大塚久雄「欧州経済史」

以前『「日本的」なるものを考えるきっかけとしての地図帳からの思考』で、ちょっとした問題提起して、そこから大塚久雄を紹介していこう、ということになり、こちら大塚久雄岩波新書2冊を紹介したところで、僕自身忙しくなって更新が途絶えてしまい、もうかれこれ10ヶ月。すみません、ようやく大塚久雄に戻ります。

欧州経済史 (岩波現代文庫)

欧州経済史 (岩波現代文庫)

今回は、岩波現代文庫の「欧州経済史」。
この文庫には、タイトルの「欧州経済史」(1956年刊行、1973年改版)と、「資本主義社会の形成」(1951年、「大塚久雄著作集」第5巻、1969年)が入っています。僕が生まれるより10年以上も前。古いですね。
実はこの本「大塚史学」のエッセンスが詰まっていて、大塚史学とは何ぞや?と思ったらまず読むべき本、だとも言えます。ですので、いきなり「本の内容」にとっかかる前に、ちょっと「大塚史学」の特徴に触れておきます。


大塚久雄の死に際して、病床にあった丸山眞男が寄せた弔辞より。

大塚さんには私の徳川儒学思想史の研究の過程において、元禄町人の社会的地位について、ヨーロッパの資本主義発展における、商業高利貸し資本の暴利資本主義と、正常な利潤を基礎とする資本主義とを峻別されたことに、甚大な影響を受けた。いわゆる町人及び町人精神とヨーロッパのブルジョワ精神とを同視する風潮、したがって日本は既にブルジョワ精神の段階を克服しているというような日本の学界の一部の見解に対して激しい違和感を持った。それが大塚先生との遭遇の最初の場であり、しかもそれは全く一方的な、私の側からなる大塚先生からの受容の場であった。
<「丸山眞男集」第16巻>

丸山眞男が影響を受けた経済史観。「商業高利貸し資本の暴利資本主義と、正常な利潤を基礎とする資本主義とを峻別されたことに、」とありますが、この「商業高利貸し資本の暴利資本主義」(この表現もどうかと思いますが...)を「前期的資本」して、産業革命後の産業資本と明確に区別する。ここに大塚史学のポイントがあります。


「欧州経済史」では、「資本」の形態に着目し、歴史的に捉えなおします。

経済史学が現在までに明らかにしたところによれば、「貨幣経済」(あるいは「商業」と「金融」などといってもよい)の発達およびそれを基盤に種々な姿をとって成長する「商人」たちの活躍は、決して近代にのみ特有な現象ではなく、多かれ少なかれ世界史上のあらゆる時代と地域にわたって見いだされることが実証されている。もし商人たちによる「利益追求の営み」をすべてひとしく「資本」とよぶとすれば、「資本」は、「産業資本」という独自な形態をこそ欠くとはいえ、「商業資本」や「高利資本」などの姿では「貨幣経済」と手を携えつつ、きわめて古くから存在したのであった。やや誇張して表現すれば、その存在は「人類の歴史とともに古い」とさえいうこともできるであろう。

「商業資本」や「高利資本」といったものは、歴史的にも地理的にも広く認められるものであって、資本主義に特徴的なもの、と考えるにはやはり無理がある、ということ。

近代に独自な生産様式たる「資本主義」が、商品生産の一般化という土台のうえに「産業資本」を不可欠な基軸として構成されているのに対比して、近代以前の諸時代における生産様式はすべて、何らかの形の共同体を土台としてうちたてられた「奴隷制」、「封建制」などであって、「人類の歴史とともに古い」といわれる「商業資本」および「高利資本」などの「資本」諸形態はそうした生産諸様式のうえに、あるいはその外側から、ただ寄生するにすぎないような性格のものだったのである。われわれは、このように近代以前の生産諸様式に寄生するという性格をもち、かつ歴史的にきわめて古くから見いだされる「資本」諸形態を、近代に独自な「産業資本」およびそれに従属する「資本」諸形態からはっきり区別して、とくに「前期的資本」とよぶこととしよう。

マルクス資本論では、商業資本や高利貸資本を、労働による剰余価値生産が伴わないものとして区別していますが、大塚久雄は歴史的に経済・社会的諸関係性に着目して、この違いに迫ります。
ヨーロッパ近代における「資本主義」の特徴は、様々な経済・社会関係が、商品生産という土台の上に成り立っていて、その基軸に「産業資本」がある。一方、近代以前では「奴隷制」や「封建制」などといった、主として土地所有を軸とした経済・社会関係が土台となっていて、「商業資本」や「高利資本」はその周辺・外側から生産諸様式に寄生している。そして後者の「資本」諸形態を、大塚久雄は「前期的資本」と呼称し、前者と明確に区別します。


そして「前期的資本」が、旧来の政治制度に対抗した、のではなく、その時代時代の政治支配機構と深く結び付き、むしろそれを補完してきた、ということが指摘されます。

古代オリエントの場合をとってみると、なかでもメソポタミア地域に典型的に見られるように、「貨幣経済」の発達は専制君主の統制下にがっちりと抑えられて、むしろ広大な専制王国の政治的統一に対して経済的な鍵を与えるものとなっており、さらにその間にあって富裕な商人たちは中間的な私的地主に化していくという事実すら推定されている。また、古典古代のばあいをとってみても、「貨幣経済」の発達はむしろ一般に「奴隷制」の成立と拡大に並行し、それに結びついているばかりでなく、ここでも帝政期ローマのあの広大な版図を奴隷主的な皇帝の統一的政治権力のもとに結びあわせる経済的紐帯の役目を商業が果たしていたことは明らかである。同じように、中世の西ヨーロッパにみられる「貨幣経済」の発達や商業の繁栄も、すぐれて「自然経済」的と規定されているあの「封建制」諸関係と、実はむしろ広くまた深く結びついていた。

少なくともそうした「貨幣経済」ないし商業のいちじるしい繁栄は、「産業資本」形成の萌芽ともいうべきものをもちろん例外的には伴っていたにしても、全体としては、むしろ反対に、旧来の事情に結びつき、それを維持しようとする傾向を強く示していたといわねばならない。


こうして、この本の中心テーマが、あらためて確認されます。

このようにして、われわれはどうしても次のように考えねばならないことになる。すなわち、「貨幣経済」の発達や商業の繁栄というような一般的事実からただちに「産業資本」の原始的形成を推論したり説明したりすることは、とうてい不可能である、と。もちろん近世に入れば、古い「貨幣経済」や商業と並存しつつ、「産業資本」の生誕と成長が開始されるが、やはりそのばあいにも、後者が前者のおのずからな帰結であるなどとはとうてい結論できない。つまり、「産業資本」の原始的形成を説明するためには、単なる「貨幣経済」の発達や商業の繁栄などという一般的な事実だけでは少なくとも不十分であり、したがって、いま少しく立ち入って「産業資本」成立の経路や条件をいっそう具体的に追求してみることがどうしても必要となってくる。


ここまでで、こんなに長くなってしまいましたが、実はこの本に貫かれる前提部分がとても重要なので、まあこんなに大量に引用してしまいました。


この後、中世都市に根付く「前期的資本」と、農村部から新たに生まれてきた農村工業「マニュファクチュア」を対比させ、両者が歴史的に対立したり、あるいは相互依存しつつも、最終的には「マニュファクチュア」を担ってきた人々が、「労働者」と「産業資本家」に分化し、近代に独自な生産様式たる「資本主義」が誕生してきたことを明らかにします。ここでは詳しい紹介はしません。是非本を手にとって読んでいただきたいです。



