レオン・ワルラス「一般均衡理論」

前回のエントリーで、「新古典派経済学」について書いたのだけれど、何か書き足りないなあ...と思ってしまいました。そう、新書なんかでは「新古典派経済学」を説明する際に必ず紹介される考え方です。

 1870年代に誕生した新しい経済学の考え方、今日の用語法でいえば新古典派の経済理論をもっとも整合的な形で展開し、現在にいたるまでもっとも基礎的な理論の枠組みを提供しているのは、レオン・ワルラス一般均衡理論である。
宇沢弘文著 「経済学の考え方」 岩波新書

ということで、今日はタイトルの通り、レオン・ワルラスの「一般均衡理論」について。


一般均衡理論」を説明する前に、まずは「均衡論」とは何か?を整理してみます。
右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線。交差した点で価格と量が決まる。高校の政治経済の授業でも習ったような気がしますが、経済学と言えば、たぶん多くの人はこれを思い出すのではないでしょうか?そしてこの需要と供給による価格決定論が「均衡論」です。
需要と供給 - Wikipedia

競争市場では、需要と供給(じゅようときょうきゅう)が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。以下で示す需要・供給分析は、ある財(物品)・サービスの市場に注目した分析となるため、部分均衡分析と呼ばれる。(すべての市場を同時に分析するものを一般均衡分析と呼び、対照的に扱われる。)

この有名な需要と供給による価格決定のお話は、ある一つの財での価格を説明する際に使われるものです。これは「一般均衡理論」と分ける意味で「部分均衡理論」とも呼ばれ、ミクロ経済学の基本中の基本になるわけです。ちなみにこの単純な均衡論は、完全競争経済を前提としていて、しかも需要側も供給側も「合理的」な個人を単位に考えているもの。なので、実際の経済の分析には、寡占市場モデルや独占市場モデル、つまり企業の存在を考慮に入れつつ、さらにはゲーム理論や最近では行動経済学など、いろいろな考え方を組み合わせて分析するのが普通のようです。


それでは、「部分」ではなく「一般」が付く「一般均衡理論」とは、どういうものなのでしょうか?


部分均衡理論は、1つの財市場をターゲットにします。でも価格というものは、そのターゲットとしている財市場の中だけで決まるものではありません。
例えば、牛肉の市場なんてものを考えてみましょう。BSEの問題でもなんでもいいんですが、なんらかの外部的な要因で牛肉の供給が減ってしまったとします。すると需要に対して供給が減ることによって価格は上昇します。ところが、この影響は牛肉の価格や供給量だけにとどまらないことが考えられます。牛丼屋が豚丼なるメニューを開発して、豚肉の価格も上がるかもしれない。もしかしたら、牛丼屋に行く回数を減らして、その代わりマクドナルドで昼飯を食う人が増えるかもしれない。
同じような食品だけではありません。全体的に食料品の価格が上がったら、家計における飲食費の割合が増えてしまう。そうなると贅沢品とか趣味性の高いものとか、そういった消費を減らさなきゃいけない。毎年旅行に行っていたけど今年は取り止めね、なんて奥さんに言われちゃうかもしれない。
とにかく、それぞれの財の市場というものは、相互に影響を受け合います。そこで、じゃあ全ての財市場が均衡する、そういう均衡点というのはあるのだろうか?という疑問が当然湧いてきますよね。そして、そういう均衡点があるよ、と考えるのが「一般均衡理論」なわけです。


ワルラスは、市場の相互関係を方程式にして、mの数の市場においてm個の未知数とm個の連立方程式にすることができるとしました。中学の数学で、連立方程式を習ったことを思い出せばわかると思いますが、連立方程式を解く際、2つの未知数(x,y)の場合は、2つの方程式で解が得られる。3つの未知数(x,y,z)の場合は、3つの方程式で解が得られる。だから、m個の未知数と、同じ数のm個の連立方程式であらわすことができれば、解は存在するはずだ、ということですね。ただし数学的にはそんな単純な話ではないようで、後々多くの優秀な数学者や経済学者がこの問題に取り組み、比較的厳しくないといわれる条件のもとで解が存在することが証明されたのは、ワルラスの発表から80年経ってのことだそうです。


それでは、この「一般均衡理論」が描く経済とはいったいどういうものなのでしょうか?
もともと均衡理論は、消費者にとっての効用と供給者にとっての効用が最大になるような価格・量で均衡するという考え方です。まあ、完全競争市場であるということが前提ですけれども...
それで、その「効用が最大になる」を、経済全体に広げるとどうなるのか?そうなんです、もう、その経済の条件の中で、最大パフォーマンス、最大満足の経済レベルで均衡するということになっちゃうわけです。だから非自発的な失業なんて生まれない!と。ただし、そのためには完全自由競争であり、かつ経済にかかわる個人はすべての経済情報を合理的に判断でき、さまざまな資源や資本を誰でもが自由に利用でき、しかも交換に一切の手間がかからないような、そんな世界ではあるわけです。労働の観点で見れば、昨日は魚を売っていた人が、今日はコンピュータプログラムをいきなり書いて売っちゃう、新しい技術は誰でもみんな使える、みたいな世界です。
で、一部の経済学者は、この「一般均衡理論」の世界こそが理想と考え、市場の極限までの自由化を求め、一方バランス感覚のある経済学者は、複数の対応策を天秤にかけて現実主義的に考え、はたまた保護主義を求めるようなそれぞれの業種の当事者たちは、経済学の描く世界の非現実性を指摘する。今でも、反経済学的な言説、反市場主義的な本では、この「一般均衡理論」の非現実的な条件設定を必ずと言っていいほど指摘しています。


ところで、この「一般均衡理論」最大の弱点とされるのはどのような点でしょうか?
それは時間という概念が全く入っていないということです。どのようにして均衡状態に向かうのか?ということをちょっと考えただけでも、そんなに簡単に均衡に達するとは思えないよなぁ、と考えるのが普通です。さらには経済環境というのは日々刻々と変わっていくので、その変化によって均衡点も変わってくるだろうし、その変っていく均衡点に、ちゃんと調整がついていけるのかも疑問です。
でも、そんなことよりもなによりも、もっとも重要なことは、経済活動というものは今現在のためだけに行われているわけではないということ。つまりは将来のための経済活動というのが存在しているということです。将来に向けた貯蓄、投資、資本蓄積などなどが、「一般均衡理論」では完全に抜け落ちているのです。
そして静学的な均衡理論の積み上げによる経済分析ではなく、経済全体の統計数値等から国全体の経済を説明し、将来への「期待」、未来の「不確実性」によって、経済活動が左右されるという考え方の「ケインズ経済学」が登場するわけです。




というわけで、今回のエントリーは、「新しい古典派」を説明するための布石です。「新しい古典派」を説明するためには、「新古典派」の抱えていた問題点を考える必要があります。そしてその問題点とは、時間軸の欠如であり、特に将来への「期待」をどう扱うかだったわけです。
それでは、「新しい古典派」は「期待」というものを、どのように扱ったのか?そして時間軸をどのようにして取り入れていったのか?


またまた次回に続きます。