてみました。実際は自由主義政党と保守政党は、保守連合を形成していたりします。右っぽい、左っぽい、というのはイメージなので、そこはご了承ください。こうしてみると、やはり右と左の対立軸が リベラル ⇔ ソーシャル になっているのが良くわかります(とはいっても、ここ数十年で全体としてだいぶリベラル側にシフトしたような気もしますが...)。ではこんな感じで、日本の政治勢力も、プロットしてみます。

日本の場合、リベラル ⇔ ソーシャル という軸だと、どうも座りが悪いので、ちょっと横軸は変えてありますが、なんとなく言いたいことはわかってもらえるのではないでしょうか。ちなみに民主党や生活の党は左っぽいのでは?という人もいる思いますが、申し訳ないですが僕から見たらどちらも左という印象はないので、こういうプロットになりました。どうでしょう。全体的に「個人・自由」のほうに寄っちゃってますね。自民党も、昔よりも確実に新自由主義色を強めています。そして問題は左翼ですよね。40年前には社会党という総評(国労自治労日教組 etc)を支持基盤とした政党があったはずなんですが、見事に消滅してしまって、その残骸ともといえる社民党は、かなりリベラルに寄っているというのが僕の印象です。そしてリベサヨというのは、このマップでは左下のエリアになるんだと思います。こうしてみると、古い自民党社会党をぶっ壊して、結果として新自由主義的な勢力ばかりになってしまった、という状況になっているんですよね。
そこで、ちょっと気になるのは、じゃあ日本では右と左の対立軸というのは、どこにあるのだろうか?ということ。ヨーロッパのような リベラル ⇔ ソーシャル という構図ではないのですから。なにか別のところに対立軸があるはずです。でもその考察をするよりも、今回はヨーロッパの リベラル ⇔ ソーシャル という構図が、どのようにして生まれたのか?というのを掘り下げます。


そもそも、「右翼」「左翼」という言葉は、フランス革命直後の国民議会での座席位置が起源です。では、この時期の右翼と左翼は、どういう対立軸だったのでしょうか。

フランス革命直後は、王制を支持し、貴族や教会の利害を代表する勢力が右派。そして左派はリベラルでした。貴族や教会とは別に、新たに政治的な影響力を強めてきたブルジョア(有産市民)の利害を代表する勢力が、リベラル(自由主義)です。今とはずいぶん違います。そりゃ200年以上前のことですから、当然と言えば当然です。それではいつ頃から、リベラルは右派になったのでしょうか。そして、どのようにしてソーシャルな左翼が登場してきたのでしょうか。このままフランスにスポットをあてて、変遷をたどっていきます。
革命後、フランスは帝政、王政、共和政を繰り返します。そして、本格的に議会制民主主義による政治が始まるのは、1870年の第三共和政期になってからです。1875年から、男子直接普通選挙による「代議院」と間接選挙による「元老院」の二院制がとられます。ここから第三共和政期の前半は、共和派が多数を占めることになります。もともと左派勢力だった共和派が保守勢力となったのです。そして19世紀末から20世紀にはいると、新たな左派政党が誕生し影響力を強めます。20世紀初めの頃の政治勢力を、同じようにマッピングして見てみました。

まず上側半分(右っぽい)を見てみます。フランス革命後は左派だった共和派・自由主義派が、100年経って、中道右派になっています。この中道右派のグループは、「民主共和同盟」をはじめ、「独立左派」「共和独立派」「左翼共和派」「独立民主急進左派」といった名称の組織に分かれていました。これら「共和派」や「左翼」という名称は,フランス革命直後は左翼だった共和派に起源をもつことを意味しており、その後の社会の変化と新たな政治勢力の出現によって、右派に押しやられたことがわかります。また、フランス革命後は右派だった王制や帝政を支持する勢力は、議会ではすっかり影響力を失ってしまいました(ちなみに「王党派」の横軸がこの位置なのは、リベラルでもソーシャルでもないという意味です)。
次に、下側半分(左っぽい)を見てみます。急進党というのは、1901年に誕生した共和主義・自由主義政党。農業経営者や公務員など、地方、小都市の「エリート」たちを支持基盤とする中道左派の政党でした。そして、もうひとつの左翼政党が社会党。1904年に誕生したマルクス主義を掲げる政党です。あと「サンディカリスム」というのも入れてあります。これは議会の勢力ではないのですが、フランスの労働組合運動の大きな思想潮流だったので、加えました。
それで、やはりリベサヨではないソーシャル左翼、というものを考えるのであれば、このフランスの社会主義勢力「社会党」と「サンディカリズム」に至る、つまりは19世紀の労働運動を、ちゃんと歴史的な線でつなげてみていく必要があると思いますので、話は長くなりますが、軽く歴史を追いかけてみようと思います。


'--< フランスの左翼の歴史 >------


革命前のアンシャン・レジーム期は、労働者を結びつける団体は、職人組合(compagnonnage)でした。手工業親方を中心としたギルド組織である同業組合(corporation)とは区別される職人の団体で、親方の独占団体と化した同業者組合との対抗関係をもはらむ職人のみの横割り組織として顕在化してきました。
フランス革命がおきると、1891年のアラルド法とル・シャプリエ法によって、同業組合・ギルドの廃止と労働者の団結が禁止されます。個人の自由や経済活動の自由を優先して、貴族特権・教会の特権だけでなく、同業者組合や職人組合など、団体的な制度も禁止されます。その後のナポレオンの第一帝政下でも、職人組合は禁圧され、復古王政になってようやく公認されます。しかし、職人組合はその閉鎖性や組織内の因習の封建性や位階的な秩序のためか、1830年頃を頂点に七月王政期には急速に衰退していきます。
職人組合に代わって、労働運動を担うようになるのが相互扶助組合(société de secours mutuels)。職人組合に加入できない労働者を結集して大きな広がりをみせ、労働運動の温床に発展します。相互扶助組合は、規制が厳しかったのですが、当時としては唯一の自衛組織であり抵抗組織でありました。七月王政期と第二帝政期の前半も、労働運動は抑圧されます。特に二月革命での失望は大きく、1850 年代は労働運動の「沈黙の時代」でした。ところが第二帝政期も1860年代に入ると、労働者に対して寛容な政策がとられます。1963年ロンドン万博への労働者代表団派遣、そして1864年法により団結権争議権が事実上承認されます。1965年 第一インターナショナルパリ支部設立。そして1970年に第二帝政が崩れると、ようやく労働者階級が政治的な影響力を強めてきます。
このように19世紀の前半、フランスの労働組合の形成は遅れていました。1850年代には既に強固な職能別組合運動が形成され、トレード・ユニオニズムの伝統が確立したイギリスとは対照的です。またフランスの産業革命が本格的に進行するのは第二帝政期なってからです。イギリスが産業革命の急速な進行で、大企業の工場労働者が労働運動の担い手になったのとは異なり、労働運動を主導したのは主に小規模な手工業で働く熟練労働者でした。
第三共和国政に入り1880年代になると、議会では共和左派が勢力を伸ばしてきます。そして1884年、ついにル=シャプリエ法の廃止により、労働組合が合法化されます。マルクス主義の影響を受けた社会主義政党も誕生します。1879年にフランス労働党(POF)が結成され、その後社会主義政党は分裂や統合を繰り返しながら、徐々に近代政党、議会主義へと傾斜していき、議会での議席を獲得していきます。
1870年代からは、産業構造の高度化が進行します。鉄鋼業を筆頭に炭鉱・電機・機械・化学工業が主に地方で勃興し、賃銀労働者を集積し始めます。またこの時期、1873年〜1896年の大不況が重なり、1880〜90年代はフランス各地でストライキが頻発しました。その担い手は従来の職人労働者から、工場労働者や公務員へと拡大していきます。彼らの間に社会主義的な思想が浸透して、労働運動の種が播かれるのはこの時期でした。
ところでフランスの社会主義思想は、マルクス主義だけではなく、サン=シモンやフーリエといった初期社会主義思想からプルードン無政府主義やブランキの蜂起主義など、多様な潮流がありました。特に小規模な手工業で働く熟練労働者に担われてきたフランスの労働運動では、彼らの職人としての自尊心、自立心が、マルクス主義のような「国家」という枠組みを介しての社会変革ではなく、労働組合そのものが社会変革の主体となる、という思想に結実していきます。この思想潮流がサンディカリスム(syndicalism)になります。サンディカリスムは、syndical=労働組合の という意味なので、労働組合イズム、労働組合主義とでも言えばいいでしょうか。国家や議会ではなく、労働の現場、生産の現場で、ゼネストなどの直接行動を通じて資本家と対峙し、生産・分配を担う主体となって社会を変革していく、という革命思想です。自由主義・共和主義に対して、さらには現場からは乖離した「政治の論理」への対抗として、このような思想が広がったとも考えられます。こうした伝統を持つ労働運動が、産業構造の変化で増えてきた大規模な工場労働者も取り込んでいきます。1880年代に行政の資金援助を受けつつも労働組合によって自律的に運営される職業紹介機関「労働取引所」が相次いで設立されると、ここが労働運動を担い、フランス労働取引所連盟(FBT)が創設されます。そしてFBTが中核となってフランスのナショナルセンター、CGT(労働総同盟)が1895年に結成されます。CGTはサンディカリスムを掲げる組織になります。
一方で、議会を通して社会を変革していこうとする勢力がありました。フランス社会党、正式な名称は「労働インターナショナル・フランス支部」“Section Française de l'Internationale Ouvrière (SFIO)”です。現在のフランス社会党“Parti Socialiste (PS)”の前身でもあるのですが、名前からもわかるように、当時の社会主義運動の国際組織、第二インターナショナルのもとに結集してできた政党です。1889年に結成された第二インターは、直接行動ではなく議会進出による条件改善を重視する方針を掲げます。そして1904年の大会で、フランスの社会主義政党は一つの党にまとまることが望ましいと決議され、第二インターに加盟していたフランスの政党、PSDF(フランス国社会党)とPSF(フランス社会党)が合同して、フランス社会党が誕生します。
議会を通して政治、社会を変革していくという立場の社会党(SFIO)と、労働、生産の現場で、ゼネストなどの直接行動を通じて資本家と対峙し、生産・分配を担う主体となって社会を変革していくという、サンディカリスムを掲げるCGT。つまり国家の役割を重視しする社会党と、現場の自律性主体性を重視するサンディカリスト社会主義、労働運動の勢力は、このような2つの大きな流れに分かれていました。これが、上のチャートにした20世紀初頭です。



それで、この左翼勢力の分断がこのあとどうなるのか、さらに駆け足でいきます。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターは消滅します。1917年にロシア革命がおこり1919年にコミンテルンが結成されると、フランス社会党は分裂して共産党が誕生します。CGT(労働総同盟)でも、共産党系のCGTU(統一労働総同盟)が分裂します。一方、政権与党は共和派が中心でしたが、左派の急進党も議会で重要な位置を占めていて、何度も入閣します。また急進党は政府を強固にするために、社会党とも協力関係を結ぼうとします。社会党も、共和派の内閣への参加はいっさい拒否していましたが、急進党の政権に閣外から協力することもありました。そして、1933年にドイツでナチスが政権を握ると、状況は大きく変わります。フランスでもファシズム運動が起きていたことから、共産党が路線転換をして反ファシズム社会党と協調します。そして社会党共産党に急進党も巻きこんだ形で、ファシズムに対抗する人民戦線運動がおこり、1936年の総選挙で人民戦線派が勝利します。ブルム人民戦線内閣の誕生です。
ブルム人民戦線内閣は、誕生からわずか1年の短命内閣でしたが、フランスの左翼勢力にとって重要な意味を持っているので、ここを丁寧に見ていきます。
人民戦線派が選挙で勝利してからブルム内閣誕生までの間に、フランス史上未曽有の工場占拠闘争が開始されます。工場占拠ストライキが吹き荒れる中で登場したブルム内閣は、このストライキへの対応に迫られます。内閣に最初に与えられた試練であり、対応を間違えれば人民戦線の支持は失われかねません。この政権がどこを向いているのか、なにを目指しているのか、そのことがこの対応によって明らかにされるからです。
ブルムは、CGT(労働総同盟)の代表と経営者側の組織CGPF(フランス生産総同盟)の代表をマチニオン館に集め、労使間の調停を行います。ここでいわゆるマチニオン協定が締結され、工場占拠ストの収拾を図られます。さらにこの協定では、週40時間労働、年2週間の有給休暇、労働協約に関する法案提出の念書も、ブルムとCGTの代表との間で交わされ、これにもとづく労働3法案は月内にすべて成立させました。
ところが、工場占拠ストは収まるどころか、さらに拡大します。ストを行っている労組の多くが、CGT加盟労組ではなかったことと、中小規模の経営・雇い主の多くもCGPFには加盟していなかったためです。マチニオン協定は当事者同士の協定とはいえない性格のものだったのです。しかも社会党内、共産党内、サンディカリストの中にも、ストを収拾させるのではなく、今こそ革命の契機だと扇動している過激なグループがいました。
事態の収拾に際して重要な役割を果たしたのは共産党でした。共産党の書記長が活動家集会で事態の収拾を呼び掛ける演説を行います。さらには党内のスト扇動者を除名し、ストの中核だった金属部門を名指しで批判。党活動家に収拾への努力を訴えます。数日中にパリ地区の占拠は大部分収拾され、工場占拠闘争はようやく沈静化へと向かいます。共産党にとっても、反ファシズムの要となる人民戦線の崩壊は絶対に避けなければならないことだったのです。
ところで、かつては政党からの自律をかかげ、ゼネストという直接行動による変革を目指すサンディカリスムを掲げてきたCGTにとって、工場占拠闘争は現場の直接行動による革命的契機と捉えても不思議なかったはずです。しかしCGTの指導部は、ブルム内閣による工場占拠の収拾に協力をしました。彼らは直接行動による経済構造改革を目指すことよりも、資本主義的な枠組みのなかで国民生活の改善を目指すことを選んだのです。CGTは、マチニヨン協定直後、飛躍的な組織の拡大をします。組織の拡大は、大衆的な労働組合、交渉型の労働運動への移行を促進するものでもありました。労働組合運動は、国民経済の枠のなかでよりよい分配を追求するものとなり、サンディカリスムという思想は、ここで終焉を向かえたのです。
ブルム内閣が、マチニオン協定でCGTと約束して成立させた労働3法は画期的なものでした。年2週間の有給休暇と週40時間労働は世界初でした。労働協約法は、最も代表的な組合によって締結された労働協約を、同地域・同職業のすべての労働者に適応可能とする拡張制度を初めて導入するというものでした。また有給休暇法と併せて、ブルム内閣は、文化政策として余暇の拡大、レジャーの大衆化の促進に取り組みます。低所得者層にヴァカンス旅行の便宜を図るために、4割引きの乗車券を発売したり、6割引きの特別列車を走らせたりしました。工場占拠ストの収拾後、労働者の関心は、初めての夏のヴァカンスをどう過ごすかに移っていきます。ヴァカンスは労働者の工場占拠闘争のエネルギーを吸収する役割をも果たしたのです。
工場占拠ストを収拾させ、労働3法を成立させたブルム内閣。しかしその諸政策によって企業など経営側の負担は大きくなり、その負担が価格に転嫁され、インフレーションが進行します。さらには資本家の防衛策が「金の退蔵」や資本の海外逃避につながり、人民戦線内閣自体は長続きしませんでした。最終的にはスペイン内戦を巡る急進党と共産党外交政策上の対立から内閣は崩壊します。1938年にブルムは再び首相になりますが、1ヶ月で内閣は崩壊します。このような政治的な混乱の中、翌年にはドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまります。