それで、ここからは僕の問題意識に絡む話なんですが、この本の中でイギリス農村部での「マニュファクチュア」誕生の契機の一つとして、「土地囲い込み運動」Enclosure Movement が挙げられています。土地囲い込み運動によって、封建的な「村落」共同体のもとにあった土地占取関係が崩され、一方で土地に縛られた共同体から、多くの人々が引き離され、毛織物工業のうちに再組織されていく。
ですが、僕の関心は、この「土地囲い込み運動」以降に生まれてきた「マニュファクチュア」よりも、「土地囲い込み運動」によって解体されていった中世の封建的な「村落」共同体。こちらほうが気になってしようがないんです。

この地図は、「土地囲い込み運動」以前の「村落」共同体における土地占取関係を説明するために、この本に「付図」として載っているものですが、これを見ると、あらためて以前こちらで取り上げた問題意識が思い出されます。
農村工業「マニュファクチュア」が、産業資本誕生の基盤となった。でもそのマニュファクチュアを用意したのは「土地囲い込み運動」と併せて、中世ヨーロッパ農村部における「ゲルマン的」共同体が非常に大きな意味を持っているのではないだろうか?ということです。
『欧州経済史』では近世から近代にかけての「産業資本」の誕生に焦点を絞っているので、中世の「ゲルマン的」共同体については、あまり触れられていません。でも大塚久雄は、アジアや古代〜中世ヨーロッパの共同体を論じた『共同体の基礎理論』という仕事をのこしています。そして『共同体の基礎理論』こそが、僕を魅了した大塚史学、その醍醐味を味わえる本、だと思っています。
ということで、次は『共同体の基礎理論』を取り上げたいと思うんですが、いろいろと思い入れのある本なので、まあおいおいと。

カレー無料ネタに反応してみた

たまには気軽にエントリー。ネタに反応してみます。


もしも「カレー無料法」ができたら - モジログ
ついでに、はてブの反応。
はてなブックマーク - もしも「カレー無料法」ができたら - モジログ


はてブのコメントが壮観ですねえ。
現実の世の中、それこそ程度の問題やケースバイケース、個別具体的、という、認識に手間がかかったり面倒くさい判断が必要なものがほとんどなわけで、そういう厄介な現実と正面から向き合うことが苦手な人に限って、こういう単純な議論を好むんでしょうね。昔、左翼の一部の人たちがなんでもかんでも資本家と労働者の階級対立に収斂させてしまうような議論をしていたけど、それと同じノリを感じてしまいます。


これ、どこで知ったかというと、紙屋高雪さんのブログ。
「カレー無料法」の馬鹿馬鹿しさは比喩の馬鹿馬鹿しさだ - 紙屋研究所
紙屋さんは、あまりの馬鹿らしさにあきれつつも、真面目に反論しています。


僕も、あんまりこんな議論に付き合いたくはないのですが、一言で言ってしまえば、このカレーの例えは「市場への介入が非効率を生む」という話ではなく、「公共性のない価値に公的な資源を投入しても、公共に資することはない」という話でしかない。
だから

国民からは「カレー無料法」を撤廃せよという声も強くなってきた。「カレー補助金」はけっきょく税金から出ているので、カレーをあまり食べない人にはむしろソンになっているからだ。

ということになる。
そりゃそうだ。カレー好きの人にはおいしい政策かもしれないけど、世の中にはカレー嫌いだっている。僕もカレーは月1くらいでいい。そんなに食いたくはない。カレーが「公共性」を有すると認められるかどうか、と問われれば答えは簡単。公共性なんてほとんどない。だから、この話はわかりやすく感じられちゃうのでしょう。
でも現実の世の中には、どの程度「公共性」を有しているのか、グレーな事柄に溢れています。


「公共性」が比較的認められやすいもの。例えば水道やら電気やらは、国民のほとんどが受けるサービスであるという意味では、とても公共性が高い。でも一方で受益者負担の原則に立ちやすいし、採算も合いやすいので、安全性や安定供給、適正な価格が担保できる程度での公的な介入にとどめるべきなんでしょう。医療は?となれば、これは病気にかかった人が必要とするもので、めったなことでは病気にかからない健康な人にはあまり関係ない。でもいざ病気にかかった場合に、受益者負担主義だと必要とする人に負担能力がなければ必要な医療を受けられないし、医療を受けられなければ、生存権とか健康的な生活を送るといった基本的人権をも脅かされてしまう。それゆえ「保険」的な制度が、それもできるかぎり公的な制度が必要となる。教育は?と言えば、高等教育については受益者が負担すべき、という考えもありかもしれないけど、教育レベルの向上は、回り回って国の経済的・文化的な豊かさにつながるという点では高い公共性を有しているとも考えられるし、教育を受ける権利は誰もが有する、と考えればやはりなんらかの公的な補助は必要になる。
でも、地方に新幹線や高速道路をつくることが、公共性が高いのか?とか、スポーツや文化振興は公共性が高いのか?はどうでしょう。さらに具体的にスーパーコンピューターは世界一でなければならないのか?とか、八場ダムは必要なのか?とか、パチンコ業界は規制が必要なのか?とか、このあたりになってくると、もうとってもグレーです。


問題は、「公共性」の判断はどうあるべきか?であり、さらには公共的なものの価値を高めるためにはどのような介入・制度が適切なのか?が重要なはずであって、とにかく面倒くさい個別具体性を有する話なわけです。それで、こういう厄介ですっきりしない議論では満足できない人が、往々にしてシンプルな答えを求めてしまうことにこそ、大きな罠が潜んでいるように思えます。



それからついでに。
mojix氏のカレーの話で気になるのは、「市場への介入が非効率を生む」という話の典型ではないということ。「市場への介入が非効率を生む」という話の典型は、例えばカレー産業を保護育成しようとして市場に介入することによって、結局のところカレー産業の発展・強化につながらないどころか、むしろ発展を阻害する、といった例ですよね。それでこの手の話も、市場の「外部性」やら「公共財」の絡み方の程度等、その環境によって結論は変わってくるので、やはり個別具体的に判断されるべきものなんだけど、mojix氏のカレーの例えは、そういう市場の非効率の話ですらなくて、監督官庁が肥大化するとか、一部の人だけ得をして許せない、っていうなんだかセコイ話になってしまっている。
なんかもう新自由主義とかリバタリアニズムなどという崇高な思想なんてものじゃなくて、「あいつらだけずるい」っていう、それこそ給食費未納問題とか生活保護不正受給とか、そういったことを殊更に問題視するノリに近いんじゃないのか?と思えてしまう。

POSSE vol.8「マジでベーシックインカム!?」 − 続き

前回のエントリー『POSSE vol.8「マジでベーシックインカム!?」』の話の続き。

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

前回は、POSSEの特集をもとに、ベーシックインカムにまつわる言説を、制度面からと理念面から、思った事を書いたんですが、今回は「経済」、それも「労働市場」に絡む話を。


POSSEの特集に、「経済成長とBIで規制のない労働市場をつくる」と題して経済学者の飯田泰之さんへのインタビューが載っています。
飯田泰之さんはベーシックインカム肯定派ですが、現状ベーシックインカムは財源的にも難しいので「負の所得税」というものを提案しています。が、そんなことよりも気になるのは、最低賃金制度のくだり。飯田泰之さんはインタビュアーに最低賃金について聞かれると、こう答えています。

