大塚久雄「共同体の基礎理論」

大塚久雄を代表する、まさに古典と呼ぶにふさわしい「共同体の基礎理論」。

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

1955年刊行。この本は東京大学大学院経済史課程での講義の草稿をもとに講義用テキストとして作成されたものだそうで、ようするに大学院生向けの教科書ですね。内容はというと、資本主義誕生に伴い、解体されてきた古い封建的な「共同体」。「近代化」を考える際には避けて通れない「共同体の解体」。その共同体に焦点を当てて、それがどのような変遷をたどってきたのか、どのような類型、発展の段階があったのか、考え方の軸を整理、提供するものです。そして「共同体」の基本的な発展諸段階、基本諸形態として、「アジア的形態」、「古典古代的形態」、「ゲルマン的形態」の三形態を基本諸形態として分析。これはマルクスの「資本制生産に先行する諸形態」での共同体の分類がそのまま下敷きとなっています。ちなみにマルクスの「資本制生産に先行する諸形態」は草稿なので、はっきり言って読みづらくて難解なんですが、この「共同体の基礎理論」を読んでから読むと(ついでにできれば資本論も読んでから読むと)面白く読めます。そういう意味でも入門教科書的ですね。さらに「共同体の基礎理論」では、マックス・ヴェーバーの仕事(ドイツ歴史学派の流れ)からも、かなり引用されています。マルクスの骨格を使いながら、ヴェーバーで肉付けがされている、という感じでしょうか。教科書なので日本語訳が出ているものからの引用が多いです。ただ、今となっては教科書としては古すぎですが。
ところでびっくりしたんですけどマルクスの「先行する諸形態」って、今や筑摩書房の「マルクス・コレクション」にしかないんですね。他はみんな絶版。国民文庫がお手軽でよかったんだけど、古本屋で見つけるしかない。さらに、この「共同体の基礎理論」で多く引用されているヴェーバーの「一般社会経済史要論」も絶版なんですね。旧漢字のまま1990年代までは刷られていたみたいですが。時代を感じますねえ...


大塚久雄は「共同体の基礎理論」で、共同体の発展を、「共同」と「私的」という矛盾する二つの要素のせめぎあいを軸に考察します。ちょっと長いけど引用します。

「富」の包括的な基盤である「土地」を「共同体」が占取し、それによって自己を現実に「共同体」として再生産していくばあい、以上述べたような「土地」の基本的な規定性からして、「共同体」内部にはいやおうなしに「固有の二元性」le dualisme inhérentがはらまれてくることになる。「固有の二元性」とは、いうまでもなく、土地の共同占取と労働要具の私的占取の二元性であり、「共同体」の成員である諸個人のあいだに取り結ばれる生産関係に即していえば、「共同態」という原始的集団性と、そのまっ只中に、それに対抗して新たに形づくられてくる生産諸力の担い手であるところの私的諸個人相互の関係、そうした二元性である。あるいは「共同体」に固有な「内的矛盾」(=生産力と生産関係の矛盾)といいかえても差支えないであろう。

共同占取と私的所有、集団性と個人、といった共同体「固有の二元性」。この二つのせめぎあいが、生産力向上のなかで、マルクスの言葉を借りれば「生産力と生産関係の矛盾」として表れ、生産関係の基礎となる「共同体」そのものの在り方を変えていく。それは、私的所有の拡大と共同体所有の縮小や、共同態規制(集団的、封建的な規範、ルール)の弛緩と私的領域の自立、となり最終的には共同体の崩壊と個人の自立により近代資本主義の時代を迎える、というのが大塚久雄の考え方です。
共同体の発展に伴う形態の変化は、
・土地の私的所有の拡大
・血縁制的関係の弛緩、解消
・共同体内分業、共同体内市場の発展
となって表れるとして、大塚久雄はこれらのものさしを使い「アジア的形態」「古典古代的形態」「ゲルマン的形態」の3つを、共同体の基本諸形態として分類します。ちなみにマルクスの「先行する諸形態」では、あくまで西ヨーロッパの資本主義誕生までの歴史を解明することに焦点が絞られているので、「アジア的」が古代オリエントメソポタミアペルシャ等)、「古典古代的」が古代ギリシャ・ローマ、「ゲルマン的」が中世西ヨーロッパを具体的に指しているんですが、「共同体の基礎理論」では、もう少し広く、ある程度普遍性を持たせて考えられているようです。