フランス人民戦線は歴史的にどういう意味を持っていたのか。ここで、他国の例もみてみます。
イタリアではフランスより16年も前の1920年に、大規模な工場占拠闘争がおこりイタリア全土に広がりましたが、雇い主と労働者の対立は深まるばかりで妥協的な和解にはつながりませんでした。逆に地主層や中小産業資本家などの支持のもとで、ムッソリーニのイタリア戦闘ファッショが黒シャツ隊を組織し、軍部や官僚の一部からも武器や資金の援助を受けて、農民や労働者の闘争を暴力的に鎮圧しました。
ドイツは大恐慌後、中道・保守・リベラル連合のブリューニング内閣が、財政の立て直しを目指します。第一次大戦の巨額な賠償金支払いに苦しんでいたため、緊縮財政とデフレ政策を進めたのです。左派の社会民主党は政権支持ではありませんでしたが、共産党ナチスを警戒して、閣外協力をします。その結果、選挙で共産党ナチス議席を拡大させることになり、体制派は信認を失うことになります。さらには共産党の支持拡大を警戒した保守派や財界の協力によって、ナチスが政権を奪取してしまいました。
このような国民の分断によって、近代民主主義国家体制の不信任と暴力的な収束に向かってしまった例を考えた時、フランスの人民戦線が果した役割も見えてきます。ブルム人民戦線内閣の誕生と工場占拠ストは、労働者のエネルギーを国民統合へと向かわせる、ひとつの契機になったと考えられます。それが反ファシズムという一点での協調によるところが大きかったとしてもです。



近代民主主義国家の枠組みの中で、労働組合や左翼政党が、労働者や無産階級の利害を代表し、国民として統合し、社会的に包摂することで、体制を補完する。それこそが第二次世界大戦後の欧州の福祉国家のあり方です。戦後の福祉国家の誕生は、ケインズの理論やベヴァレッジの理念、ファシズムの台頭と世界大戦への突入からの反省に加えて、ブルム人民戦線のような体制派左翼による国民統合の経験も、大きな意味を持っていたのだと思われます。欧州では戦後、社会民主主義ユーロコミュニズムという新しい流れがつくられていきます。こうした思想潮流が、ヨーロッパの「ソーシャル」な左翼なんですね。ただし、その後70年代以降の新保守主義の趨勢、90年代のグローバリズムの波やEU統合のなかで、現在はかなり立ち位置を変えてきているので、今後どうなっていくのかは、非常に心配なところでもあるのですが...
どうでしょうか。こんな感じでヨーロッパにおけるソーシャルな左翼の形成を、フランス、それもサンディカリスムから人民戦線への流れで見てみました。
欧州の右派・左派を考える上でまず前提として考えないといけないのが、産業資本と労働者との階級的な利害対立の顕在化です。中・近世においても、親方・ギルドと職人・徒弟・職人組合との利害対立は日常的に存在し、職人がまとまってサボタージュしたり、職人組合が職人の供給を止めてしまったり、しばしば暴力沙汰にも発展するようなことは多かったのですが、これが市民革命による自由主義産業革命による資本主義の進行によって、社会的な階級対立に発展してきた、ということがあります。それともう一つ、左翼的な思想の原初的な形態は、現場での自律・解放を求めた抵抗主義、無政府主義的なものになりがちだったということ。ですから近代民主主義という枠組みを通して国民統合される過程において、体制に親和的でソーシャルな左翼思想が後から培われてきたということ。しかも、その形成過程においては、暴力的な破綻・悲劇の経験と、その反省による産業資本側含め社会全体での妥協・譲歩があって、ようやくできたことでした。


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それでは最後に、ちょっとだけ日本に戻ります。
日本と欧州を比べたとき、まず最初に思うのは、日本ではそもそも階級対立が顕在化していないのでは、ということです。日本は戦後の高度成長期に、企業が社員を丸ごと抱え込む、企業による労働者の包摂が進行しました。ゆえに階級対立が社会的に顕在化してこなかった。ですから、右とか左のイメージが、そういう階級の利害を代表する、というものではなく、反戦平和だの人権だの、あるいは国家だの経済成長だの、親米だの反米だの、といったところでなんとなーくのイメージが広がっているように思えます。特に1970年代までは活発だった、総評のような官公労中心の組合闘争や、そうした組合を基盤にした社会党共産党の革新共闘というものが、1980年代に入って一挙に衰退してしまいました。このことが、右と左を、ますますわかりづらい、漠然としたイメージにしてしまったのでしょう。
そこで、ここは一度「右」だの「左」だのという区分けを捨てて考えてみたいと思います。どうもこの「右」「左」というのにいろんなイメージがへばりついていて、物事が見えづらくなっているような気がします。それで、リベラル ⇔ ソーシャル という対立軸を日本的に置き換えた、個人・私的領域 ⇔ 団体・組織 を横軸に残しつつ、縦軸に「右」「左」ではなく、欧州で近代国家が形成されてきた、その時間軸を、なんとなく日本的なものに置き換えて、以下のようにしてみました。

これもまあ、かなり乱暴ではあるのですが、でもある一面がみえてくるような気もします。まず右上の象限に、企業社会、日本的経営、といったものが入ってきます。日本の会社では、社員が喪主となる葬儀に会社が手伝いを動員するが当たり前だったり、休日に上司の引っ越しの手伝いをさせられたりとか、独特な共同規範や位階秩序があります。あの「中国化」のよなは先生に言わせれば「封建遺制」ということになるのでしょう。ここに農協とか地域の自治会とか青年団とか、さらには日本の労働組合なんかも入ってくるような気がします。あの共産党でも、目指す方向は右下の象限なのでしょうけど、組織の体質的には、かなり右上の要素が入っていそうです。それで「リベラル」ですが、これが左下の象限に入ってきます。こうしてみると、なんかいろいろ見えてくる気がしません?
リベラルな人たちの多くは、日本のムラ社会的なもの、団体・組織依存的なものの解消を求めているような気がします。戦前の超国家主義にもつながった日本的な古臭いエートスから脱して、「近代的自我」の形成、「個人」の自立が必要だ、とするような人たち、つまりは丸山眞男大塚久雄などの戦後の近代主義インテリとどこかつながっている。彼らは「近代」を志向する、つまり上の象限から下の象限への移行を目指すべきところを、どうも団体・組織 → 個人・私的領域への移行を重視してしまったのではないか、ということです。(ちなみに丸山眞男は、もっと深い分析をしていて『個人析出のさまざまなパターン』〈丸山眞男集 第九巻〉で展開している考え方は面白いので、興味のある人はぜひ読んでみるといいと思います)そして、右下の象限。ここがソーシャルなのですが、社会保障の充実や労働条件の改善など、大きな政府や強い中間団体による社会的な包摂を求める、ということになります。最後は、左上の象限。ここがなんか、最近の日本を象徴しているような気がするんですよね。戦後の日本的な雇用が崩れてきて、ムラ社会的「世間」の外殻であった会社や組合、地域などが弱くなったことで、境界があいまいな大衆的「世間」が、薄く広がっているのではないか、ということです。


あんまり話を広げると収拾つかないので、ここらへんで切り上げたいと思いますが、おそらく日本の「右」と言われる人のなかでも、特にタカ派的な人達は、反「近代」なのではないか?という気がするんです。最近は自民党立憲主義を否定するようなことを言ったり、何年か前には「人権思想がよくない、やはり武士道だ!」という本が売れたり、ひどいのになると「生活保護受給者は、権利の制限も仕方ない」とか、未成年犯罪者の親を「市中引き回しの上、打ち首にすればいい」とか言う政治家がいたりします。具体的・実体的な利害というよりも、社会的規範の問題が大きく全面に出てきている。実は、日本人の伝統的な規範意識と人権思想や近代法規範とでは、大きな齟齬があるんですよね。このあたり、佐藤直樹さんの「世間」に関する本を読むとよくわかります。ですから反「近代」からすれば、リベラルもソーシャルも、いっしょくたに「左」となるのではないかな、と。実際、松尾匡さんのこの話「ガチウヨ世代のソ連イメージ」では、ソ連が、国民がみんなわがままで好き勝手やって甘やかされてダメになった国、というイメージになってしまっているようですし、最近でもツイッターで、ヨーロッパのEU統合や移民受け入れが左翼主導で行われてきたかのような話になっていたのも、びっくりしました。
それから、経済右派新自由主義の人は、これはもう明らかに経営側の論理といいますか、強い国力=国際競争力で、新興国が低賃金で伸びてきているのに対して、日本も労働コストを抑えられるように、雇用規制の緩和、社会福祉の削減を言う人たちですね。こういう人たちは 団体・組織 → 個人・私的領域 となる。さらにリベラルな「左」の人たちは、日本の社畜文化からの自由・解放を求めて 団体・組織 → 個人・私的領域 となる。そして文化サヨになんかになると、伝統とか清貧とか里山エコとか、これまた反「近代」になっちゃう。それで、おそらくソーシャルなものを目指しているような人たちというのは、本当に生活が困っているような人たち、つまり餓死、凍死なんてものがリアルな現実として目の前に広がっているような層を救済する、そういう活動をしている人たちに限られてしまっている。どうもこんな感じになってて、こんがらがってわけわかんなくなっちゃっているのではないか、というのが、いろいろ考えて、思ったことです。実体的な利害がどこにあるのか、もう少し社会的に顕在化できないものなのかなぁ...と。
まあ強引に自分の関心事につなげたかっただけのような気もしますが...


ということで、今回はフランスの左翼の歴史の話がメインのエントリーでした。



参考文献

【PDF】『19 世紀フランスにおける労使の団体形成と労使関係』大森弘喜
『1930年代フランスの主要政治勢力について』竹岡敬温
『1936年のフランス社会政策(I)―「人民戦線」内閣の政策経験―』向井喜典

足立啓二『専制国家史論』 その2

前回に引き続いて、足立啓二専制国家史論』を取り上げます。

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

前回は、この本の中で、日本の封建的な社会が、分業や商業の発達、資本の蓄積に有利に働き、近代を準備した、といった内容の部分を紹介しました。今回は、なぜ中国と日本で、このように異なった社会発展の経路を辿ったのか、という点についてです。実はこの部分は、著者の論の展開には、正直首肯できない部分があります。ですから、足立氏の考えを簡単にトレースしつつ、どちらかというと本の内容の紹介というよりは自分の考えを整理・紹介してみようと思います。ちょっとマニアックな話になります。


この本では、第3章「専制国家の形成」で、国家形成のアウトラインを追っています。人類史を、集団の拡大発展とそれに照応する新しい統合原理の開発史としてとらえ、専制国家や封建社会の形成に至る社会編成の発展過程をなぞります。ヒトは強固な原始共同体からではなく、不安定な家族の集まりから出発した。強固な関係性が緩められて私的部分が拡大していくのではなく、不安定で狭い関係性から広く安定した関係性を構築する。その新たな統合原理の開発の歴史をみていく、ということです。


足立氏は、中国の社会の変遷と国家の形成を、バンド(血縁)社会 → 部族社会 → 首長制社会 → 専制国家 と捉えます。そして、専制国家形成のポイントは、首長制社会 → 専制国家の形成に至る経路です。中国はBC7000年頃には農耕が開始され、2000年程度を経て安定性を増します。BC5000〜4000年の頃に集団の拡大と重積が顕著になり、紀元前3000年紀は集団間の軍事対立を示す諸指標が遺跡等に出現します。殷周〜春秋初期は、構造化された氏族社会だと考えています。社会の基底では個別家族に解消されないさまざまな集団が、政治的・経済的に機能していました。
ここで足立氏は、国家形成に導く二つの力、という考え方を持ち出します。一つが「共同体的意思決定原理」であり、もう一つが「指揮管理機能」です。「共同体的意思決定原理」というのは、集団的な意思決定と、それに従う共同規範、といったものを想像すればいいと思います。一方の「指揮管理機能」は、指導者、権力による統制ということでしょう。そして中国の場合は、首長制社会の高度化のもとで、「指揮管理機能」が強化され、そこから国家的な編成が形成されたと考えます。
殷周期を通じて高度化した首長制のもとで、臣従・官職授与関係が発展。それが人々の共同性をむしばみ、社会的合意形成を上からの賦与性の強いものに作りかえ始めます。加えて、従来共同体的な政治構成員でなかった広範な被支配氏族にまで一挙に軍事編成が拡大されたとき、共同体的意思決定原理は指揮管理機能に圧倒されました。また、諸侯・世族間の戦争は、双方の氏族解体、県への編成替えに向かいますが、社会の基層でも、農業生産力の発展による個別農民の経営強化が、社会再編の条件を作り出します。こうした小農経営の確立は、軍事編成単位として小農を自立化させようとする政策の結果でもありました。このように、戦国の動乱を通じて、皇帝と官僚機構、統一的軍事=行政編成、財政と中国的法規範といった専制国家の制度的枠組みが生まれます。その後、始皇帝の全国統一を経て、中国専制国家の編成が古典的完成を見るのは、紀元前二世紀中期の前漢武帝期ということになります。


それで、ここまでが中国専制国家形成の説明なんですが、足立先生は当然ながら単系的な発展法則という考えではありません。つまり他の発展経路というものを意識されています。その一つの例として挙げられるのが、ギリシャアテネの古代都市国家です。
アテネの国家形成は、中国のような発達した首長制を経過していませんでした。支配氏族の集住によってポリスの形成がBC8世紀頃に進行し、ポリス相互間の抗争時代が出現します。アテネの政治は、住民が戦士共同体へと組織されることで編成されました。国家の意思決定は成年男子の直接参加による民会により、民衆法廷も成年男子の直接参加による集会の形をとりました。官僚制は基本的に存在せず、特定人物への権力集中が慎重に排除されました。つまり、社会統合の二つの力のうち、中国とは反対に、集団的合議による構成員の規律の力を強化する、という発展の方向をとったと考えます。なお、アテネのような直接的な共同体編成は、狭い国家でしか機能しないものでした。アテネから国家編成を引き継いだローマは、国家の拡張とともに、直接的な共同体編成では支えることができず、行政機構が形成されて共和制が帝政によって取って替わられます。以後、政治体制の専制化とともに、共同体諸関係の解体が進行しました。
高度に発達した首長制社会からではない国家形成の事例に、もうひとつ近代国民国家を挙げます。前提となる封建社会は氏族社会ではなく、質の高い統合力を生み出してはいますが国家という形での組織体制を完結させていません。封建的共同体の相互関係のなかで上位権力の形成と集中化が始まり、絶対主義段階とともに封建社会の国家化が進行して近代国民国家が形成されました。未成熟な首長制社会からの国家、成熟した首長制社会からの国家とならんで、封建社会からの国家形成という発展経路を設けます。