全廃するとよいでしょう。賃金に対する規制ほど馬鹿げたことはないと考えています。

この後、飯田泰之さんの最低賃金に対する考え方が述べられていくんですが、そのなかでこんなことを言っている。

BIを導入すれば賃金が上がりますよ。だって働きたくなければ働かなくなるわけですから。

でも、インタビュアーにそんなことはないんじゃないか?と突っ込まれて、地方は賃金を下げざるをえない。東京は上がるんじゃかな?というふうに言いなおしてはいます。
そこで僕がここで考察したいのは、ベーシックインカム導入+最低賃金制度の廃止によって、果たして賃金は上がるのか?下がるのか?それも貧困層の非熟練単純労働の労働市場の賃金がどうなるのか?ということです。


飯田泰之さんの言う、ベーシックインカムを導入すれば賃金が上がるだろう、という考えは、おそらくこういう理屈なんだと思います。

右下がりの労働需要曲線と、右上がりの労働供給曲線。その交点で賃金が決まる。ベーシックインカムを導入すれば、働きたくなければ働かなくなるので、労働供給曲線が左にシフトし、結果賃金は上がる。


でも、低賃金の非熟練単純労働の市場では、もうひとつ重要な要素が入ってきます。それは、これ以上賃金が低かったら生活できない最低生活費のレベル。その最低生活費レベルを境にして、労働供給曲線は傾きが小さくなります。

どういうことかといえば、東京で一人暮らしでは、生活に家賃込みで10万円台前半は最低でもかかりますよね。年金とか健康保険の保険料も考えれば、最低でも月15万はないとやっていけない。これを1日8時間月20日程度働くとして、時給に換算すると約900円。実際都心部だったら時給900円くらいは出さないと、人はなかなか雇えないでしょう。首都圏でも住宅地の近くだったら、もう少し安くても人は雇えますね。勤務地までの移動時間や交通費等が違う。さらには主婦パートや学生アルバイト、親同居のフリーターなんかも労働の供給側に入ってくる。ただそうはいっても、やはり労働供給曲線はこの最低生活費レベルに大きく制約される。そして、この最低生活費レベルというのは、要するに労働力を再生産する(生きて明日も明後日も勤務する)ための最低限のコストだと考えられるわけです。最低生活費レベルより賃金が下がってしまえばコスト割れ、ということです。


では次に、労働需要曲線はどうか?これは賃金の上下によって、どの程度採用が増えたり減ったりするのかを表すので、非熟練単純労働の単価が下がった場合に、どの程度労働需要が増えそうなのかを想像してみます。
例えば売値200円の消費財があるとします。この200円のうち、パートやアルバイトのような国内の単純労働によって生み出された価値はどの程度あるのか?日本のような成熟した資本主義国では、国内の単純労働の比率はかなり低そうです。仮に50円だとします。パートやアルバイトの賃金が1割低くなったとすると、50円のうちの1割。つまり5円安くなる。この消費財の売値200円のうちのたったの2.5%です。それで2.5%が価格にそのまま反映されて195円になったとして、この消費財の需要はどの程度増えるか?たいして増えそうにありません。高い価値を提供する労働市場で、労働供給が不足しているために賃金が高止まりしていて、それがその賃金が安くなれば大きく需要を増やす可能性がある、そんな労働市場と異なり、非熟練単純労働の市場では、もうこれ以上賃金が安くなったところで、たいして労働需要は増えそうにありません。ですから、非熟練単純労働の市場での労働需要曲線の傾きはかなり大きいと思われます。

このグラフは、労働需要が総じて少ないので、賃金が最低生活費レベルに張り付いてしまっています。
ちなみに飯田泰之さんは、POSSEのインタビューでこんなことも言っています。

 実際、最低賃金については、東京で安すぎるのですが、地方では高すぎでしょう。400円で事務員を募集したら応募が殺到したという話が秋田県であったそうです。その地区の場合、自宅が親元であれば住居費はいりませんから400円でも働きたい。最低賃金法でこれを禁止してしまうとそうすると、時給700何十円ほど生産性のない人にとって、収入を得る方法がなくなってしまうんですね。

「時給700何十円ほど生産性のない人」とか、突っ込み入れたくなるような表現もあるんですが、それはおいておいて、地方では最低生活費レベルが最低賃金より低いってことです。

逆に東京はどうか。最低賃金より実際の賃金のほうが高いとのことですが、要は最低生活費レベルが最低賃金より高い、とも考えられます。事実、僕らの感覚としては東京での非熟練単純労働の賃金は、最低生活費レベルに張り付いている、という印象です。

それで、ベーシックインカムを導入したらどうなるのか?一つは、働きたくなければ働かないという選択をする人も増えるかもしれない(主婦パートとか親同居のフリーターとか、まあどちらかといえば恵まれている人たちですね)。これにより労働供給曲線は左にシフトする。でもベーシックインカムだけでは生活できないとなれば、やはり働かなくてはいけない。一方でベーシックインカムという底上げがある分、最低生活費レベルは下がる。となると、労働供給曲線はこんなふうにシフトするはずです。そして、最低賃金制度もなくなれば...

実際の労働需要曲線がどうなっているのか?はわからないのでなんとも言えませんが、このグラフのような労働需要であれば賃金は下がります。そして、成熟した資本主義国である日本においては、非熟練単純労働の市場はとても需要制約的になりがち(他の先進資本主義国を見てもそう)なので、賃金が下がる可能性はかなりあるのではないでしょうか。
現在の日本は総需要不足であり、飯田泰之さんはリフレ策によって需給ギャップをなくせば大丈夫だとお考えなのかもしれませんが、ちょっと前の景気の良かったアメリカやヨーロッパですら、非熟練単純労働の市場では、かなりの需要不足がみられたわけです。以前「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で放送された『ウォルマート〜世界最大のスーパー、その闇〜』という映画を見てビックリしたんですが、ウォルマートでは最低生活費レベルにすら達しない賃金の代わりに、従業員にフードスタンプ(食糧配給制度)と生活保護を申請するように指導していた。要するにウォルマートは、自らが使用する「労働力」のコスト(つまりは労働力を維持し再生産するための最低生活費、というコスト)を負担せずに、生活保護制度によって不当に安く「労働」を仕入れていた、とも言えるわけです。景気の良かったアメリカですら、非熟練単純労働の市場はこんなもんです。


ベーシックインカムによって、最貧層の非熟練単純労働の賃金が最低生活費レベルよりも下がるとすれば、それはすなわち、ベーシックインカムによって非熟練単純労働のコスト(つまりは労働力を維持し再生産するための最低生活費)を、その労働を調達する事業者が支払わずに一部を公的支出によって賄う、ということであり、最終的には消費者が、その「労働」のコストの乗っていない単価で、その財やらサービスを購入するということになります。
飯田泰之さんは「賃金に対する規制は、人々の生活保障の負担を企業に間接的に負わせようという制度です。」と言っています。でも企業、さらにはその先の消費者が、自ら受益する価値に乗せられた、「労働」を再生産するためのコストである、労働者の最低生活費分は最低でも負担すべき、と考えれば「間接的な生活保障の負担」ではなく、「直接的なコストの負担」とも考えられますよね。


よく、最低賃金制度を廃止しろ!みたいなことを言う人がいます。市場をゆがめる、と。でも一方で、最低賃金すら払えないゾンビ企業はさっさと市場から退場していただいたほうがいい、という人もいます。はてさて、どちらが市場主義的なんでしょうかね。


個人的には、労働力を再生産するコストを、その受益者が支払わない「市場」はいかがなものか?と思います。ただでさえサービス(労働)に対するコスト意識が低い日本の消費者です(サービスとはタダだと思っている節がある)。価値中立的であろうとする現代の主流派経済学では「消費者の価値観」を経済学の俎上に載せることはありません。ですが労働に対するコスト意識の低下は、消費の価値意識(構造)を歪め、最終的には労働集約的なサービス産業が、公的なコスト負担なしには成り立ちづらくなってしまうのでは?と僕は思ってしまいます。


まあ長々と書いてしまいました。とりあえずベーシックインカムについてはこんなところで。
実をいうとマクロ経済へのベーシックインカムの影響、という問題も僕の頭の中にあるんですが、ここではやめておきます。ベーシックインカムのような再分配のシステムとマクロの経済成長の話を絡めると、これがもう荒れること間違いなし、なネタにもなるんで...

POSSE vol.8「マジでベーシックインカム!?」

本当に久しぶり、9か月ぶりの更新です。まあとにかく仕事が忙しくて混乱していたのですが、ようやくブログを更新できる物理的精神的余裕が生まれました。


このブログでは確か大塚久雄の経済史ネタを扱っていて、その途中だったんですが(実は大塚久雄の「前期的資本」の話とか、少しは原稿書きすすめてはいたんですけどねえ...)、今回は復帰一発目ということでマニアックネタは避けて、POSSE vol.8の特集「マジでベーシックインカム!?」について。

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

去年の9月刊行ですね。今頃このネタか、とも思うんですがいいんです。いつも旬の時期は逃すので。POSSEはもう既にvol.9が出ていて、こっちはブラック企業特集でとても面白そうなんだけど、Amazonで注文したら今だ届かず...増刷中なのかな?


ということで、ベーシックインカム。僕がこの言葉を初めて目にしたのはやはりWebでした。小飼弾さんのブログだったような気がします。個人的には最低所得保障の理念が、生活保護から雇用保険最低賃金、年金にまで貫かれるべきだ、くらいのことは考えていたので、ベーシックインカムを初めて知った時も、まあそういうのもアリなのかな?と思ったのを覚えています。
ところが、その後の議論の盛り上がりを見ていると、ちょっとおめでた過ぎるくらい安易な語られ方をするようになってきた。なので僕のなかでは、このベーシックインカム周りの言説に対して、なんだかなあ...というか、それこそ「最低所得保障という理念を制度に落とし込むのは、そんな単純な話じゃねえよ!」という、反発心も生まれてきていた。そんな折に、タイミング良くPOSSEの特集です。


僕がベーシックインカムに対してもっとも疑問を感じていたのが、家族や世帯ではなく、あくまで個人に対して一律の金額を支払うという点。その金額はどういう理念に基づき、どういう基準で算出されるのか?ところが、どうもこの点がはっきりしない。かといって、ベーシックインカムについて書かれた書籍をわざわざ買って読むのもなあ...と思っていました。
そんな僕にとって嬉しかったのは、このPOSSEの特集では、ベーシックインカムの議論を俯瞰できるような内容になっていて、話についてこれていない人も、一通りおさらいできるようになっている。そしてベーシックインカム推進派から、慎重派、否定派、理念論から制度論、経済(市場)論まで、一通りの意見が集められている。編集者自身はベーシックインカムに対して否定、または懐疑的な立場のようなので、全体としてはどうしても否定、懐疑のトーンが強くはなるんでしょうけど、それでも極力バランスを取ろうとしているので、変な先入観なく読めると思います。


それで、読んでみての僕の感想は、結局のところ制度としてどのように設計していくのか?という具体的な話が、推進派の人たちのなかでも、ほとんど考えられていないんだなあ、ということ。しかも、支給される金額がどういう理念に基づき、どういう基準で算出されるのか?が、まったくもってあやふやなのである。この点について制度論的に明確に問題点として指摘しているのが、後藤道夫さんの『「必要」判定排除の危険 ― ベーシックインカムについてのメモ』。これ読んだら、ああまったくその通り、とうなづいてしまいました。
例えば、ベーシックインカム生活保護に置き換わるものと位置づける場合。後藤道夫さんによれば、東京都内に住む単身、借家の18歳の場合、住宅扶助の特別基準上限額を用いた最低生活費は14万円だそうですが、要するに最も厳しい条件の人でも生活が保障される金額、というのが算出基準になる場合、この月14万くらいがベーシックインカムの給付額にならなければならない。そうなると、うちみたいに3人家族の場合、個人に一律同じ金額ということなので14万×3=月42万になる。子だくさんで7人家族だったら月98万。まあ子供は給付額を変えるにしてもですよ、これはちょっと非現実的ですよね。
推進派の小沢修司さんは、生活保護の生活扶助部分が都会の20〜30代の一人暮らしで、8万5千円くらいなので、これを参考に8万という数字を出しています。ということは住宅扶助分は別に出るということですよね。住宅扶助分はベーシックインカム方式ではなく必要な人に給付される。そうなったとしてベーシックインカムは例えば3人家族では8万×3=24万ですよね。5人家族なら8万×5=40万。こういう人たちでベーシックインカム以外に所得のない人には住宅扶助分は出るんでしょうか。やはり世帯収入にベーシックインカム分も加えた上で、支給するしないを決めるんですかね。そうなると下手すればベーシックインカムの金額によって出たり出なかったりしますよね。かなり制度設計難しそうです。まあ住宅はとりあえずおいておくとして、生活という面で見ても、東京の一人暮らしの人が最も厳しい条件だとして、その条件に合わせた8万。同じ8万で、例えば沖縄の離島の5人家族が40万。こういうのどうなんですかね。
社会保障というのは、最も厳しい条件の人でも、まっとうな生活が送れるようにしてあげる必要がある。それをもしベーシックインカムのような制度でカバーしようと思えば、最も厳しい条件の人に合わせなければならない。でもね、日本は広いわけですよ。様々な人がいる。確かに数字の上ではまったく同じ給付額だとしても、人によってその意味は全く異なるわけです。こういうのをあたかも平等だ、みたいな感覚でとらえるのはちょっと危険な気がします。そして、もし最も厳しい条件での必要分を、ベーシックインカムの給付額の基準としない、ということになれば、じゃあベーシックインカムはどこまでを保障し、そこからこぼれる部分はどのような制度によって賄われるのか、この切り分けを明確にすることが非常に難しくなるし、給付額の根拠もあいまいになる。そして、そうなった場合には、そのあいまいさゆえに、間違いなく政治的な思惑によって、大きく歪められてしまう危険性が高くなる。(子供手当も、ある意味政治的に決められた3万という金額のせいで、子育てに対する社会保障の議論が、なんだかおかしなことになっていますよね)
後藤道夫さんは、これを「必要」判定排除の危険、としてわかりやすく解説しています。とにかく、読んであらためて思ったのは、ベーシックインカムは「制度」として考えた場合、あまり筋がよくない、ということです。
公的サービスは現在、より個別具体的な対応が求められてきています。それゆえに役所だけでの対応では限界があり、多くのNPO法人との連携など、新しい公共サービスの在り方が模索されています。社会保障、生活保障についても、様々な個別の「必要」をどう把握し、きめ細かく対応できるか、より重層的な制度が必要なはずです。ですからベーシックインカムは、最大の特徴であるそのシンプルさが、実は最大の問題点であるように思えてきます。