ここまででも説明的というんでしょうか、正直そんな印象があるのですが、一番気になるのがこの先です。第4章「封建社会専制国家の発展」で、日本の封建社会の形成過程と、中国の専制国家形成過程の違いが論じられていて、ここが正直、首肯できないことがいろいろ出てくるんですね。ちょっと軽く追ってみますね。


日本における国家形成の特徴は、その後追い性にある、と足立氏は言います。中国からの稲作技術体系や専制国家モデルの導入も、中国からは大きく遅れてのスタートでした。中国では、農耕の開始から広域的な首長制体制形成へ、そして国家形成に至るまで数千年の歳月を要しましたが、日本は後追い的に、これを短い期間で社会に取り込みます。期間が短いだけでなく、社会全体の再編を要求するような長期にわたる軍事対立の時代を経過しなかったところが、中国との違いを考える上で重要だとします。
日本では、7世紀の後半に律令政治体制が立ち上がります。しかし、中国専制国家をモデルにした後追い的な国家形成は、一面では隋唐律令制をモデルとする完成度の高い国家枠組みを備えていましたが、他面では国家機構の形成が本格的な社会再編に裏付けられていませんでした。日本の「古代国家」は、広範な前国家的社会秩序に支えられており、有力氏族の力に依拠した支配や「世帯共同体」と評価される単婚家族の集団が存続していた、ということです。
専制国家の形式をとりつつも、それにふさわしい社会の実態を備えていなかった日本律令体制は、成立後まもなく本来の形では機能しなくなります。日本版専制国家は、田堵による請作や国司による請負体制など、取り分とともに職務を付託することによって存続が図られます。一方で、いわゆる「世帯共同体」と評価される単婚家族の集団が11世紀頃までに解体を遂げます。従来の集団によって担われてきた祭祀や水利などの社会的機能は、個別の小経営間の関係として再構築される必要がでてきます。日本の「国家」形成における社会統合能力の強化は、ここから社会の団体化として始まります。自立的な小農経営と彼らの取り結ぶ共同団体の成立。さらに、そのことが領主制の形成開始にもつながったと足立氏は説明します。共同体形成に必要な規範の共有のため、私人が立会人、規範の管理人となった時、その人物は社会の公共機能の管理者としての力を獲得することになり、領主の形成につながる。このようにして封建社会の基本的構成要素たる、小農経営・共同体・領主制が登場した、という説明になります。


さて、このあと日本の封建社会形成史が、続くのですが、正直このあたりが一番首肯できない部分でして、このまま要約していくのも、正直うーん、という感じなのです。例えば、小農経営と共同体の誕生と封建的な領主層の形成では、経緯や時代も違いますし、中世の初期から後期までの様々な歴史的契機を、あまりにも直結させて語り過ぎで、けっこう違和感があるのですね。それで、細かいところを、これは違う、あれも違う、とやっていくよりも、もっと全体的な枠組みのところからちゃんと考えたい、と思うので、要約はここまでにして、ここからは僕自身の考えをちょっと展開してみたいと思いますね。


まず、そもそもの本題に戻ります。なぜ、中国と日本では、国家形成が大きく異なったのか?これは、つまり社会編成というのはどのような条件に左右されるのか?という話でもあります。それで、足立先生は、歴史的な系譜や蓄積を重視されている。加えて「共同体的意思決定原理」と「指揮管理機能」社会統合の二つの原理を持ち出して、どのような力で社会統合が進められたのか、どこに分かれ道があったのかをみています。でも、なにかが足りない。それは外的条件、つまり地理、地形、気候、環境、資源といったものの違いが、どのように発展経路の違いに影響したのか、さらには技術的な発展が歴史的な契機として、どのように働いているのか。そこの具体性です。ですから、そこを丁寧に見ていきたいと思います。


農業をめぐる環境が、どのように違っていたのか、という点が、小農経営の成立やその共同のあり方に大きく影響しそうなことは、想像がつきます。
中国で農業生産が盛んに行われてきた地域の一つが、黄河流域になります。古都長安のあった内陸部の関中平原や現在の北京の南に広がる華北平原は、土地が肥沃で、粟(アワ)や黍(キビ)が栽培され、後に小麦が栽培されるようになります。一方、稲作中心のエリアは、長江下流域から両湖平原、四川盆地になります。特に長江下流域は、唐から宋の時代に稲作の生産性が大きく向上し、経済的にも発展したと言われています。地形図等で見ていただければわかるのですが、広大で、しかも比較的平坦な土地で農業が営まれてきました。
一方日本は、山国で国土の70%が山地です。山国とはいっても河川による土砂の堆積で河口周辺には広い平野があります。地形学的には沖積平野と言われるところで、現代では普通に水田が広がっていたりもします。ところが、そうした平野部、特に低湿地が農地として利用されるようになるのは、実は近世からなんです。比較的大きな河川の周辺は、氾濫原とか後背湿地と呼ばれるような土地が広がっていて、毎年のようにやってくる台風で氾濫することと、その水捌けの悪さで農地にはあまり向いていませんでした。ですから中世までは、洪積台地、河岸段丘扇状地というどちらかといえば山際の、それほど広くはなくても比較的平坦で、少し傾斜もあって水捌けのいい場所を中心に、農地が開発されていました。
とりあえずこの中国と日本の地形的な違いを頭の中でイメージしておいてください。これがあとあと効いてきます。


それでは、ここから日本の小農経営と共同体(惣村)の誕生を、環境と農業技術の面から、ちょっと追いかけてみます。農業の零細化が進行したのは鎌倉時代です。この前後で、農業の経営や技術にどのような変化がみられたのでしょうか。
律令体制の機能不全から、9世紀に公営田や官田という経営が生まれます。直営方式の田を設定し、町単位に分割して百姓の集団に委託、有力農民に監督にあたらせました。徴収が困難だった調・庸などの人的負担を土地別に課するという、人から土地への課税方式の変更でもありました。10世紀になると徴税の国司請負が進み、国司は耕作を有力農民「田堵」に委託します。「田堵」は隷属する農民を抱え、さらに周辺の農民も組織して経営を行いました。「田堵」の中には、勢力を拡大して「大名田堵」と呼ばれるものもあらわれます。10世紀後半には大名田堵が各地で勢力を強めて開墾が盛んにおこなわれるようになり、荘園が増加。11世紀後半から12世紀初期には荘園公領制に移行、荘園の整理と公領の強化が行われます。耕地の大部分を「名」として、かつての田堵など有力農民に割り当てられ、彼らは「名主」と呼ばれました。名主は隷属農民を使った直接経営や、小農民(作人)に耕作を請け負わせていました。このように、平安末期頃までは、有力な百姓による比較的規模の大きい経営が行われてきたのが特徴です。ところが13世紀、鎌倉時代に入ると、状況が変わってきます。農業経営の零細化の進行です。小規模でも「名」を手にして名主となり自立する作人や、それまで名主に隷属していた者たちのなかからも、作人となり隷属的な身分から解放されていきます。小農民の自立です。同時に、こうした農民を結びつける共同体が誕生します。惣村と呼ばれ、後に近世の村請制度につながる、力強い農村共同体です。
この時期が、一つのキーポイントです。なぜこのような変化が生まれたのか。その理由は、二毛作をはじめとする農業の集約化、だと言われてます。この時代に、農耕の技術に大きな変化があり、農業の集約化と零細化が進行したのです。
それでは集約化が零細化につながったのはなぜでしょうか。わかりやすいところで、二毛作をみていきます。二毛作とは、同じ耕地で一年の間に二種類の異なる作物を栽培することです。日本では、春から夏に稲を栽培して、秋からに春先にかけて麦などを栽培します。それまで同じ耕地では一年に一種類の作物だけでしたが、二種類の作物で合計二度の収穫があり、生産量が増えます。二毛作には技術的なポイントがあります。まず一つめが耕地に適切に水を引いたり排水ができるようにすることです。夏は水田にしますが、冬は畠地にするので、水を引くだけでなく排水もスムーズにできなくてはなりません。用水路や畦の整備などが必要になります。二つめが施肥の問題です。一年に二種類の作物を育てるわけですから、それだけ、地力(土地の栄養分)が低下します。そのため肥料を施さなくてはなりません。当時の肥料は、人糞尿、草や木を焼いた後にできる灰(草木灰)、そして刈敷(草木を刈ってそのまま田畑に敷きこんで地中で腐らせる施肥方法)といったものです。
それでは、このような耕作方法で、なぜ零細化が進んだのでしょうか。それはきめ細かな耕地の管理が必要だったからだと考えられます。それまでの大規模経営のような、下人や所従と呼ばれるような隷属農民に耕作をさせるような農業は、どうしても粗放な耕作になりがちでした。耕作する者にとっては、それが自分の土地ではなく、収穫が増減が直接自分の取り分に関係しなければ、自ら積極的に耕地のきめ細やかな整備、管理をすることはありません。しかし耕作者と土地の所有や収穫の恩恵が直接結びつく場合は、自分の仕事の成果が収穫増となって実を結ぶわけです。ですから、集約的で手間のかかる農法は、小規模経営のほうが向いていました。集約化は水田二毛作だけではありません。畠の二毛作、耕地を細かく区分けしての多品種の栽培など、畠作物も積極的に栽培され、これらは商品作物としても流通しはじめます。さらには不作地の減少(耕地利用率の上昇)や、それまで生産力の低い不安定とされてきた耕地も、適合した地種に選別し開発をすることで安定的な耕地に切り替わっていきます。領主層も、小農民が自立していくことを許容しました。零細化により集約化が進み、生産性が向上するため、より多くより確実な租税収入が期待されたからです。
それでは、このような零細化と小農民の自立と同時に、農民の共同体が形成されたのはなぜなのでしょうか。今見てきたように、農業の集約化にとって用水と施肥が重要になります。用水は、水路や溜池などの灌漑施設の開発や維持管理が、零細経営の規模では難しい。そこで有力農民が中心になりつつも、共同で開発・管理をするようになります。また施肥についても、刈敷につかう草木は、山で刈り取ってくるものです。山は燃料のために木々が伐採されますが、さらに肥料に使われる草木の刈り取りも自由に任せていたら、あっという間に禿山になってしまいます。長期的に山からの恩恵を受けようとすれば、伐採制限など共同で管理する必要が出てきます。そのために山野が「入会」と呼ばれる村の構成員の共有・管理の下に置かれるのです。そして、この二つの要請から、惣村と呼ばれる農民の力強い共同体が形成されたと考えられています。


ここまでの話を整理してみましょう。キーワードは経営や管理、開発、資本蓄積の「規模」です。耕作は、小農経営が効率的とされるような農耕の技術変化がありました。ゆえに零細化が進んだ。一方、用水や肥料の調達には、村という規模での開発や管理が効果を上げました。ゆえに農村レベルでの共同体が形成された。これは日本の地形・気象や、作物・耕作技術に適した形での「規模」になるわけです。じゃあ中国はどうなのか?というところで、農地の地形や環境等々の違いが出てくるわけですね。


中国は、古くから零細的な農業が行われていました。足立氏が言うように、鉄器の普及は大きいように思えます。中国は紀元前5世紀頃から製鉄が始まり、前漢の時代には広く普及しました。このことが、農業経営に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。伝統的な華北の乾地農法は、鉄製の鍬を用いた労働集約的な農法でした。零細経営が相対的にみて効率的な耕作の規模だったといえそうです。ついでに触れておくと、鉄器の普及は農業技術とともに戦闘技術にも大きな影響を与えました。足立氏は、軍事編成単位として小農を自立化させようとする政策が採られたことを上げますが、鉄器の普及で、大規模な歩兵の組織が戦闘で効果を持ったのかもしれません(すみません軍事史はまだあまり詳しくないので、よくわかりませんが...)。それでは、小農の自立が進行した一方で、日本とは異なり農民の共同体が生まれなかったのはなぜなのか?それはやはり地形、環境的な違いによると思います。
長江下流域の稲作が盛んな地域、それも「唐宋変革期」と言われる、生産性が大きく向上した時代の農業を見てみます。実はこのあたりのことが書いてある本は、専門書になってしまって、それこそ足立啓二氏の『明清中国の経済構造』には、いろいろよさげな論文が収録されているのですが、15,750円。近くの図書館にも入っていません。でもネット時代ってほんと素晴らしいです。いい具合の論文がpdfであげられているのをググって見つけました。
『宋代「河谷平野」地域の農業経営について : 江西・撫州の場合』大澤正昭 1989
『宋代江南における農耕技術史の方法的検討』市村導人 2011
『宋代以降の江南における「省力型」農耕技術』市村導人 2013
長江の南側に位置する江南地域、稲作を中心に畠作も様々な品種の栽培がおこなわれていたと考えられているんですが、宋代(10〜13世紀)には生産性がとても向上したと言われています。この江南地域は、東側に太湖を中心に長江デルタが広がっていて、南西には山地があります。この山地と山地の間の河谷平野は、扇状地・支谷といった、傾斜地または河川・湖沼沿いの低地など、農業に最も適する土地が広がっています。宋代には、河谷平野で集約的な農業が発展します。日本の地形条件と似ていますよね。水捌けも良く、小規模な灌漑施設の開発で間に合います。ただし経営の展開は、少し日本とは違っていたようです。溜池等の開発は豊かな地主農家によって行われ、経営も隷属農民を使った直接経営だったようです。しかし集約的な農業では、直接経営で規模を広げることが難しく、一定面積以上の土地は小作地として貸し出されるなど、地主の成長は制約されたようです。
一方、長江デルタの地域は、低湿地で水捌けも悪く、大規模な灌漑工事を行わなければ、河谷平野でおこなわれていたような集約的な農業を行うことはできませんでした。休閑をはさむ水田耕地など、低田の持つ高い地力ポテンシャルを効率的にかつ省力的に発揮させる農耕がおこなわれていたようです。ところが、このような長江デルタ地帯も、明代に入ると国家的規模での大規模な水利工事や、灌漑排水条件改善のための耕地の再編、整備が行われます。これにより集約的な農業が可能となり、長江デルタの地域が全国の最先進水稲作地へと転換していきます。