さて、ここまでは「制度」としてみた場合についてですが、理念や思想として考えてみた場合、どうなのか?
POSSEでは「新自由主義との親和性」という観点が何人かの論者によって語られていて、これはもともと僕も感じていたことですね。むしろ驚いたのは推進派の人たちが、「労働」と「所得」を切り離すだの、労働からの「解放」だ、などという、根本的に社会の在り方を変えるかのような、大それたことを言っている。ずいぶんとスケールの大きい話です。当然、僕はものすごい違和感を感じたんですが、特に労働からの「解放」だの「自由」だのといった考え。なんだか「解放」とか「自由」とか「自立」というものの捉え方が、僕とは全然違うんだなあ...と思ってしまいました。


僕は、このところ経済史とか文化人類学方面にも興味を広げていて、そこで得た知識をもとにすると、人間の関係性って、ベースに「必要とする」と「必要とされる」があって、それが相互に絡み合って、時には抑圧が生まれたり、あるいは協力が生まれたりと、この「必要とする」と「必要とされる」の力学が強く働いていると思うんです。よく経済で需要と供給という言葉が使われますが、これは商品化され貨幣価値で交換される市場の上での「必要とする」と「必要とされる」の関係性です。近代以前なんかでは、農地を必要とする農民と、耕作して地代を支払う耕作人を必要とする地主の関係がそう。ここでは農地を「必要とする」が強く、逆に地主から「必要とされる」が弱いと、従属的な関係になってしまう。そして歴史的に見て、個人の「自由」や「自立」は、この「必要とする」と「必要とされる」の力学と不可分な関係にある。「必要とされる」が「必要とする」より弱ければ、どうしても従属的になってしまうし、「必要とされる」の選択肢が狭ければ、その限られた「必要とされる」場所から離れられなくなってしまう。一方で「必要とされる」が、個々では弱くても、組織的に統合して顕在化・強化することができれば、対等な立場をつくりだせたりもする。近代から現代にかけての個人の「自立」だの「自由」だのも、この「必要とされる」が、広げられ、強められたことによって、獲得できてきている。


それで話を戻しますが、社会的弱者というのは、この「必要とされる」が圧倒的に弱い人たちだと思うんです。労働市場で必要とされない。あるいは、必要とされる場所はあるのかもしれないけど、それを結び付ける回路がない。さらには、経済的な関係だけでなく、家族、友人、その他様々なコミュニティ、共同体からも「必要とされる」が弱い。
ベーシックインカムは、社会的弱者の脆弱な「必要とされる」を強めるものではありません。「必要とする」を弱めて、従属的な関係を和らげることはできるかもしれない。けれども、けっして「自立」だの「自由」だの「解放」といった、社会の在り方を変える新たな革命に結びつくようなものには思えません。
ベーシックインカムは、生活保障を受ける人たちへの蔑視、劣等視を和らげる、と言います。受ける側もそういった恥辱感を持たずにすむと。本当にそうでしょうか?僕には「いい大人が働かず税金も納めず、国に甘えてんじゃねえよ!」という蔑視がなくなるとは思えません。「必要とされる」が弱い限り、社会的な排除、蔑視からはそう簡単に逃れることはできない。そう思います。
所詮、所得保障は、所得保障でしかないのです。


ここまで、制度論的にも理念的にも、ベーシックインカムについて思ったことを書いてみたんですが、あともう一点「経済」の観点から、ベーシックインカムに対しての根本的な疑問があります。POSSEの特集に経済学者の飯田泰之さんへのインタビューがあるんですが、飯田泰之さんは、制度導入に際しては最低賃金制度をなくすべき、と言っているんですね。ベーシックインカム(あるいは「負の所得税」)を導入し、最低賃金制度をなくす。その結果労働市場はどうなるのか?僕はどう考えても、人手の余っている非熟練単純労働の市場では、その賃金は大きく下がる、としか思えないんですが、経済学者である飯田泰之さんは、そんなことない、って言っている。


ということで、この話は長くなりそうなので続きます。
労働力を再生産するためのコストを市場が負担しない、そんな経済クソ喰らえだ、ってなことを書こうと思っていますが、はたしてどうなるやら...

大塚久雄「社会科学の方法 ― ヴェーバーとマルクス 」「社会科学における人間」


約2ヶ月経っての更新です。まあとにかく仕事が忙しかった...ので、ブログ書くのはほんと久しぶりです。今もまだ忙しいのですが、まあピークは越えました。
えーっと、前回忙しい中なんとか書いたエントリー。共同体の歴史ってものをちゃんと見つめ直したら、いわゆる「日本的」なるものが、もう少し良く見えてくるんじゃないかと。それで経済史とか、共同体の歴史を追いかけてみよう、ということになればやはり大塚久雄先生しかいないだろう、という話でしたね。


今回は大塚先生の新書2冊をご紹介。目指すところは、大塚久雄「共同体の基礎理論」にあるんですが、まあいきなりそんな本を読むのは直球すぎてちょっとなんだかなあという気もするので、軽く新書から。こういう回り道も大切です。

社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

社会科学における人間 (岩波新書)

社会科学における人間 (岩波新書)

大塚久雄といえば、マックス・ヴェーバーを日本に広く紹介した人、というイメージが強いでしょうかね?ご本人、プロテスタントでもあって、ヴェーバーの宗教社会学の影響を受けながら、「近代化の人間的基礎」、「国民経済」などなど、まあおもいっきり近代主義思想の人です。当然ポストモダンが流行した時代には否定されて、今となっては丸山眞男以上に忘れ去られた感が強いです。
また、ヴェーバー社会学マルクスの経済史観を加えたようなことをテーマにした人なので、それこそマルクスヴェーバーなんて言われたりもしたそうです。で、今回紹介する岩波新書2冊も、そのマルクスヴェーバーがテーマになっています。


青版の「社会科学の方法 ― ヴェーバーマルクス 」は、4つの講義録をまとめたものとなっていて、一つ目が本書のタイトルと同じ「社会科学の方法」。ここではマルクスヴェーバーの方法論のお話が、比較されつつ紹介されています。三つ目は、ヴェーバーの宗教社会学での儒教とピューリタニズムのお話、四つ目はヴェーバーが、マルクスでいう上部構造と土台との関係、つまり思想と経済との関係をどのように考えていたのか、というお話。で、唯一異色なのが二つ目の「経済人ロビンソン・クルーソウ」。そして僕の印象に最も残ったのが、この2つ目のロビンソン・クルーソウとその作者、ダニエル・デフォウのお話なんです。
黄版の「社会科学における人間」は、NHKの連続講義をもとにしたものですが、こちらは、I「ロビンソン物語」に見られる人間類型、II マルクスの経済学における人間、III ヴェーバー社会学における人間類型、と三章だてとなっており、ここでもロビンソン物語がでてきます。ちなみにこの本の「ヴェーバー社会学における人間類型」の章は、ヴェーバーの宗教社会学の非常に良い入門となっているので、そちらに興味のある人にはお勧めです。