どうでしょうか。日本のような農村共同体を生み出すような契機があまりないですよね。特に長江デルタ地域では、日本の農民共同体のような規模での用水の開発や山野の管理の要請はまったくなさそうです。このようにしてみると、足立氏がこの専制国家史論で展開したような「日本の国家形成の特徴はその後追い性」というような観点から中国との違いをみるのとは、ずいぶん印象が違ってきます。
さらに付け加えると、足立氏は、農業技術の発達による経営の零細化・小農化は、ある意味歴史の必然、みたいな扱いをしているんですよね。確かに日本と中国だけをみれば、農業技術の発達が集約化に向かい、経営の零細化が進行します。これは東アジアの農業の特徴でもあります。でも世界の他の地域の農業史に目を向ければ、そんなものは必然でもなんでもないのです。例を上げるとロシア。ロシアは強力な地主による大規模な土地所有のもと隷属農民による耕作が行われてきました。ロシア革命で地主から土地を取り上げられた後も、結局スターリンによりコルホーズソフホーズというある意味農奴制的な経営が復活しました。これはロシアの農業が遅れていたからなのでしょうか?他にも、南米は強大な地主制で有名ですよね。この地主制は20世紀後半にも残っていて、経済発展を妨げたとも言われています。
もうひとつ例を出しますね。中欧と呼ばれる地域、ドイツの東側やポーランドチェコハンガリーのあたりは、12世紀頃から小農自立が進みます。ところが、14世紀以降は大規模な地主制による農業に変わるんです。これは歴史的な後退なのか?って話です。僕は、14世紀中頃以降の寒冷化が一つの原因なのではないか?と睨んでいます。西ヨーロッパは北大西洋海流による温暖な気候ですが、東ヨーロッパは大陸性の気候になります。このことが農業経営のありようを分けた一つの理由だとも考えられます。中欧はちょうどその境目です。温暖期だった10世紀〜13世紀と寒冷期の14世紀〜19世紀で、農業が変わったと考えられるのではないか、という推理です。あとは西ヨーロッパとの地域的分業の進行、という理由もありそうです。まだちゃんと調べていないのでなんとも言えませんが。


というわけでダラダラと自説を展開しました。
足立先生のこの本もそうなんですが、こうした歴史的な見方をしていけば、マルクス的な19世紀西欧の歴史観、というより、私たちのなかにも漠然とある進歩発展的な歴史観を、あらためて冷静に考え直させてくれます。マルクスは、土台(経済)は上部構造を規定する、と言いましたが、「経済」は単純に階級対立だけでは語れないのです。


こうした共同体、社会史、国家史をみていると、そこには間違いなく経済史が重要な意味を持っていることがわかります。そして経済的観点で歴史を見ていくと、経済というものがバラバラな個人の利己的行動というよりは、社会的制度的な関係性の上に成立しているということがよく見えてきます。同時に、共同・統合の論理、規範、法制史などを追っていくと、社会や制度が歴史的構築物だという側面も明らかになります。


今回は、足立先生の本をきっかけに、日本の封建社会の形成についても、ほんのさわりだけ展開してみました。このあと戦国大名の誕生や、近世でのさらなる小農自立と一子相続によるイエの誕生なども、経済的観点からみていくといろいろおもしろいです。さらにはそこでの共同規範、社会規範的なものの形成、発展の歴史もとても興味深いので、なんとかそのあたりも展開してみたいですね。そして、西欧のゲルマン的共同体の誕生や封建社会の形成との違いをみていくと、ようやく日本の「世間」と、西欧の「社会」「公共」との違いも見えてきます。そこはまたじっくりと...


参考文献:

日本農業史

日本農業史

詳説日本史研究

詳説日本史研究

足立啓二『専制国家史論』

ずっと放置してました。ものすごく久しぶりの更新です。
前回は、2011年の12月に與那覇潤『中国化する日本』という本を読んであれこれ思ったことを書きました。それからもう2年近くですが、今回も話はつながってます。中国史です。

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

この本は、與那覇さんの『中国化する日本』が話題になったときにも、何人かの人が言及していた本です。『中国化する日本』が、中国の共同体や中間団体が弱く、流動性が高くて自由なところを「進んでいる」としたのに対して、『専制国家史論』ではそこを逆にマイナス面としてみている、というのが、この本に言及があった理由だと思います。それで、『中国化する日本』との対比で紹介する、というのもアリだとは思うのですが、今回は自分の関心に合わせて、以前紹介した大塚久雄の『共同体の基礎理論』からの流れで、『専制国家史論』についていろいろと書いていきたいと思います。


まずその前に、おさらいとして、以前のエントリーから。
大塚久雄「共同体の基礎理論」 - コバヤシユウスケの教養帳
大塚久雄の『共同体の基礎理論』は、マルクス歴史観が下敷きになっています。原始共同体から奴隷制封建制、資本主義へと発展していく、そこ共同体という側面から「アジア的形態」→「古典古代的形態」→「ゲルマン的形態」として、そのなかで共同体の規制から個人が徐々に開放され、土地所有における私的領域が拡大していく、という法則を見いだしています。ところが、このような歴史観というのは、その後大きく見直されていくんですね。その最大の理由というのは、マルクスがイメージしていた西欧史とはかなり趣を異にする歴史的変遷を、西欧以外の地域ではたどってきている、ということが歴史研究によって明らかになってきたからです。そして、特に中国が、マルクス歴史観からは大きく外れた社会の構造を古くから有していました。
『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』小野塚知二 沼尻晃伸 編著 - コバヤシユウスケの教養帳
上のエントリーは、2007年出版の『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』という本の紹介ですが、この本のなかの三品英憲「大塚久雄と近代中国農村研究」を取り上げています。ここでは"大塚共同体論は中国村落を説明できない"として、1940年代初めの戒能通孝の研究が紹介されています。戒能の研究では、中国農村社会での土地の所有権が、外面的には近代的所有権の特徴をそなえていて、また村落における共同体的な結合も非常に弱いことが明らかなっています。このことは中国の社会が、マルクス歴史観から見て、資本主義の全面的な展開に真っ先に向かいそうな、土地や共同体から個人が切り離された社会だということになります。でも、そうであったにもかかわらず、中国が西欧や日本に比べて近代化に手間取った、という現実はなにを意味するのでしょうか。


戒能通孝に代表される、戦前・戦中期の日本におけるレベルの高い中国の社会研究があったにもかかわらず、戦後日本の中国史研究は、ヨーロッパの単系的な歴史の発展法則を当てはめていくものが中心となります。そうしたなかで、1970年代以降になってようやく、戦前・戦中期の中国社会研究を批判的に取り入れつつ、現代中国をも射程に入れた中国史の体系的把握を目指した研究が、「中国史研究会」等によって進められました。「中国史研究会」の一員であった足立啓二氏が、そこでの成果も踏まえて書いたのがこの『専制国家史論』です。


実は今書いたような中国の社会や国家の歴史的認識のこれまでの系譜については、この本の第1章「専制国家認識の系譜」にまとめられています。そして、このような中国専制国家認識の変遷を踏まえ、現在の到達の上に立って、中国専制国家の構造と歴史的な変遷について展開していきます。


それで今回は、この本のなかでも、近代化や資本主義への移行が、日本と中国でなぜこのように違ったのか、というところを取り上げたいと思います。第5章「近代への移行―その一 経済」です。
ここでは、日本と中国の商業・流通の展開の違いを、歴史的にみています。ちょっと要約(といってもかなり長いですが...)していきたいと思います。



中国社会は、早くから流通に大きく依存してきました。共同体が無いため、村人同士での組織的な労働交換が行われません。ですから、農繁期など労働力が不足する時期には、労働力を購入します。彼らは、可能な限り自らの労働力を売って収入を得て、逆に必要な労働力は購入します。共同体のない社会では、農民経済は外部経済に依存せざるを得ません。「隣同士の交換」でさえも、流通を形成します。加えて、男子均分相続であるために農地が分割相続され、経営が常に零細化への圧力にさらされました。零細な農民家族の経済は、自給的に完結することが難しく、常に外部からの購入に依存するのです。中国の家族は安定性と継続性に乏しいため、流通への依存が高かったのです。日本の近世における、農家の経営の自己完結性の高さとは対照的です。中国では農産物の商品化率も高かったと考えられます。近代での統計ですが、1920年代前半の中国の農産物の商品化率が52.7%(J・L・バックの調査)、日本では、1936年の日本の農家の生産物商品化率を小経営で47.7%、中経営で46.7%、大経営では21.9%(帝国農会『農業経営調査』をもとにした栗原百寿の推計)と、日本と比べても中国の農産物の商品化率が高かったことがわかります。
一方、広域の物流については、中国は公権力性をもった中間団体がないため、基本的には統一された専制国家によってのみ組織されていました。


このような特徴を持つ中国社会が、実際にどのような経済パフォーマンスを発揮してきたのか、その具体例として、棉業について日中の違いを見ていきます。
中国では棉花の歴史は古く、栽培・加工は広く普及していました。しかし、開港前(1842年 南京条約での五港の開港)の中国でも「棉花市場」が支配的でした。日本でいう繰り綿、中国では軋棉と呼ばれる、種を取り除いただけの糸を紡ぐ手前の状態で、全国の非棉作地域に送り出されていました。それらは自給のための農家の作業、あるいは零細農家の農外作業によって、棉布に仕上げられていました。
一方日本では、中国に500年程遅れて、15世紀末から16世紀中頃に棉作は始まりますが、その後の展開は急速です。17世紀になると棉業は本格的な展開をとげ、該地で紡績・織布されるほか、繰り綿の状態で棉花生産に乏しい地域に移出されるようになり、18世紀を通じて流通はさらに拡大しました。近世後期には、一部地域で生産と流通に変化が生まれます。中国で開発されながらも中国では普及しなかった高機が導入されるなど、分業化された労働に支えられ、労働生産性の向上が顕著になります。専業の織り屋が形成され、紡績部門は外注化されるなど、地域性をともなった紡績と織布の分離が出現。先進地で織りあげられた棉布が、全国的に流通します。「棉花市場」から「棉布市場」の段階へと移行するのです。
棉業で見る限り、中国は日本のような生産の組織化や分業化が進行せず、そのことがある段階以降の市場の量的拡大を制約し、集中した生産の展開を阻害したと考えられます。では、なぜ中国では生産の組織化や分業化が進行しなかったのでしょうか。著者は、中国の市場形態の特徴である「流通」の組織構成の低さ、に注目します。


中国の流通の末端は、市集などと呼ばれる定期市です。中国の定期市は、地域内の交換の場としても機能するため、大きな役割を担ってます。一方で広域流通を担うのが「客商」です。生産地や集散地で買い付けし、輸送手段を随時調達しながら消費地まで運びます。市集や客商の間で、仲介機能を果たすのが「牙人」。市集で価格の調停や秤量、生産地での委託買い付けや消費地でや委託販売、船や馬などの輸送手段の斡旋、宿の提供などを行います。輸送業者は零細業者がほとんどで信頼度はきわめて低いため、輸送を全面的に委託することが難しく、輸送に同行する必要がありました。このように構成された流通は、自律的で閉鎖的な団体や公権力による規制が薄弱で、非閉鎖的・非固定的なものでした。
日本でも、中世の時代には、流通の構造は中国と多くの点で類似性を持っていました。流通の末端は定期市であり、広域流通を担うのは中国の「客商」に似た遍歴的な商人、中国の「牙人」に相当するのが問丸です。輸送業者も中国と類似していました。しかし一方で質的な相違が見られます。定期市は、販売座席の固定性など市場運営の組織性が、参加自由な中国の定期市と対照的です。移動商人も、参入自由な中国の客商に対して、日本の行商人は、初期には公家・寺社等の供御を行う住人が販売独占権を与えられたり、地域内の住人が領主からの営業許可を受けたり、一定の特権の承認を受けて商人となりました。彼らは集荷地・販売地・あるいは交通路にさえ独占権を確保して、時には武装商人集団として商行為を行います。問丸も、元来は一種の荘官として、年貢米等の保管・輸送・換金・上納のための買い付けを行ったことに起源し、要所ごとに独占的地位を確保していました。輸送業者も団体を持っており、時には海賊に典型的にみられるように、輸送業組織自体が領主体制の一部をなしていました。
中国の流通構造が近代に至っても基本的な部分で変わらなかったのに対して、日本では中世から近世への移行期に、組織的固定性が急速に強化されました。取引の中心は定期市から常設店舗へ移行。卸と小売といった商業の分業化と系列化の進行。領主による流通統制で、特定の商人に領内外を結ぶ取引の独占権を与えられると、他の商人は仲買や小売りとして系列化されました。宿駅制度は、運輸業の安定化・自立化が、封建団体や領主支配と結びつく形で実現しました。組織的で信頼度の高い交通・運輸・通信業者が生まれ、文書による発注、問屋を介した荷物の送達、為替による決済が、安定的に可能になりました。常設店舗取引が一般化し、商人ごとに取扱商品と取扱地域が固定化。卸―小売、仲買―問屋等の形で系列化されます。運輸・通信業の自立化によって商人が輸送行為から離脱可能になると、自ら買い付けし・輸送し・販売する移動商人と彼らを仲介する委託売買業者という体制は非効率なものとなり、自己資本商人の間での遠隔地取引が普及していきます。


固定的・閉鎖的な封建社会は、資本成長の条件でもありました。営業権の独占により、市場の拡大が経営の拡大にそのままつながりました。また他分野への自由な参入ができないことは、資本が高利潤を求めて浮動することを抑え、資本の内部蓄積・経営規模拡大に向かいやすくします。家名・家業・家産の一貫性を柱とする封建的なイエ制度は、経営の安定的な継続を補償する仕組みとして理想的です。中国の徹底した均分相続と不安定な財産関係と比較すれば、そのことは明瞭です。
日本商業の構造的組織化が進行した要因は、中世から近世への移行にともなう社会・政治構造の変化でした。イエ・ムラをはじめとする封建的団体形成の進行、領主権の集中といった社会・政治の組織化、その結果実現する団体内・団体間の信用関係の安定が、日本の中世商業が持っていた組織的側面を急速に成長させたのです。
一方中国では、社会の団体的組織化が進行せず、団体を媒介とする国家支配の組織強化も実現しませんでした。同業者組織は国家の行・財政の下請け機構でしかなく、日本の座や株仲間などのようなメンバーシップが特権でもある自治的な共同団体とは全く異なっていました。営業にかかわる団体的規制も少なく、国家の統制も、末端の流通を管理することはできませんでした。商業は依然として自由度が高く、かつ信頼度に乏しかったのです。参入と退出が自由な状況では、特定の経営が特定の営業分野に固定されにくく、また規範が広く共有されない社会のもとでは、分業は常に多くのリスクを伴いました。安定した分業が形成されなければ、各部面ごとの技術的蓄積や資本蓄積、経営の内包的に発展は困難です。近世日本における商業の構造化や分業的発展とは対照的な中国の事態は、このような事情に根拠を持っていたと考えられます。


客商―牙人体制は、経営の拡大を制約しました。客商にとっては、集荷や卸売りの体制が弱ければ、取扱量の増大は経営上のメリットになりません。運輸業の信頼度が低いので大量の現金や商品の輸送も困難かつ危険です。また牙人は、客商の委託をうけて売買する仲介者にすぎず、大きな自己資本をもった経営ではありません。有利な仲介分野には参入者が集まるため、経営規模を引き下げます。
日本では、農村部での仲買商でさえ経営規模は大きく、幕末の知多半島には、織元から白木綿の買い付けをする仲買が100株いました。平均で一萬反近くを取り扱っていたと考えられていますが、この規模で既に中国の客商の一般的水準を超えています。仲買から集荷する知多半島五株の買次問屋は、一問屋あたり10万反、価格にして中国の銀両表示で銀五万両、日本表示一万両(金)程度の取扱量となります。これらを集約する都市問屋は、銀両表示で優に銀数十万両の取り扱いとなり、資産額にして三井が金100万両(日本の金銀比価で銀600万両、中国の比価で銀1500万両程度)、鴻池や大丸下村家で銀400万両台の水準に達しました。
中国は、商業資本の集積は大きくなく、明代後期で、最大規模の山西商人の資産額でも銀数十万両。清朝最末期では、数千万両と号して突出する亢氏を含めて、銀100万両を超えると評されるのは七姓に過ぎず、この資産額も亢氏等と一括される幾家族かの合計で、分散的に運用されていました。


客商―牙人体制は、流通コストも高くつきました。流通経費を引き上げる最も大きな要因は、輸送・販売の不確定性です。輸送手段・販売先を選択しつつ行われる商行為は、利潤実現自身が不安定で途中における危険性も高いため、客商の販売価格は原価の三倍程度が求められました。牙人や輸送業者も同様で、近代になってからも、牙人は仲介行為のみで4〜5%の手数料をとっていました。
日本の場合は、取扱量が大きく取引関係は固定的でリスクも少ないので、流通経費が抑えられました。先の知多半島の場合、仲買は二%、買次問屋も二%のマージンを取るのみで、輸送経費を入れても、買次問屋の手を離れるまでに、織元販売価格の六・三%が上積みされるに過ぎません。江戸問屋の取り分も五%である。幕末、近江商人が大阪より仙台まではるばる繰り棉を送る場合、大阪払いの荷造費を入れても、運賃は仕入れ価格の10%程度、酒田〜仙台間の陸運経費を除くと4%程度に過ぎませんでした。


客商―牙人体制は、高い利子率と傾向的な投機性の源にもなっていました。近世日本の商業資本は、絶対額で大きな収益を実現してましたが、成長した商業資本が傾向的に収益率を低下させることが広く確認されています。このことが、日本の近世通じての利子率の低下と関係しているということは、十分に考えられます。一方中国では、商業資本の資本装備は著しく低く、不安定市場の下で「原価の三倍での販売」が実現すれば、資本額に比して大きな収益が実現します。中国の利子率は日本ほどには低下を見せることなく、比較的高水準を続けました。商業資本に対する貸し付けは、一般的には月利1%強、年間10〜20%の水準が維持されました。


日本では、中世から近世への移行期に社会編成が転換され、商行為の構造的組織化が進行し、流通経費の低下・経営規模拡大・資本集積・利子率低下等が進行します。このことが近代への移行の上で有利な条件を提供したことは疑いありません。一方で中国では、社会そのものの組織性の低さに規定されて、流通形態が基本的なところで変化しなかったのです。



要約は以上です。ずいぶん長くなってしまいましたが、どうでしょうか。自由で開放的で流動性の高い市場こそが資本主義的発展に必要なんだ、という昨今よく聞かれる考えとは真逆のお話ですよね。むしろ日本の封建社会のイエ、ムラといった団体性、領主による規制や一部団体の特権や独占などの存在が、資本主義的な発展を準備した、ということですから。このことは当然、西ヨーロッパの中世封建社会にも当てはまりそうです。そして、封建社会が形成されなかった専制国家中国との対比が、そのことを明らかにしてくれています。
最近の新自由主義的な風潮からすれば、ちょっと新鮮に感じられるかも知れません。ただ注目は、新自由主義的な経済観もそうなんですが、マルクス大塚久雄歴史観からみても、やはり逆な話になっているということなんですよね。古い封建的な共同態規制から解放されて私的所有が拡大していくことが、歴史発展の方向であり、資本主義的発展の条件であった、というマルクス的な歴史観とは相容れない話です。このブログでも、上で書いたようにここで、戒能通孝の研究を引きながら、大塚共同体論は中国村落を説明できない、という三品英憲氏の報告も紹介していますが、やはり中国史を考えることが、マルクス的な歴史観、いやもっと言えば19世紀的な西欧の歴史観を見直すうえで、とても重要だということがわかります。


一つ引用してみます。

中国の流通経費の高さを、封建的な市場構造に帰する解説が多い。しかし実際にはむしろ封建的でなかったことに原因がある。商業資本の市場支配と搾取に求めるのも誤りである。むしろ市場支配力のない相対的に零細な商業資本の乱立が、高い流通経費を生んでいた。日本では、封建的な独占性と固定性が、大局的には流通経費を引き下げ、しかも先の買次問屋で、銀両表示年間1000両程度の粗収益を生んでいた。

これなんかは、大塚久雄の「前期的資本」の考え方に、再考を迫るものです。大塚久雄の「前期的資本」については、このブログでもここで、紹介していますが、大塚久雄は「前期的資本」を、専制国家や封建制など、その時代時代の政治支配機構と深く結び付き、寄生し、それを補完してきたものとして捉え、専制国家の下での商業資本や高利貸資本も、中世の西ヨーロッパや近世日本の封建制下の「貨幣経済」の発達も、すべて「前期的資本」で括っています。ところが、中国を考えると、むしろ封建社会に深く結びついた商業資本こそが、近代「産業資本」を準備していたのであって、非閉鎖的で自由な商業資本や高利貸資本は、国家体制や団体・社会と深く結び付いていなかったが故に、資本の蓄積や分業の拡大・進行に結び付かなかった、と受け取れます。どうでしょうか。
このあたりはもっともっと突っ込んでいきたいテーマですね。


ところで、実はこの専制国家史論。19世紀西欧的な歴史観をきっちりと再考する内容でもあるんですが、一方で、その西欧近代の歴史観から逃れきれてないんじゃないの?と思えてしまう部分もあるんです。それが第3章「専制国家の形成」と第4章「封建社会専制国家の発展」の内容です。
ということで、この部分についての違和感というか反論というか、自説の垂れ流しは、次回にします。


そうそう、この本、版元切れしていて、図書館か古本でしか読めなくなっている本なんです。1998年出版なんですが、すこし時代が悪かったのでしょうか。日本経済が停滞して中国経済が急伸していた時期ですから。もう十年前だったら、日本経済すごい!日本的経営万歳!な時代の空気にも合って、もっと話題になったかもしれませんね。『文明としてのイエ社会』(村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎)みたいに。ああでも『文明としてのイエ社会』も絶版か。そういうご時世なんでしょう。

『中国化する日本』與那覇潤 を読んであれこれ

ずいぶんと更新をご無沙汰していました。前回、ゲルマン的形態と日本の村落共同体の比較をすると予告しておいたんですが、その後いろいろ関連本を読み始めたら、これが実に奥が深い、簡単じゃない...それで、すっかり歴史の面白さにはまってしまいまして、近所の大学図書館にお世話になりつつ、歴史本読みまくりの日々です。


それで、ひさしぶりの更新にあたって。まあ予告通り共同体の歴史について書こうという意思はあるのですが、これはもうちょっと脳内で熟成させたい、という思いもある。そんな折、ちょっとネタにするのによさげな本があったので、今回はその本の感想などを。


中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史


これはネタなのか?マジなのか?と随所で戸惑う本。正直、著者の意図がどこに向かっているのかが最後まで読まないと、いや最後まで読んでもよくわからない、ということで読みながらある意味イラついてしまった本です。たぶん、ほんとはニヤニヤしながら読むのが正しいのでしょうけど...


古臭い「脱亜入欧」的歴史観での日本近代化の「近代化」の部分を「中国化」に置き換えて、その対立軸に「江戸時代化」という概念を設け、「江戸時代化 ←→ 中国化」という二項対立の図式で、中世から現代までの日本史を説明しちゃいましょう、という良く言えば野心的、悪く言えばひどく乱暴な内容の本です。
このような単純な図式を、歴史に当てはめていくので、内容のディテールの部分が、ずいぶんと乱暴です。紹介される書籍も多岐にわたっていて、それこそサブカル関係にまで広がっているのですが、一面的な解釈による紹介も多く、さらにはその世界であまりコンセンサスを得られていないようなものも平気で出てきます。
文章のノリは、映画やアニメなど、サブカル関係にまで広げるところは、浅羽通明みたいな感じなんですが、ものすごいシニカルに乱暴な単純化をするところは、ちきりんとか藤沢数希みたいになる。しかも「定説です」とか「定石です」とか「標準的な考えです」「主流の地位を占める」なんて言葉をつけるところは、まるで池田信夫
ゆえにですよ。僕は読んでいてものすごくイラついたし、でもイラつけばイラつくほど著者の術中にはまっているのでは、という、やはり狙ってやっているのか?とも思うわけで、そのなんともいえない感覚のまま、とにかく最後まで読みました。ちょっと意地になって。
そして、頑張って最後まで読んだからからこそ、このなんともいえない頭のなかに溜まった違和感や不快感、この本にたいする突っ込みとか、そんなものを吐き出さないと、やっぱりおさまりがつかないな、ということで、今回のエントリーになるわけです。
それで、この本のディテール部分での展開をいちいち批判・検証するのも、なんかどうもネタにマジレスカッコ悪い、的な感じであり、それはそれで作業的にも面倒くさそうなので、ここではこの話の核となる「江戸時代化 ←→ 中国化」という枠組みについて考えてみようと思います。


中国を歴史的にみて、近代化がもっとも進行していた国、と捉える考え方自体は、それほど目新しいものでも突飛なものでもありません。以前ここで大塚久雄の『共同体の基礎理論』をあつかった際に、「共同所有・共同態規制 → 私的所有・私的領域の自立」という図式を、中国農村社会に当てはめると、中国では私的所有が古くから進んでいて地縁的な共同体も存在しない近代的な所有形態が最も進行した社会、と言えてしまう、ということを紹介しました。大塚久雄の『共同体の基礎理論』自体は、マルクス唯物史観がベースとなっています。そして、マルクス唯物史観も、それこそ19世紀以前の「近代」観からきています。
栄光の「古代」ギリシャ・ローマが衰退したのち、暗黒の「中世」という時代を経た後、ルネッサンス(再生)により「近代」をむかえた、と考えた初期近代知識人の歴史観。そのなかでも「中世」→「近代」を、封建制からの解放と捉える「近代」観はそのまま19世紀にまで引き継がれました。この「封建・組織・隷属 → 自由・個人・解放」という二項対立の「近代」観。これをそのまま中国に当てはめると、中国は近代化がもっとも進行していた国、ともなるわけです。
ところで、このような二項対立の図式は、歴史学の分野において数多くの類似系があって、有名なのは、ピレンヌに代表される 西欧中世における農村と都市の対立的な捉え方。日本においても、阿部謹也が西欧中世都市のアジール性を強調したり、網野善彦が日本中世史で「無縁」「漂泊民」に自由を見いだしたり、といったところにもつながっています。
ちょっと話は逸れますが、この本を読んでいてふと思い出したのが、松尾匡さんの『商人道のススメ』。『国家の品格』の武士道に対抗して、これからは商人道だ!ってなことで、近江商人の話とかが紹介されているのですが、松尾さんは武士道を「身内集団原理」、商人道を「開放個人主義原理」としていて、ああなんて古臭い陳腐な枠組みに当てはめちゃうの、と読んでてがっくりしちゃったんですが、これも似たような図式ですよね。松尾さんの「開放個人主義原理」には性善的な合理的個人が含意されてはいますが...。
そんなわけで、それこそ政治・社会・経済思想の分野では、このような二項対立の図式は広く見られます。もっともわかりやすいところでは 保守 ←→ リベラル だし、さらには 社会民主主義 ←→ 新自由主義 だったり、ケインズ ←→ 新古典派ガラパゴス ←→ グローバリズム なんてのもある。特に近年、新自由主義が広まる中で、このような二項対立の図式は、むしろ力を持ってきたとすら言えます。そもそもリバタリアニズムだとか共産主義だとかアナーキズムなんてのは、このような二項対立的な世界観のなかで「解放」「自由」の側の極みを目指す、という意味でとっても似ていたりするわけで、まあ人間の思考なんてものは、このような二項対立的な世界観からは簡単には抜け出せないのかもしれません。最近もネットで「原発止めたら江戸時代に逆行だ」「江戸時代に戻ることのなにが悪い」「江戸時代に戻ろうとは、なんと馬鹿な」なんてdisり合いをみたのですが、こうなると正直なんだかわけわかりません。


まあずいぶん話は逸れちゃったいましたが、要するに「江戸時代化 ←→ 中国化」というフレームがなんとも陳腐な「近代」観の焼き直しにしか見えないのです。だから実際、この本のなかでも現代日本の話になると「中国化」≒「新自由主義」になっていて、散々見聞きした、既得権益 ←→ 自由競争、保護・規制 ←→ 開放・グローバリズム という構図が「江戸時代化 ←→ 中国化」と重ねられていて、この閉塞感を打破するためには新自由主義的な「中国化」が必然だ、みたいな話になっちゃう。そりゃそうですよ。初めから新自由主義的な二項対立の図式を当てはめながら歴史を追っかけているんですから。


話を戻します。そもそもこの二項対立的な「近代」観のもとでは「中国は近代化がもっとも進行していた」と言えてしまう、ということでした。それでは、多くの歴史家や社会科学系の知識人の間で「中国は近代化がもっとも進行していた」というコンセンサスは広がったのでしょうか。そんなことはないですよね。むしろそれ以前から、従来の「近代」観のほうにこそ疑問が呈されていました。
20世紀以後それも戦後に、西欧史の分野では従来の歴史観が改められるような多く歴史研究の成果があげられてきています。特に西欧「中世」の研究は、従来の「中世」観を大きく塗り替えるものとなりました。それは、近代が「中世という封建的な世界からの解放」だったのではなく、むしろ「中世」によってこそ西欧近代が基礎づけられたとされ、「中世 → 近代」は歴史的な画期を孕みながらも、ある意味連続的な変化でもあり、動学的な把握が求められてきています。さらには西欧中世というのは世界史的にみても実にユニークな世界であって、なにか一般的・普遍的な概念に当てはめて単純化できるようなものでもない、という、まあ考えてみればいたって当たり前の話になっています。


で、そうなると、普遍的な意味合いとしての「近代化」って、いったいなんなのか、ということにもなっちゃって、「中国化」って実際どうなのよ?ということを考えるフックのようなものすらなくなっちゃう。で、結局なんにも言えませんね、なんてオチになっちゃうのもそれはそれでバカらしいので、ここではとりあえず経済的な拡大・発展という側面にだけグッと絞って、さらに話を進めていこうと思います。