そこで、今回このブログでは、「経済人ロビンソン・クルーソウ」に絡んだ話を紹介します。大塚先生は、「資本主義」とか「近代」の誕生を担った「人間」「ひと」が、どのような人間類型?であったのかを、「ロビンソン・クルーソウ」とその作者ダニエル・デフォウにスポットを当てて、分かりやすく解説しています。
ところで、僕らは今の社会、資本主義社会というものを、当たり前のものとして受け入れているわけですが、でもちょっと考えてみれば、歴史的に見ても、さらには数十年ほど前までは地理的に見ても、「資本主義」とか「近代」というものは、非常に特殊なもので、なんでこのような社会が誕生したのか?ということは社会科学的にみてもとても重要なテーマなんです。それで大塚久雄先生の専門は経済史、それも「資本主義」「近代」の誕生がメインなわけで、その近代の誕生というものがどのようなものであったのか?を考える上で非常に重要なのが17世紀後半〜18世紀前半のイギリスになるわけです。


んでは、ちょっと引用してみましょう。

経済理論というものはその出発点において、ある人間のタイプ、とくにある合理的な人間行動のタイプを予想しているわけです。人間というものは、経済の営みにおいて、だいたいこういう合理的な行動様式をとるものだということを前提として経済理論がつくりあげられる。こうして、人間の営みにほかならぬ経済現象を対象として、科学といわれるにふさわしい学問ができてくることになるのですが、ここで私が「経済人」というのは、歴史上経済学らしい経済学のはしりともいうべきイギリスの古典派経済学、つまりアダム・スミスからリカードにいたるあたりの経済学のばあいに、その方法的前提として想定されていた人間のタイプを、そして彼らみずからがそう呼んでいたものを考えているわけです。
 さて、アダム・スミスが『国富論』を書くにあたって、前提にしていたその「経済人」(ホモ・エコノミクス)という人間のタイプ、あるいは人間類型を知るためには、もちろん彼の『道徳情操論』その他を十分研究しなければならぬわけですが、もしそれをやさしく説明すれば、どうなるか、と問われると、私はどうしても、『ロビンソン・クルーソウ漂流記』を読んではいかかですか、といいたくなるのです。
<「社会科学の方法 ― ヴェーバーマルクス 」100〜101P>

 ところで、このダニエル・デフォウの書いた『ロビンソン・クルーソウ漂流記』ですが、あれにはモデルがあったと言われております。私は突っ込んで研究したことがありませんのでよく分かりませんが、たぶんあったんだろうと思います。しかし、私のような社会経済史を専攻している人間が、ややつむじ曲がり的に読みますと、それとは少々別の面が浮かび上がってきます。ロビンソン・クルーソウは孤島に漂着して、そしてそこで長年たった一人で生活をした。犬や鸚鵡、それからあとになっるとフライデーがやってきますが、まあの生活はたった一人でやったと言ってもよいでしょう。そういうたった一人の生活の物語なのですが、しかし社会経済史家の目で見てみますと、あのロビンソンの孤島における生活には、なにか社会的モデルとも言うべきものがあったと、どうしても考えざるを得なくなるのです。そしてその社会的モデル、著者デフォウが生きた時代、つまり17世紀の終わりから18世紀前半にかけての、だからあの事情通のデフォウが熟知していた当時のイギリスで、広く農村地域に住み、そしてさまざまな工業生産、とりわけ毛織物製造を営んでいた中小の生産者たち、私はそれを「中産的生産者層」とよぶことにしていますが、そういう人々の生活様式こそがそれだったと考えるのです。デフォウは、彼らをいわば社会的モデルとしてあの孤島におけるロビンソンの生活を描き出したんだと、私にはどうしてもそう思われるのです。
<「社会科学における人間」24〜25P>

大塚先生は、経済学における合理的経済主体なる「経済人」(ホモ・エコノミクス)として、ロビンソン・クルーソウを挙げ、ロビンソン・クルーソウこそが、17世紀の終わりから18世紀前半にかけてのイギリスにおけるマニュファクチュアの担い手たち、つまりは資本主義の担い手たちへとつながる人間類型であると。そしてマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかでも、さらりとロビンソン・クルーソウに触れられているように、ロビンソン的人間こそが「資本主義の精神」を表しているのではないかということです。
ロビンソン・クルーソウのどのあたりが「経済人」であり「資本主義の精神」なのかは、この新書2冊を読めばよくわかります。なので興味のある方はぜひ読んでみてください。ただここでは、あまり突っ込む気はありません。僕の関心は、あくまで経済史であり、共同体の歴史なわけです。


それで、「社会科学の方法 ― ヴェーバーマルクス 」の「経済人ロビンソン・クルーソウ」のなかで、マニュファクチュアで働く人々、「中産的生産者層」の暮らしぶりがどのようなものだったのか、を具体的に紹介するため、ダニエル・デフォウの他の著作を引用して解説しているところがあります。僕が、今回このブログで紹介したかった部分はこのところです。いやあ、やっとたどり着きました。前振りが長すぎましたね。すんません。

 デフォウは、『ロビンソン・クルーソー漂流記』を書いたちょっとあとだと思いますが、『大英帝国周遊紀行』"A Tour through the Whole Island of Great Britain"という本を書いております。彼は、もともと新聞記者で、おそろしく知識が広く、政治、経済、社会、各方面についていろんなことを知っていた。その彼が国中を旅行し、その経験を生かして旅行案内を書いた、それがこの本です。読んでみると、じつにおもしろい。どこまでこの記述を信用していいか、歴史家はなかなか慎重に批判的に読むけれども、経済史の重要な史料の一つです。そのなかで、のちに産業革命のときに綿工業の中心となるランカシャーマンチェスターから東へ行ってヨークシャーの方にはいっていく州境、当時はそのあたりからヨークシャーの西部(ウェスト・ライディング)の地方にかけては、毛織物の重要な生産地帯でした。その州境を越えて、ヨークシャーにはいっていく道すがら、そのあたりの情景を眺めたときのことを詳しく書いています。おもしろいからちょっとご紹介しておきましょう。

マンチェスターといえば、今ではものすごく強いサッカーチームのある町だという印象ですが、歴史的にみれば産業革命において中心的な役割を果たした町です。毛織物工業が発展し、その後、綿織物工業がおこり、機械化によって一挙に発展しました。そのマンチェスター産業革命前のマンチェスターから東に向かっていく、そんな光景を想像してみましょう。

 毛織物工業の中心地であるハリファックスという町に近いあたりを望見した情景ですが、「ハリファックスに近づけば近づくほど家並みはますます密になる。」このへんは丘を上がったり下がったりする道がずっとつづいているのです。その「丘のふもとの村々はますます大きくなってくるのが目につく。その嶮しい丘の斜面にも一面の家があり、しかもひじょうに密集していた。土地が小さな囲い込み地にわかれていて ―― どれも二エイカーから六、七エイカー、それ以上はめったにない ―― 三、四区画の土地ごとに一軒の家があるという具合になっている。」そのあたりを通っていくうちに、だんだん、どうしてそうなっているかというわけが彼にわかってきた。「こういうふうに土地が小区画に分かれて住居が分散しているのは、人々が広く営んでいる毛織物製造の仕事の便利のためなのだ。」つまり三つか四つぐらいの囲い込み地のまんなかに家がある。それもただの住居ではなくて、みなそれぞれマニュファクトリーがくっついている、というわけです。