西欧中世 → 近代での経済の拡大・発展の進行。そのことを考えるにあたってのポイントは、どのような規模でどのようにして資本蓄積がなされ拡大してきたのか、同時にどのような範囲でどのようにして外部不経済や取引コストを減らし分業・交換等の市場的関係性を広げてきたのか、その時代ごとでの変遷にある、と僕は思ってます。農民のフーフェやマルクを基礎単位とした私的資本蓄積、村や教区、領邦内での共同・分業・交換による相互依存と市場関係の拡大。領主や教会による私的資本蓄積。そして領邦を越えた相互依存から国民国家形成と資本のさらなる集約・蓄積。そして階級分化。さらには国家を超えた相互依存と資本のさらなる集約・蓄積・・・。このように、西欧独自のユニークな、農村共同体だの教会だの領主制だの都市だの国民国家だの絶対王政だの共和制だのといったものが、いろいろなかたちで絡み合いながら、紆余曲折もありつつ資本蓄積の規模と市場による相互依存の拡大が進行してきた、ということがおおざっぱには言えるのです。これを、日本に当てはめて考えれば、じつに日本的なオリジナリティあふれる、惣村、戦国大名、地租改正、兵農分離、村落共同体、城下町、藩、幕府、維新、廃藩置県、等々が複雑に絡み合いながらも、やはり大くくりでみれば資本蓄積と市場の拡大が進行してきた、となります。そして、問題は中国です。


なぜ西欧が世界で抜きに出て資本主義的な経済発展を遂げ、さらになぜアジアにおいて日本だけが19世紀後半から20世紀にかけて、同じように資本主義的な経済発展を遂げたのか?逆に言えば、なぜ中国は資本主義的な経済発展が遅れたのか?よく聞く問題設定ですよね。しかもこの本では中国がもっとも早く「近代化」をしていた、ということを言っているわけです。
それで、この本では「どうして中国や朝鮮は近代化に失敗したのに、日本だけが明治維新に成功したのか?」という問いに対する答えとして、こんな説明をしている。

日本にとっての「近代化」や「明治維新」は要するに「中国化」の別名に過ぎないのだから、「どうして中国や朝鮮は中国化に失敗したのに、日本だけが中国化に成功したのか?」などという問いは文字通りナンセンスです。だって中国は「中国化」するまでもなく最初から(厳密には宋代から。朝鮮は本当はもっと複雑ですが、おおむね李朝から)中国なんですから。

もうね。僕の頭のなかに?マークがポンポンポンポンっと10個くらい浮かんだですよ。おちょくられているのかな?と。


中国が、日本のように資本主義的な経済発展にスムーズに移行できなかった理由は、中国のその「近代的」な社会構造にあります。私的所有が徹底していて地縁的共同体もない。身分もなく領主的支配もない。そんな社会では、経済活動の現場に根ざした適度な規模での資本集約や蓄積がなかなか進行しませんでした。中国では一子相続ではなく分割相続だったことも大きな理由のひとつです。同時に共同態規範といったものが薄く、また領主支配による流通税収入等を期待した市場の規制・整備等もないので、所有権の安全や契約の遵守が保証されにくい不安定な市場でもあり、たとえ自由な取引が可能であっても「取引コスト」がかかりすぎてしまう。ゆえに情報の非対称性を利用したり、リスクを引き受けることで利益を得る、ブローカー的な、それこそ大塚久雄の言う「前期的資本」がメインプレイヤーであり、市場取引の発展にも制約がありました。
それでは1990年代になって、中国が飛躍的な経済発展を成し遂げることができたのはなぜでしょうか。これは技術的な進歩と経済のグローバル化によるところが大きいと考えられます。19世紀ヨーロッパのようなマニュファクチュアから工場制機械工業への移行とか、日本の町工場・中小企業の発展というような、小・中規模な資本の集約・蓄積を経なくても、多国籍企業や国際資本による大規模な資本投下によって資本蓄積が進められ、国際的な分業の一翼を担いつつ、さらにはそれを梃子にして国内市場も拡大し、資本主義的な経済発展を遂げることができたのです。これは中国だけでなく、インドやブラジルなどのBRICsをはじめ、それまで資本主義的な経済への移行にもたついてきた多くの国で、爆発的な経済発展が進行します。まさにグローバリズムの時代の到来です。


で、ですよ。この本の著者は、こんなことは百も承知なはずなんですよ。知ってないわけがない。にもかかわらず、“だって中国は「中国化」するまでもなく最初から中国なんですから”なんて、煙に巻くようなこと書くもんだから、まあこっちはイラつくわけです。
おそらく著者は、欧米や日本のような資本主義的発展を推し進めてきた様々な階層や立体的な制度、社会構造が、今まさにグローバル化の流れのなかで、むしろ足枷になってきている、と言いたいんだろうと思います。一方で中国は、個々バラバラでやっかいな中間団体も無く、レッセフェールで流動的。まさに今先進国が進めようとしている新自由主義的な社会のあり方を、とっくの昔から実現している。中国社会が、現在のグローバル経済の時代にぴったりフィットしているがゆえに、今世界で最も高い経済パフォーマンスを発揮している国である、と。


さてと、ずいぶんと長々書いてきましたが、頑張ってまとめにはいろうと思います。
中国の社会のあり方は、グローバルなこれからの時代、なにかと制度疲労を起こしている日本にとって、なんらかの目指すべきモデルを提示しているのだろうか?ということです。この本の著者は「中国化」というパラダイム転換に、なんらかの可能性を感じているようです。


僕は、20年以上前に欧米の知識人が日本を見習え!といっていた頃、ちょうど大学生でした。そこでは、日本的経営のメリットが語られ、賃金の柔軟性や雇用の流動性が日本的雇用のメリットとしてもてはやされていました。おそらく今の若い人たちからすれば信じられない話だと思います。でもその10年後には、日本的経営が悪しざまに罵られ、アメリカを見習え、解雇の自由化だ、終身雇用が経済をダメにする、と散々言われました。そしてここ数年は、韓国だ中国だシンガポールだ、と。
結局、こういう調子のいい国の経済のあり方をただ追いかけるだけの言説となにが違うんだ?としか思えないんです。中国の社会のあり方がグローバリズムに親和的だから中国経済のパフォーマンスが高い、のではなくて、中国経済が調子がいいから中国の社会のあり方がこれからのグローバル経済に親和的に見えるだけじゃないの?と。


中国はここ10年くらい、年率で10%を超える程の高い経済成長率を実現しています。これは中国の社会が「近代化」をもっとも早く達成していた、自由で流動的でレッセフェールな社会だから、なのでしょうか?
日本も1960年代には二桁を超える成長をしました。ドイツは1950年代中頃に二桁成長を達成しています。しかし、このような「奇跡」とまで言われた戦後の日本とドイツの高い成長率は、けっしてその国の経済システムが優れていたからではなく、戦争によって設備やインフラなどの資本ストックが低水準にあったため、資本蓄積の急速な進行によってもたらされたものと考えられています。
中国の高い成長率の理由も、資本主義的な経済への移行が遅れて、資本ストックが低水準であったため。つまり今は経済の伸びしろが大きいので急速な成長を続けている、と考えられます。逆に日本や欧米は、すでに資本ストックが高水準なため、経済の伸びしろが少なく、低成長モードに入っているわけです。そして低成長ゆえに多くの問題を抱えている。


今の日本にとって「中国化」という課題設定が検討価値のあるものかどうかは、実際に中国が低成長に入った段階で初めてわかるんだと思うんです。
中国は、活発な投資による旺盛な資金需要を補って余りある高い貯蓄率を示しています。しかし資本蓄積が進行することで、いずれは投資需要の伸びは減速してくるはずです。それでも高い貯蓄率(=旺盛な蓄財欲求)が維持されようとするのであれば、実体経済から乖離した資産価格の上昇、つまりバブルや、その後の貯蓄過剰による需要不足での経済的な停滞も危惧されます。このような日本が通ってきた道を、中国は「中国化」をとっくに済ませているから大丈夫、などといったい誰が言えるのでしょうか?僕らは「アメリカは日本とは違うから大丈夫」という言葉を何度も聞かされましたが、それがいかに甘い見通しであったか、2008年に身を持って知ることになります。


ああ、なんだかんだと、こんなに長くなってしまいました。結局ネタにマジレスどころか、ただただ自説を垂れ流すKYになってしまったみたい。まあいいか...


最後に、もう一つ「歴史」な話をからめて。
西欧で始まり、今や世界的に進行している資本主義的な経済の拡大・発展。その特徴は、私的所有のもとでの資本蓄積と、分業・交換等市場的関係性の拡大・深化、だと思っています。そして私的所有というのは「排他的占有」であり、市場的関係性の拡大・深化とは「相互依存」の拡大・深化である、とも言えます。つまり「排他性」と「相互依存」という、一見相矛盾する二つの要素が手を取り合い、車の両輪のようにして、拡大・深化してきた、とも言えるのです。
経済の拡大期には「相互依存」の拡大・深化が進行し、その「排他性」は鳴りを潜めていたとしても、ひとたび経済が停滞期になると、とたんに「排他性」が前面に現われてくる。しかも「相互依存」度が高ければ高いほど、より社会的で、さらには国際的な関係性においても「排他性」が牙をむく。そのことが経済のさらなる停滞、混乱を生み、さらには暴力的な破壊をも生む。近代史を見ていると、拡大安定期と停滞混乱期をくりかえしながら、個々人のレベルから社会的レベルへ、地域レベルから国際レベルへと、徐々に「排他性」と「相互依存」の質的な変化と規模の拡大が進行してきているように思えます。
20年前から停滞期に入っている日本では、排外主義や世代間対立、生活保護叩き、公務員叩き等々、社会に内在していた「排他性」が徐々に顕在化してきており、さらにはそうした「排他性」を煽る為政者やインテリが支持を集めています。そしてリーマンショック以後、日本以外の先進国の経済も、停滞期に入り始めているようです。アメリカでは、ティーパーティー等保守派が先鋭化する一方で、ウォール街デモでの不満の表明は具体的な政策要求にはなりづらく、失業は長期化、深刻化しています。ヨーロッパでは、通貨統一で「相互依存」を拡大して経済も成長につなげてきましたが、その「相互依存」の拡大ゆえに、リーマンショック後はEU内での政治的「排他性」が事態を深刻化させているように見えます。
ここ20年、自国内においても国際関係においても経済的な「相互依存」を急拡大してきた中国。資本蓄積が進み、今ほどの成長が望めなくなった時、つまり低成長期に入ったときに、中国では「排他性」がどのように現れてくるのでしょうか?少なくとも資本主義的経済拡大以前の時代における混乱期とは、質的にも量的にもその影響範囲においても、大きく異なるものであることは容易に想像ができます。
中国は世界で最も「近代化」が進行した国なので、調整や統御、変革もスムーズに行われる。面倒くさい民主主義的な制度(=封建遺制)も限られているから、厳しい能力主義で選ばれた官僚たちによって迅速な政策決定が行われ柔軟に対応できる。停滞がさらなる停滞を呼んだり、ましてや暴力的な破壊につながる恐れは、「江戸時代」的なものを色濃く残した日本に比べれば、少ないはず。そんなお気楽なことが言える根拠をほとんど見いだせないのは、僕が悲観論者だからなのでしょうか?

『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』小野塚知二 沼尻晃伸 編著

前回は、大塚久雄の描く「ゲルマン的形態」から、日本の近世村落共同体との違いを考えたのですが、今回は現在の経済史学の到達点からみて、大塚久雄の「共同体」史観はどうなのか?というところも見つつ、同時にゲルマン的共同体や近世日本村落をもう少し客体化してみる、というかその特殊性もあぶりだしてみたいです。


そんなわけで、こんな本があるんです。

大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す

大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す

政治経済学・経済史学会の「2006年春季総合研究会」。大塚久雄の「共同体の基礎理論」をあらためて読み直す、というテーマのもと行われた研究会の、報告・記録集です。僕の問題関心を深めるうえで、もってこいの本ですね。
内容は、小野塚知二氏による序章、研究会での五つの報告、沼尻晃伸氏による結語、討論記録等で構成されています。
この本を読んで、僕が個人的に刺激を受けたのが以下の三つの報告です。

  • 『日本近世村落史からみた大塚共同体論』渡辺尚志
  • 大塚久雄と近代中国農村研究』三品英憲
  • 『共同体の「ゲルマン的形態」再考』飯田恭

簡単に内容を紹介してみたいと思います。


まず最初に、渡辺尚志氏の報告。
『日本近世村落史からみた大塚共同体論』
渡辺尚志氏は、日本近世史、村落史の研究が主要フィールドです。この報告では近年の日本近世村落史研究の成果から、「共同体」論の可能性を論じています。ここでは日本近世村落の「共同体」の特徴を見てみます。

大塚の言う、共同体構成員としての「私的諸個人」が、歴史具体的には「家」の男性家長として存在していた点には留意すべきである。近世において、各村民は、村落共同体(「村」)とともに、「家」に帰属しているのが通例であった。村民の生活は、「家」と「村」によって支えられていたのである。「家」と「村」の関係については、おおよそ次のように考えられよう。中世後期から戦国期にかけて、まず「村」が形成され、「村」に保護されつつ、しだいに上層農民から「家」が成立してくる。地域差はあるが、一般村民の「家」が広く成立したのは、ほぼ一七世紀のことと考えられる。

日本では室町時代に入ると、それまでの荘園や公領を土台とした土地所有制度の衰退の中で、水利配分や水路、農道の維持管理などの要請、さらには境界紛争や戦乱などからの自衛を契機にして、地縁的な結合を強めて村落が形成されるようになります。戦国時代以降は武家領主による支配のもとおかれようになりますが、その後、灌漑、溜池 用水の整備等により農業生産性が向上。検地と兵農分離を経て、江戸時代に入ってからは、一般村民の「家」が広く形成されます。近世の典型的な村落形態が広く見られるようになったのは17世紀頃です。
ところで「家」が形成された、と聞いてピンとこない人もいるかもしれませんが、もともとは大家族的な親族血縁関係が強く、家父長的な小家族単位である「家」というのは17世紀になって登場したと考えられています。「家」成立の契機として大きいのは、農地の相続の問題が挙げられます。新田開発が停滞するようになり、分割相続では農地の細分化が避けられないため、嫡子単独相続が定着していった。1673年には分地制限令が出されています。

「家」と「村」とは相互補完的に村民の生産・生活を支えており、いずれを欠いても村民の安定的な存続は困難であった。当初は、「村」あっての「家」という関係だったものが、しだいに「家」が自立性を増すにつれて、「村」は「家」の集合体という性格を強めていく。そして、「家」の中から一部に「個人」が姿を現すようになってくる。
 「家」の成立により、「村」は「家」の維持・存続のために存在するものとなり、戸主以外の「家」の構成員は、戸主を通じて村の公的側面に間接的に関与することになる。このように、「家」成立の前後では、共同体の構成原理が大きく変化するのである。

16・17世紀は、日本社会が大きく変化した時期なんですが、その基底には経済的な変化があります。17世紀の100年間に日本の人口は倍増したと言われています。その背景には新田開発による耕地面積の増加と農業生産性の向上がありました。ゆえに日本の社会構造も大きく変わったんです。明治維新後も、地租改正や戸籍法、家督相続制などにより村落共同体や「家」制度は大きな変化を強いられたんですが、今でも日本人の基底に流れる共同体観は、この16・17世紀に源流があるように思えます。日本の近世村落の形成に関しては、興味深い話満載なので、もっともっと突っ込んでいきたいと思っていますが、ここでは渡辺尚志氏の報告にもどります。
大塚久雄の「共同体」と「私」という「固有の二元性」。これを近世日本村落に当てはめれば「共同体」=「村」、「私」=「家」になります。渡辺尚志氏は、「私的諸個人」が、個人というよりは「家」の男性家長として存在していた点は留意すべき、とことわったうえで、さらに、土地の所有を重層的なものとしてとらえます。共同体が所有する土地の典型は「入会地」ですが、一方で耕地・屋敷地は「私的占有」、つまり「家」(家長)の所有というのが通説です。しかしこれらの「私的占有」地は、同時に「共同体的な所有」という側面も含まれている、と渡辺尚志氏は考えます。無年季的質地請戻し慣行や他村の者への土地売却・質入れの制限など、「村」は土地所有関係に大きく関与していました。

近世において、「村」の耕地は個々の「家」のものであると同時に「村」全体のものであり、「村」の強い規制を受けていたことがわかる(私は、こうしたあり方を「間接的共同所持」とよんでいる)。

また、領主との関係性において、共同体の役割は、領主支配を補完する役割を持つと同時に、反面「抵抗」「交渉」の組織という側面も持っていますが、渡辺尚志氏は後者の共同体(「村」)の自律性に注目します。

「村」は中世後期以降、農業生産力の一定の上昇にともなって、戦乱や自然災害、他の「村」との抗争や領主の収奪から成員の生産・生活を保護するための組織として形成されてきたのである。年貢の村請も、当初は「村」側の主体性のもとに、荘園領主や地主との契約が結ばれた。それが、近世になると、今度は武家領主主導のもとに全国的制度として村請制が定立されたのであり、そこに武家領主のイニシアチブが発揮されたことは確かだが、その基礎には「村」側の自律的動向があった。近世の国制が兵農分離を基本原則としており、「村」に武士があまりいなかったことも、「村」が自律性を維持するのに役立った。

この他にも、教育、医療、文化、社会的弱者に対する保護・救済など「村」が公的な役割を果たしていたこと。たとえば教育や医療については、国家や藩による制度的な整備は期待できなかったため、「村」が費用を負担し環境を整え、外部から教師(寺子屋師匠)や医師を招聘する場合もあったそうです。さらに、「村」はその外部にも多様な集団を派生させて、用水や入会地をめぐる組合村(村連合)に加え、18世紀後半以降は年貢米輸送・治安維持など多様な契機による組合村が各地に成立。こうした組合村は、村落共同体の枠を超え、人々が共通する利害のために結合したものでした。
渡辺尚志氏の報告では、このように力強く、多層的な近世日本の村落「共同体」の姿が描かれています。



次に、三品英憲氏の報告。近代中国農村についてです。
大塚久雄と近代中国農村研究』
三品英憲氏は、中国近現代史専門です。近代中国農村史研究と大塚共同体論との間には距離があった。近現代の中国農村に関する研究は大塚共同体論とは断絶した地点で行われてきたし、一方で大塚久雄も、中国村落の捉え方に関して積極的に発言し理論に組み込もうとした形跡はない。その原因を、三品英憲氏は冒頭で以下のように述べます。

おそらく大塚共同体論で描かれた共同体の発展過程と中国村落のあり方との間に、巨大な差異が横たわっていたことが原因であろう。それはつまり、大塚共同体論は中国村落を説明できないということを意味する。


大塚久雄の共同体理論からは乖離した現実の近代中国村落。三品英憲氏は、大塚久雄と同時代に、中国農村社会の研究から大塚共同体論とは大きく異なった結論を導き出した、法学者、戒能通孝の研究を紹介します。
1930〜40年代、中国侵略や大東亜共栄圏構想により、日本では中国農村社会への関心が高まり、1940年から満鉄調査部と東亜研究所によって華北農村調査が行われました。戒能通孝は東京で現地から送られてくる調査報告の分析に従事し、1942年に「支那土地法慣行序説」を執筆しています。
戒能通孝によれば、中国農村社会に見られる土地の所有権は、近代的所有権に類似していました。使用状況を問われず、権利義務にも結びつかず、支配関係とも関わりなく、家族・同族・村落・国家からの制約も受けない。このように外面的には近代的所有権の特徴を具えていたのです。しかし、だからといって中国農村社会が近代社会であるとは言えない。近代社会の土地所有権との区別として、土地所有権を支える社会的な結合・団体の有無を、戒能通孝は指摘します。
中国農村社会では、血縁的結合は農村慣行上の土地所有権を支えるものではなく、一方で、村の領域が明確な形では存在しないなど、地縁的な結合も弱いのが特徴です。人の移動は自由に行われ、村長や会首の許可さえあれば「他村民」の村への転入は認められました。「人品」の悪い者を追い出す強制力も村長と会首の実力に拠っていて、村民全体とは無関係でした。会首は現時点で財産を持つ者が就き、そこに「名門」といった意識は介在しません。小作人を水呑などと言って軽蔑したり、逆に村全体で面倒をみる、ということもなく、ただ経済原則の適用に任せていました。
村は、村長や会首など村の有力者による支配団体的な性格が強く、あまり公的な性格を有していませんでした。ゆえに、中国農村社会における土地所有権は、外形的には近代的土地所有権に似た相貌を持ちつつも、社会の末端にそれを支持・保障する強力な団体を欠いていたのです。個々人が持っている「権利」は、その個々人の実力に拠ります。団体意識が弱いため、一般的秩序の形成も弱く、実力的な均衡関係だったと考えられます。「農民」は身分ではなく職業であり、土地の売買も移動も職業選択も自由。このような農村社会では、集落こそ存在し住民相互の結びつきは成立するものの、村落を公的団体へと成長させるものではありませんでした。
村民に定着意識がない、住民同士での「同村民」という意識上の紐帯の欠如、村民の村内での席次が「家柄」として固定されていない、そのような中国村民。戒能通孝は、近世日本村民との決定的な違いとして、「高持本百姓意識」がない、という点を強調します。

 戒能の言う「高持本百姓意識」とは、村の正式な成員として村の意思決定に携わり、そうした過程を経て決定された村としての意思に従って行動し、さらに団体としての村の結合を内面的に支持しようとする意識を指している。そして前段の引用にもあるように、戒能は、ドイツ農村の「バウエル」(Bauer)も「高持本百姓」と同質のものと見ていた。その上で、村民が「高持本百姓意識」を持たない中国村落を対置したのである。

どうでしょうか。ここまでで、日本近世の村落共同体と、中国の農村とでは、大きな違いが感じられると思います。中国の農村との比較でみれば、日本の近世村落やヨーロッパのゲルマン的形態の、力強い「共同体」の存在が、近代化へとつながった。そう考えるのが自然ですよね。大塚共同体論のような、「私的個人」の領域の拡大、とは逆の印象です。
ただ、戒能通孝が描き出した近代中国農村民。ちょこっとだけ、足りないのではないか?と思う点があります。それは、個々人がバラバラで実力主義、弱肉強食の世界であったとして、本当に個々人の実力のみで生きていたのか?という点です。僕の考えでは、コネクション・繋がりは、地縁とは別の形で存在していたのではないか?つまり強者のコネを頼るのが、弱者が生き残る上では非常に重要な戦略であり、そのための緩やかな血縁、コネ、ツテの広がりがあったのではないか、ということです。なぜこんなことを言うかというと、僕自身の印象として、日本や西ヨーロッパ(地中海諸国除く)や北米には、それぞれに独特の「平等観」(裏を返せば独特の差別観)というものがあるけれど、それ以外の国や地域での「私的所有」をベースにした関係性では、コネ優遇、身内びいきが、普通に見られる気がするんですよね。近世日本村落やゲルマン的形態の「強い共同体」と、中国の「緩やかなコネ社会」という対比にした方が、僕的にはしっくりくる。この辺りはもう少し調べてみたいと思います。
ただ日本における中国農村史の研究は、戦後、中国の革命により足踏みを余儀なくされました。「社会主義中国」の実態が明らかになり、その後急速に近代化する中で、中国農村史研究は、今新たな局面を迎えているのかもしれません。いろいろと議論がありそうです。



さて、あともう一つ、飯田恭氏の『共同体の「ゲルマン的形態」再考』を紹介したいんですが、これは次回にします。あらためて「ゲルマン的」形態と近世日本村落共同体とを、最近の歴史学的な成果を交えて、ガッツリと比較してみたいと思います。特に「共同体内分業」「共同体内市場」について。

大塚久雄の描く「ゲルマン的形態」から、「日本的なるもの」を考えるヒント

前回の続きです。
今回は、大塚久雄『共同体の基礎理論』において描かれた「ゲルマン的形態」を見ていきます。

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

『共同体の基礎理論』の「ゲルマン的形態」で、大塚自身は広く中世ヨーロッパの封建性的共同体を想定しつつも、具体的には三圃式農業、開放耕地制の、典型的なゲルマン式の村落を描いています。
そもそも三圃式農業とは、農地を3つに分割して、冬畑・夏畑・休耕地を年ごとにローテーションさせて3年で一巡させる農法です。小麦やライ麦などの冬の穀物を栽培する冬畑、大麦など夏の穀物を栽培する夏畑、そして休耕地では家畜が放牧され家畜の糞尿が肥料となって土地を回復させます。この三圃式農業によって生産性は向上しました。同時に農作業が大規模になるため、村全体での共同耕作が行われるようになり、また住宅は一か所に集められ集村化が進みました。
では、このような典型的なゲルマン式の村落、ヨーロッパのどの地域に分布していたのでしょうか。

この地図はマックス・ヴェーバー『一般社会経済史要論』(黒正巌、青山秀夫訳 岩波書店)からの引用です。この地図を見てもわかるとおり、典型的なゲルマン式の村落形態は、フランス北部やベルギー、ドイツ、デンマーク、北欧、イングランドに展開していました。一方でオランダやドイツ北西部、フランス中部からスイス山岳地帯、スコットランドなどの地域では、土地や自然環境の条件から、三圃式の集村形態ではなく、散居式の村落が分布していたとされています。


では、大塚久雄の『共同体の基礎理論』における「ゲルマン的形態」についての記述を見ていきましょう。

「ゲルマン的」共同体においては、「村落」全体によって「共同に」(=「共同態的に」gemeinschaftlich)占取された「土地」は、その内部においてさらに各共同体成員(=各農民「家族」の家長)によって一応残るくまなくすべて「私的に」(=gesellshaftlich)占取され、所有され、相続されるのであって、すでにこの点において他の共同体諸形態のばあいと明確に区別されている。とはいうものの、こうした「土地」の「私的占取」はもちろん近代におけるような完全に個別的で自由な私的所有ではなく、共同体全体による一定の「共同態規制」のもとにおかれているばかりでなく、その一極にはいわゆる「総有」Gesamteigentum の関係(=「ゲルマン的」形態における「共同地」Allmende)をさえ含んでいるのであって、歴史上「フーフェ」《Hufe》(=mansus, virgate)とよばれてきたものがそれである。換言するならば、こうした「フーフェ」という形態のもとに、各共同体成員は「村落」Nachbarschaft の支配下にある「土地」を残るくまなく私的に占取したのである。

「フーフェ」とは、「ゲルマン的形態」を特徴づける土地の所有形態です。以下、大塚久雄の解説を簡単にまとめてみました。
村落の中心には集落が形成され、住宅や宅地、庭畑地は私的かつ個別的に占取されます。
その周辺に「共同耕地」が広がります。「共同耕地」は通常30個ないし60個、あるいはそれ以上の「耕区」によって構成。各村民は、この「耕区」にいくらかの広さ、例えば1エイカーないし1/2エイカーの耕地片を所有し、各「耕区」に分散している耕地片の総体が、彼が所有する「耕地」ということになります。これがいわゆる「混在耕地制」。各村民の占取する耕地片の大きさは「平等に」配分され、同時に耕作や収穫その他、利用のあらゆる面にわたって、厳しい「耕区強制」のもとにおかれます。
「共同耕地」のさらに周辺に広がっている放牧地や森林は、村落所属の「共同地」。各村民は慣習にしたがって「共同地」に対し、自己の耕地の大きさに比例した一定の大きさの共同使用権(たとえば一定量の木材の伐採、一定数の家畜の放牧など)である「共同権」をもっていました。「共同地」もまた一定の大きさの共同権という持分の形で私的占取の対象であり、「総有」Gesamteigentumという所有関係でした。
以上、各村民(=家長)が異なった様式で私的に占取する三種の土地、「宅地および庭畑地」「耕地」「総有地持分」の総和が「フーフェ」です。各村民(=家長)はこの「フーフェ」1個を私的に占取することによって、慣習的に標準的な村民(=共同体成員)としての資格を与えられました。1個の「フーフェ」はそうした標準的な村民の一家族(=家族経済)の生活を支えうる一単位とみなされていました。


大塚久雄は、あくまで土地の所有形態に注目しています。「ゲルマン的形態」は、共同態規制に縛られながらも、くまなく「私的に」占取されている。そのことを強調します。


ところで、日本の近世村落共同体と比べてみてはどうでしょうか。日本も「ゲルマン的形態」と同じように、土地の「私的占取」は広く見られました。むしろ水稲が主流の日本では、共同耕作ではなく個別耕作のため、耕作地の「私的占取」はよりはっきりと表れていて、「耕区強制」のようなものもあまりなかった。「共同体」としての機能は、主に「水利」つまり水稲に必要な用水路の所有・維持管理等、あとは林野の所有・利用ぐらいでしょうか。こうしてみると「ゲルマン的形態」の方が、共同耕作のため、より共同体への積極的な組織が必要で、そのための強い規制、規律が求められそうです。実は、同じ西ヨーロッパでも、ゲルマン式ではない散居式の村落では、むしろ「共同態規制」は弱く「私的」領域が広かったりします。
それと「ゲルマン的形態」と日本の近世村落との目に見えての違いは、やはり「集村」か「散村」かということです。日本の近世農村は「散村」が多く、住宅が集まった形態の村でも街道沿いでの集村形態だったりします。これは「ゲルマン的形態」のような「共同耕作」の必要性ではなく、共同体外との市場的取引等の経済的要請からですね。
大塚久雄が考えていたような「私的所有の拡大により最終的に共同体が解体する」というストーリーとはちょっと違うように思えてきます。さらには以前僕が問題意識を書いたように、「ヨーロッパは個人主義で、日本は集団主義」というイメージとも異なる。「ゲルマン的」共同体は、私的所有を前提としながらも、共同体内の結びつきはむしろ強い、という印象です。


大塚久雄は『共同体の基礎理論』の最後に、「ゲルマン的形態」に関する、ある考察をしています。そして、僕が『共同体の基礎理論』を読んで、「あっ、そういうことか」と気付いたのは、実はこの最後の考察からです。