囲い込み地っていうのが、ちょっとわかりづらいかもしれませんが、まあちょっとググってみてください。ちなみにイメージとしては、Googleの画像検索で、"yorkshire hill"と検索してみると、ヨークシャー州の、そんな感じの絵や写真が出てきます。それと1エイカーは、約1200坪。どれくらいの大きさの囲い込み地なのか、想像できると思います。

 ところで、三つ目の丘を登りつめたとき、彼の目に映ったのは、それから向うは、てっとり早くいえば、ずっとつづいた一つの村のように、同じ情景がどこまでもつづいているということでした。「隣と話ができないような家はほとんどない。そのうち天気がよくなって、陽が射してくると(それでそこいらの仕事がじきにわかったのだが)、どの家にも張物枠があり、どの張物枠にも毛織物が張ってあるのが見えた。」ところで、よくみると、どの家のそばをとおっても、小さな流れか溝があって、それが家のなかに流れ込み、流れ出ている。そして「目立った家にはどれにもマニュファクトリーすなわち仕事場があった」。しかも、それだけではなく、「どの織元(毛織物製造業者)もきっと一、二頭の営業用につかう駄馬を飼っている。」それで、いろいろなものを市場に運んでいったり、運んできたりするのだ。そのほかに彼らは「みな家族のために、一、二頭あるいはもっと多くの雌牛を飼っている。家の周りの二、三ないし四区画の囲い込み地がそれにあてられている。穀物はやっと養鶏にまに合う程度に種子を播くだけ」である。家畜を飼っているので、その糞が肥料になって地味はなかなか肥えている。さらに、そうした製造業者の家々のあいだには、同じように散らばって、小さな小屋ないし小住宅があり、製造業者に雇われている労働者はそこに住んでいる。そして婦人や子供たちは(自分の家のなかで、下請で)毛を梳いたり、糸をつむいだりするのに、たえず忙しい。……どの製造業者の場合でもその家を訪ねてみると、〔そのマニュファクトリーのなかに〕屈強な男たちがいっぱいいるのが目に映る。その幾人かは染物桶のそばに、幾人かは毛織物を仕上げ、幾人かは織機に、ある者はこれ、他のものはまた別のこと、みんながさかんに働き、十分に製造にいそしみ、みんなが手一杯の仕事をもっているようにみえる。……ここはロンドンとその周辺を別とすると、イギリスでいちばん人口が稠密な地域の一つだ」。 ―― こういうふうに書いております。
<「社会科学の方法 ― ヴェーバーマルクス 」107〜110P>

どうでしょうか?
だからなに?と言われてしまえばそれまでなんですが、なんというか、当時の暮らしぶりというか、光景が浮かんできますね。ダニエル・デフォウの文章もわかりやすいんでしょうし、大塚先生の訳や紹介の仕方も悪くないですね。こういうディテールというかイメージでの理解って、結構大切です。
それで、なんでしょうかね、やはり日本の農村風景とはかなり異なりますよね。かといって都市の風景とも異なります。人と人との関係性も、ずいぶん違うはずです。ああ、こんなところから近代というものは生まれてきたのか...と思うとちょっと面白いです。


ということで、今回はここまでです。なんとなく産業革命前のイギリスのマニュファクチュアの世界がイメージできたところで、次回は大塚久雄「欧州経済史」を紹介します。
まだまだ大塚久雄で引っ張ります。

「日本的」なるものを考えるきっかけとしての地図帳からの思考

どうもでございます。
1か月以上ブログ更新ご無沙汰しておりました。なんやかんやと仕事が忙しく、これがまだまだ続きそうなので、今回もさらっと問題意識だけでも書いて、つなぎとしておこうと思い、まあなんとか仕事の隙をついて書いております。


以前、ここで、最後にこんなことを書きました。

僕は阿部先生の「世間論」から、一度離れてみよう、と思っています。近いうちに、なんらかの話を、ここでできたらと考えています。

こんなことを書いたのは、実はもうすでにいろいろな方向へ思考が展開していて、しかも糸がなんとなくつながってきたっぽいなあ、という確信もあったからです。そこで、まあそんな思考の展開のとっかかりみたいなことを、今回ちょっと書いてみます。


ある日、なんとなく地図帳を見ていたんです。地図帳といっても、あの学校の地理の授業で使うやつですね。しかもなぜかうちの本棚に、昭和52年の帝国書院の地図帳があったんです。なんでこんな古い地図帳が家にあるのかはよくわからないんだけど、まあなんかのきっかけでパラパラとページをめくっていたんです。すると、あるページに目がとまったんです。
「集落の形態」というページです。

一部をアップしてみます。

これは、ドイツの集落ですね。(東西ドイツは当然のことながら分かれています。古い地図帳なので。)
一方こちらは日本の集落。

どうです?なにか気づきませんか?


よく、日本人は集団主義、欧米人は個人主義って言われますよね。でも集落の形態を地図で俯瞰して眺めてみると、全く逆の印象を受けます。人間関係の密度が濃そうなのは、住居が1か所に集まっているドイツの方です。一方、日本の場合はなんかバラバラです。
日本人は人間関係を大事にする。家族主義的な付き合いをする。贈与互酬、義理人情で、お互い助け合う。保守系の人たちが、欧米から持ち込まれた民主主義だの資本主義だのを否定する際に、こんな日本人の素晴らしさが説かれたりします。それに比べて、欧米の近代思想はダメだ!個人主義で利己的で、云々...ってな感じで。
でも、この集落の形態を見ていると、そうかなあ?とも思えてきますよね。むしろ、日本人は子育てや教育を、あくまで「私(わたくし)ごと」ととらえている。だから教育費というのは自己負担であるべき。とか、介護の問題も、あくまでも「家」の中の問題として扱うべき。だから、在宅介護中心だ。とか、それこそ自己責任だ、自分のことは自分でやれ、他人に迷惑をかけるな、みたいな日本人のイメージに近い。


なんとなく思っているんですが、「個人主義」「集団主義」っていう言葉で単純化すると、ずいぶんいろんなものがこぼれ落ちちゃっているんじゃないかと。やはり、どういう共同体内の関係が、歴史的に、経済的に、空間的に、イデオロギー的に、展開されているのか?立体的に検討してみる必要を感じてしまいます。


この地図を眺めているだけでも、いろいろなことが想像できちゃったりしますね。まず、農業の形態はどのようなものだったのか?ヨーロッパといえば三圃式農業で共同耕作ですよね。一方日本は稲作で、田植えと稲刈り以外は、基本「家」単位で耕作していたイメージがあります。
それで、この地図見ていても、日本の集落は「家」が中心なんだなあ、ということがやはり見えてくる。これ、逆に家族主義的な血族・親族を中心にしたアジア的共同体では、もっと住居も固まっていて、耕作地も共有地だったりしますが、日本の場合「家」単位でバラバラになっていて、しかもほとんどが私有地。教育も介護も、家の中の問題とするのは、子供も家族も、家父長を中心とする「私有」が強く押し出されてきていることなんだと思えてきます。


それと、これは日本のある地域の農村の集落形態ですよね。しかも平野部の。山間部に行けば、もっと違うのかもしれないし、同じ農業でも稲作ではなく、養蚕業とかになれば、また違ってくるように思えます。一方、農村ではなく、都市や町、それこそ職人の世界はどうか?商人の世界はどうか?なんてことも、考察してみるとおもしろそうです。少なくとも、日本の家父長的な親方徒弟制度の職人の世界と、ヨーロッパ都市のギルドでは、結構違いますよね。


つまり生産活動、労働形態、私有・共有関係、などなど人間関係にどう経済が絡んでいるのか。そこを深めてみることはとても有意義ではないのか、と思ったんです。
そこで、僕はこの問題をもうちょっと突っ込んで考えてみようと思い、そのての本をいろいろと読んでみることにしました。で、ある人を思い出したんです。近代以前の経済史、共同体の歴史...となると...
やっぱり大塚久雄先生だな、と。
丸山眞男の「丸山政治学」と並ぶ、大塚久雄の「大塚史学」。戦後の近代主義アカデミズムの大物です。といってもその後のポストモダンの嵐の中で、すっかり過去の人にされてしまいましたが...