 最後に、以上述べたような「耕区制」の成立事情に関連させつつ、われわれはここで、他ならぬ「ゲルマン的」形態の共同体が他の共同体諸形態に比べて生産力(=生産諸力)のいっそう高い発展段階に照応するものであり、したがって「共同体内分業」の歴史的に独自な質と量を表示するものであったということについて、いちおうの理論的な把握を試みておきたいと思う。「ゲルマン的」共同体は、再生産構造の観点から眺めるとき、最も端緒的な段階においてさえ、すでに単なる自給自足の「自然経済」などではなく、むしろ最初から、ある範囲の局地内的商品交換をさえ伴いつつ、そうした局地的「貨幣経済」によって補充されていたように思われる。このことは、なお多くの実証的研究をまって史実的裏付けを与えられねばならないが、すでにすぐれた史家たちによって理論的にも実証的にもある程度の根拠をもって想定されているところである。それはそれとして、「ゲルマン的」共同体を内から支えているところの「共同体内分業」(=局地内分業)は、一般的にいえばもちろん「デーミウルギー」Demiurgie(=村抱え)とよばれるべき形態に属するものでありながら、やはりそこには「ゲルマン的」形態に固有なものがあったと考えねばならない。研究史の現状に即していえば、「ゲルマン的」形態の「農業共同体」(したがって荘園)の内部には、すでに初発から、一定の種類の「手工業者」fabri, Schmiede, wrights がだいたい次のような形で包含されていた。
 (1)まず、文字どおり「村抱え」(=デーミウルギー)の形をとる水車屋、鍛冶屋それに大工(とくに車大工)などの手工業者たちで、彼らはしだいに「村落」内のいわば特権層を形づくるようになっていく(「アジア的」形態のデーミウルギーとの相似と差異)。つぎに、家父長制「奴隷」の姿をとる手工業者たち(いわゆる「荘園手工業者」Hofhandwerker はその転化形態)で、彼らもしだいに「小屋住」などの形に上昇していき、それとともに「村落」内の手工業者の数も種類も増大していく。たとえば、鍛冶屋、馬具屋、大工、車大工、靴屋、パン屋、魚屋、織布工など。
 (2)ところで、「ゲルマン的」共同体にとくに特徴的と思われるのは、そうした「村落」内の手工業者たちのうちに、一般の人々に対して製品を「自由に」(必ずしも身分上の自由を意味しない)販売する者が少なからず存在したということである。換言するならば、「村落」共同体内部にそうした意味での「自由な」手工業者たちの存在しうる余地が十分にあったということである。

「共同体内分業」。僕はこの部分を読んで、日本の共同体との決定的な違いはここだと確信しました。


分業は、当然「交換」が前提となります。私的所有に基づいた「交換」は、分業が広く深く展開すればするほど、「市場的」なものにならざるをえないのでは、と想像できます。つまり「共同体内分業」の進行は「共同体内市場」「共同体内での貨幣経済」の発展につながる、と考えられるのです。
一方で日本の近世村落共同体を考えた場合、どうでしょうか。「共同体内分業」というものが、どれほど進行していたのでしょうか。江戸後期には日本の農村にも広く貨幣経済は行き渡っていました。でも「共同体内」での市場的交換は広がっていたのでしょうか。
僕は、阿部謹也の世間論に出てくる「贈与互酬」という言葉を思い出します。そう、つまり日本の共同体内は「市場」的交換ではなく「贈与互酬」的交換が主流なのではないか、と。


そう思った瞬間に、いろいろなことが思い浮かびます。日本の「カイシャ」という共同体では、自らの労働を「市場」的な交換原則によって提供するのではなく、「贈与互酬」的な奉仕行為として提供し、給与はその労働に対してではなく「贈与互酬」的関係性の中での「立場」に対して支払われます。日本の組織では、組織内での分業、役割を明確にした分担が、とても苦手です。逆に横並びで競い合う、という組織形態が好まれます。個人が専門性に特化することは、日本の「カイシャ」ではあまり望ましくないこととされています。
考えてみれば「日本的経営」なるものがこの日本に誕生し広がってきた時期と、農村部の労働力を産業資本が広く組織してきた時期は、ものの見事に重なるのです。


「分業・市場」と「序列・贈与互酬」の違いは、なにを意味するのか?
そんなことを考えたとき、思いつく古典的な名著があります。デュルケームの『社会分業論』とモースの『贈与論』。社会学の古典と文化人類学の古典です。実はこの二人、伯父と甥の関係なんですね。なにか不思議な縁を感じてしまいます。
というわけで、なんとなくこんな方向で「日本的なるもの」を、さらには「近代」ってなんだ、ということにもつながりますが、もっともっと深めていこうと思ってます。


最後に「共同体内市場」と「贈与互酬」の違いを端的に表す興味深い話を。これまた大塚久雄の著書『歴史と現代』(朝日選書)からなんですが、収録されている大塚久雄のインタビュー「国民経済の精神的基盤」で、内村鑑三岩波茂雄岩波書店創業者)のちょっとしたエピソードが語られています。

岩波茂雄さんを怒らせたという有名な話がありますね。岩波さんが内村先生の荷物をもってあげたところが、先生は岩波さんになにがしかのお金をお礼に渡した。自分は好意でしたのにと岩波さんが怒った、というのです。

内村鑑三は、岩波茂雄のサービス行為に対して対価を払った。とても「市場」的です。でも岩波茂雄は怒った。「贈与互酬」的関係性においては、内村鑑三の行為は礼に反するわけです。なぜ礼に反するのか、は文化人類学における「贈与」の意味を学べばおのずと答えが出てきますが、それはまたの機会に。
それにしてもこの話、プロテスタント内村鑑三、というところが興味深いです。



一般社会経済史要論 (上巻)

一般社会経済史要論 (上巻)

歴史と現代 (朝日選書)

歴史と現代 (朝日選書)

大塚久雄「共同体の基礎理論」

大塚久雄を代表する、まさに古典と呼ぶにふさわしい「共同体の基礎理論」。

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

1955年刊行。この本は東京大学大学院経済史課程での講義の草稿をもとに講義用テキストとして作成されたものだそうで、ようするに大学院生向けの教科書ですね。内容はというと、資本主義誕生に伴い、解体されてきた古い封建的な「共同体」。「近代化」を考える際には避けて通れない「共同体の解体」。その共同体に焦点を当てて、それがどのような変遷をたどってきたのか、どのような類型、発展の段階があったのか、考え方の軸を整理、提供するものです。そして「共同体」の基本的な発展諸段階、基本諸形態として、「アジア的形態」、「古典古代的形態」、「ゲルマン的形態」の三形態を基本諸形態として分析。これはマルクスの「資本制生産に先行する諸形態」での共同体の分類がそのまま下敷きとなっています。ちなみにマルクスの「資本制生産に先行する諸形態」は草稿なので、はっきり言って読みづらくて難解なんですが、この「共同体の基礎理論」を読んでから読むと(ついでにできれば資本論も読んでから読むと)面白く読めます。そういう意味でも入門教科書的ですね。さらに「共同体の基礎理論」では、マックス・ヴェーバーの仕事(ドイツ歴史学派の流れ)からも、かなり引用されています。マルクスの骨格を使いながら、ヴェーバーで肉付けがされている、という感じでしょうか。教科書なので日本語訳が出ているものからの引用が多いです。ただ、今となっては教科書としては古すぎですが。
ところでびっくりしたんですけどマルクスの「先行する諸形態」って、今や筑摩書房の「マルクス・コレクション」にしかないんですね。他はみんな絶版。国民文庫がお手軽でよかったんだけど、古本屋で見つけるしかない。さらに、この「共同体の基礎理論」で多く引用されているヴェーバーの「一般社会経済史要論」も絶版なんですね。旧漢字のまま1990年代までは刷られていたみたいですが。時代を感じますねえ...


大塚久雄は「共同体の基礎理論」で、共同体の発展を、「共同」と「私的」という矛盾する二つの要素のせめぎあいを軸に考察します。ちょっと長いけど引用します。

「富」の包括的な基盤である「土地」を「共同体」が占取し、それによって自己を現実に「共同体」として再生産していくばあい、以上述べたような「土地」の基本的な規定性からして、「共同体」内部にはいやおうなしに「固有の二元性」le dualisme inhérentがはらまれてくることになる。「固有の二元性」とは、いうまでもなく、土地の共同占取と労働要具の私的占取の二元性であり、「共同体」の成員である諸個人のあいだに取り結ばれる生産関係に即していえば、「共同態」という原始的集団性と、そのまっ只中に、それに対抗して新たに形づくられてくる生産諸力の担い手であるところの私的諸個人相互の関係、そうした二元性である。あるいは「共同体」に固有な「内的矛盾」(=生産力と生産関係の矛盾)といいかえても差支えないであろう。

共同占取と私的所有、集団性と個人、といった共同体「固有の二元性」。この二つのせめぎあいが、生産力向上のなかで、マルクスの言葉を借りれば「生産力と生産関係の矛盾」として表れ、生産関係の基礎となる「共同体」そのものの在り方を変えていく。それは、私的所有の拡大と共同体所有の縮小や、共同態規制(集団的、封建的な規範、ルール)の弛緩と私的領域の自立、となり最終的には共同体の崩壊と個人の自立により近代資本主義の時代を迎える、というのが大塚久雄の考え方です。
共同体の発展に伴う形態の変化は、
・土地の私的所有の拡大
・血縁制的関係の弛緩、解消
・共同体内分業、共同体内市場の発展
となって表れるとして、大塚久雄はこれらのものさしを使い「アジア的形態」「古典古代的形態」「ゲルマン的形態」の3つを、共同体の基本諸形態として分類します。ちなみにマルクスの「先行する諸形態」では、あくまで西ヨーロッパの資本主義誕生までの歴史を解明することに焦点が絞られているので、「アジア的」が古代オリエントメソポタミアペルシャ等)、「古典古代的」が古代ギリシャ・ローマ、「ゲルマン的」が中世西ヨーロッパを具体的に指しているんですが、「共同体の基礎理論」では、もう少し広く、ある程度普遍性を持たせて考えられているようです。


さらっと、各形態を簡単になぞってみます。
「アジア的形態」は部族・血族により構成され、血縁制的関係が強く、土地の所有も基本的には部族。私的所有はごく一部に限られます。
「古典古代的形態」では、古い血縁制的関係が緩み、家族形態も基本的には小家族(単婚家族)に移行しつつあり、共同体は防衛や拡大のための戦闘集団としての性格が強くなる。また土地の所有形態についても、「宅地や庭畑地」の私的所有は強固なものとなり、「公有地」と明確に分けられます。
「ゲルマン的形態」では、古い血縁制的関係の規制力は失われ、土地所有も「宅地や庭畑地」の私有はもちろん、共同耕地についても「フーフェ」という形態のもと一定の大きさの耕区に区分けされた耕地が私的に占取され、山林や放牧地などが共同地となります。また私的所有の進行に伴い、共同体内分業の進行し、共同体内市場の発達がみられます。


ところで、この「共同体の基礎理論」、実際のところ現在の経済史学からみてどうなんでしょうか。
実は、様々な史実がいろいろと明らかになるにつれ、世界中の共同体の歴史はバリエーション豊かで、この基本諸形態があまり普遍性を持っていないことが明らかになってきました。そもそも、この共同体の基本諸形態のなかで、日本の近世、江戸時代の村落共同体は、どこに位置するのか?というのは誰もが思うところですよね。大塚久雄は「共同体の基礎理論」の中でこんなことを言っています。

たとえばわが国の封建社会の基礎過程を形づくる「共同体」について、もし中世ヨーロッパの「共同体」と同一の基本的特質が実証されうるとすれば、それも「ゲルマン的形態」とよんで一向さしつかえないわけである。

大塚久雄は、日本の封建時代は「ゲルマン的形態」に近いと考えていたみたいです。実際「共同体の基礎理論」の物差しを使えば、そこそこ符合するように見えるんですが、でも何かが決定的に違うようにも思えます。さらに、ヨーロッパでも地中海地方や東欧・スラブ系での「共同体」は、やはり「ゲルマン的形態」と違う。中国の「共同体」は?ということになれば、もうこれは「アジア的形態」にも「古典古代的形態」にも「ゲルマン的形態」にもうまく当てはまらない。
現在の経済史学は、より個別具体的で専門的な研究に拡散していて、さらには学問的な関心の軸が「近代以前」や「資本主義の誕生」にあまり向けられなくなってしまったことで、この「共同体の基礎理論」も、すっかり「古典」となって、あまり省みられなくなってしまっているようです。
でも僕はこの本を読んで、歴史のダイナミズムを捉え、個別具体性から広く共通項や法則性を導きだす。そういう知の飛躍の醍醐味を感じました。実に刺激的です。実際、マルクスが注目した労働主体と労働対象との関係性の歴史、そこから「共同体」に焦点を絞った大塚久雄の問題意識、その意義は今も失われていないように思えます。

われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基礎として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮設(Hypothese)に過ぎず、したがってまた当然に一層豊富な史実に基づいて絶えず検討しなおされ、訂正あるいは補完され、再構成されねばならない。およそ、どのようなものであれ、歴史の理論は抽象という手段によって史実という母胎から生まれて来たものだからであり、母胎である史実(したがって現実)は理論よりもつねにはるかに内容豊富なものだからである。われわれは歴史理論のこのような本来的な性格をつねに念頭に置いていたい。

序論での大塚久雄のこの言葉を念頭に、あらためて「共同体」の歴史の森に深く分け入っていく、そんな好奇心が僕の中でむくむくと湧いてきました。


僕がこの本を読むにあたって、もともとあった問題意識。
「日本的」なるものを考えるきっかけとしての地図帳からの思考 - コバヤシユウスケの教養帳
それは、ヨーロッパと日本の「共同体」の違いから日本的なるものを考えなおす、というものでしたが、そのポイントとなるのは、この「共同体の基礎理論」で分析されている「ゲルマン的形態」、それをひとつの特殊形態と捉えて、日本の近世村落共同体と比較する、ということになりそうです。
そもそも現世界の先進国、たとえばG8加盟8カ国を見た場合、日本とロシア、イタリアを除く5カ国は「ゲルマン的形態」を共同体の基本形態として歴史的にもっていた国、あるいはその移民で形成された国、ということになります。中世における「ゲルマン的形態」の分布を見ると、他にはオランダ、デンマーク、北欧諸国等。逆にEU加盟国でも、地中海エリアのスペイン、ポルトガルギリシャ、スラブ系の東欧諸国は「ゲルマン的形態」とは違った形態の共同体が基礎となっていた。イタリア、ロシア含め、非「ゲルマン的形態」の国は、どうも経済的にも政治的にも不安定ですよね。そして日本はどうか。
やはりここはきっちりと、「共同体」の個別具体的な形態の差異に注目してみる必要がありそうです。


ということで、この話続きます。次はできるだけ早く更新したいと思います。ポイントは、大塚久雄が比較分析の軸としていた「土地所有形態」以外の経済的な要素。どんなものが考えられ、実際どういう違いが見出されるのか?です。
ではでは。