それで、大塚先生の著作をいろいろ読んでみると、これが面白い。しかも、上で挙げた問題意識に見事に絡んでくる。さらには、まあなんというか、とても気になることが出てきたんです。といっても簡単に説明できるような話ではないので、徐々に整理していきたいとは思っているんですが。
そこで、このブログでも、大塚先生の著作を紹介しながら、僕の問題意識をうまく言葉にしていけたらと考えています。
といっても仕事がひと段落ついてからになりそうです。なので、マイペースでのんびりいきます。まあ、このブログは自分自身の考えを整理するために書いているんで...



とりあえず、今回はこんな感じで、お茶を濁しておきます。

「「はだかの王様」の経済学」松尾匡

松尾匡さんに興味を持って、なぜかこの本を読んでみました。

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

実はこの本、出版当初、ネットの一部で、ちょっとした話題になった本です。
『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である
山形浩生さんの、この批判があまりに強烈で、「はだか祭り」と呼ばれるほど議論が沸騰しました。そして、そんな「はだか祭り」から1年半も経った今頃になって、僕もようやく読みました。


なかなかおもしろかったです。数多くの違和感が残ったりもしたんですけど、でもよく出来てると思います。ただよくわからないのは、いったい誰が読むのだろうか?どういう読者を想定しているのだろうか?ということ。文章も平易にわかりやすく書いているんだけど、そもそもこんなことに興味を持って読もうとする人には、こんなくだいた表現じゃなくてもいいように思えるんですよね。むしろわかりやすくしすぎたために、誤解も生まれやすくなったような...。


さて、この本、マルクスの考え方を「疎外論」を軸に解説する、ということで、その「疎外論」を「はだかの王様」の話に例えて説明をしていきます。なんですけどこれ、マルクスを読んだことのある人、あるいはマルクスに関心のある人からすれば、なにかひとこと言いたくなる。そもそも、マルクスを「疎外論」で語ること自体に、違和感を感じる向きもありそうですし、「疎外」を「はだかの王様」に例えることにも、それは適切か?と思ってしまいそうです。当然、マルクスの「疎外論」自体に違和感を感じる人もいるでしょう。さらにこの本では、「疎外論」を新古典派の「ゲーム理論」を用いて説明してしまおう、ということまでやっていてですね、まあそりゃ、議論が沸騰するのも当然と言えば当然かもしれません。だからこの本、一人で読むんじゃなくて、読書会かなんかやって、その後みんなで議論したりするのが面白いんじゃないか?と。とにもかくにも「マルクス」という題材は、今までもああでもないこうでもない、とさんざん議論されてきたものですから。


僕もこの本のマルクス解釈について、いろいろと疑問、というか違和感も持ってしまったんですけど、でも基本的なところでは、結構同意できる部分もあります。例えば、第4章の「労働価値説はトンデモか?」というところ、

 ところで、マルクス経済学は「労働価値説」だってよく言われますよね。普通、「労働価値説」って言ったら、商品の価格を決めるのは、その商品を生産するのにかかった労働の量だという説をイメージします。たしかに『資本論』は冒頭から労働価値説を前提にして議論していまして、商品を生産するのにかかった労働の量に比例した割合で、商品が物々交換される事態から話を始めて、貨幣が出てくるまでを分析しています。でも、今どき、商品の交換割合である価格が、その商品を生産するためにかかる労働の量に比例するなんてことを言ったら、経済学会ではまず相手にされません。地動説を今さら唱えるのと同じレベルのトンデモな議論になります。
 じゃあマルクスの経済学は今日なんの意味も持たないトンデモ論なのかというと、そうではないというのが私の見方です。よく読んでみると明らかなのですが、この部分でのマルクスの強調点は、商品価格がその生産のための投下労働量に比例して決まるということではありません。逆なのです。商品の交換割合である価格は、その生産にかかった投下労働量からズレてしまうということこそが『資本論』のこの部分で本当に言いたいことなのです。

これについては、まったく同意できます。それこそ『資本論』第1章 第4節「商品の物神的性格とその秘密」を読めばわかるはずなんです。だからマルクスの労働価値説を使って、近代経済学(あるいはブルジョア経済学。マル経の人はこう呼ぶんですね。)に代わる「経済学」なるものを展開しようとすると、おかしなことになるわけです。マルクス資本論は、たしかに経済学を含んではいますが、あくまでも経済学批判なんです。だから、マルクスは労働価値説だからダメ、という批判も正しくないわけですね。ここのところについては、さすがに最近のマル経の衰退によって、ようやくコンセンサスを得られるようにはなってきたんだとは思います。



ところで、ふと思ったんですが、この本、マルクスを絡めなかったら、実は話がすっきりするのでは?と...。本の意味を真っ向から否定するかのような話ですが、要はワルラス一般均衡論のような効用を最大化するような一つの均衡解ではなく、個人が合理的な行動をとるという前提のもとでも、複数の均衡解(ナッシュ均衡)が考えられる。そして、もっとみんなにとってより良い均衡(パレート優位)があるにもかかわらず、そうではない均衡(パレート劣位)が持続する場合もある。ということが、ゲーム理論によって導き出せる。これがこの本の重要なポイントなんだと思うんです(これを、この本ではマルクス疎外論と結びつけているわけですが...)。
ただ、よりよい均衡に移るためには、どうすればいいのか?あるいは僕らには何ができて何はできないのか?という点について、最終的にマルクスに負う部分が出てくるんですよね。そして、そのマルクスに負う部分、その元となるマルクスの考え方自体が、僕個人としては違うんじゃないか?と思うところでもあるんですけど...


そんなこんなで、けっこう面白い本なんですが、僕はこの本を読んで、マルクスがどうこういうよりも、むしろ松尾匡先生の考え方、問題意識のほうにすごく興味がわきました。しかも、本の中身よりも、山形浩生さんとの論争点のほうが、より気になってしまいます。

 二〇〇七年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。小売販売額は執筆時点で入手できる最新データ(二〇〇七年六月)まで、何と減少しつづけています。つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に返ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を造ってあげるのに働いていることになるわけですね。

この部分についての山形さんと松尾さんとの論争を読みながら、僕が思い出したのは、新古典派の成長モデル(ソローモデル)であり、「資本の黄金律水準」なんです。要は、投資と消費のバランスですよね。というわけで、この話については、またいずれ書こうと思います。


まあなんだかんだいって、松尾匡先生の本は、もっといろいろ読んでみたくなりました。