さらっと、各形態を簡単になぞってみます。
「アジア的形態」は部族・血族により構成され、血縁制的関係が強く、土地の所有も基本的には部族。私的所有はごく一部に限られます。
「古典古代的形態」では、古い血縁制的関係が緩み、家族形態も基本的には小家族(単婚家族)に移行しつつあり、共同体は防衛や拡大のための戦闘集団としての性格が強くなる。また土地の所有形態についても、「宅地や庭畑地」の私的所有は強固なものとなり、「公有地」と明確に分けられます。
「ゲルマン的形態」では、古い血縁制的関係の規制力は失われ、土地所有も「宅地や庭畑地」の私有はもちろん、共同耕地についても「フーフェ」という形態のもと一定の大きさの耕区に区分けされた耕地が私的に占取され、山林や放牧地などが共同地となります。また私的所有の進行に伴い、共同体内分業の進行し、共同体内市場の発達がみられます。


ところで、この「共同体の基礎理論」、実際のところ現在の経済史学からみてどうなんでしょうか。
実は、様々な史実がいろいろと明らかになるにつれ、世界中の共同体の歴史はバリエーション豊かで、この基本諸形態があまり普遍性を持っていないことが明らかになってきました。そもそも、この共同体の基本諸形態のなかで、日本の近世、江戸時代の村落共同体は、どこに位置するのか?というのは誰もが思うところですよね。大塚久雄は「共同体の基礎理論」の中でこんなことを言っています。

たとえばわが国の封建社会の基礎過程を形づくる「共同体」について、もし中世ヨーロッパの「共同体」と同一の基本的特質が実証されうるとすれば、それも「ゲルマン的形態」とよんで一向さしつかえないわけである。

大塚久雄は、日本の封建時代は「ゲルマン的形態」に近いと考えていたみたいです。実際「共同体の基礎理論」の物差しを使えば、そこそこ符合するように見えるんですが、でも何かが決定的に違うようにも思えます。さらに、ヨーロッパでも地中海地方や東欧・スラブ系での「共同体」は、やはり「ゲルマン的形態」と違う。中国の「共同体」は?ということになれば、もうこれは「アジア的形態」にも「古典古代的形態」にも「ゲルマン的形態」にもうまく当てはまらない。
現在の経済史学は、より個別具体的で専門的な研究に拡散していて、さらには学問的な関心の軸が「近代以前」や「資本主義の誕生」にあまり向けられなくなってしまったことで、この「共同体の基礎理論」も、すっかり「古典」となって、あまり省みられなくなってしまっているようです。
でも僕はこの本を読んで、歴史のダイナミズムを捉え、個別具体性から広く共通項や法則性を導きだす。そういう知の飛躍の醍醐味を感じました。実に刺激的です。実際、マルクスが注目した労働主体と労働対象との関係性の歴史、そこから「共同体」に焦点を絞った大塚久雄の問題意識、その意義は今も失われていないように思えます。

われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基礎として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮設(Hypothese)に過ぎず、したがってまた当然に一層豊富な史実に基づいて絶えず検討しなおされ、訂正あるいは補完され、再構成されねばならない。およそ、どのようなものであれ、歴史の理論は抽象という手段によって史実という母胎から生まれて来たものだからであり、母胎である史実(したがって現実)は理論よりもつねにはるかに内容豊富なものだからである。われわれは歴史理論のこのような本来的な性格をつねに念頭に置いていたい。

序論での大塚久雄のこの言葉を念頭に、あらためて「共同体」の歴史の森に深く分け入っていく、そんな好奇心が僕の中でむくむくと湧いてきました。


僕がこの本を読むにあたって、もともとあった問題意識。
「日本的」なるものを考えるきっかけとしての地図帳からの思考 - コバヤシユウスケの教養帳
それは、ヨーロッパと日本の「共同体」の違いから日本的なるものを考えなおす、というものでしたが、そのポイントとなるのは、この「共同体の基礎理論」で分析されている「ゲルマン的形態」、それをひとつの特殊形態と捉えて、日本の近世村落共同体と比較する、ということになりそうです。
そもそも現世界の先進国、たとえばG8加盟8カ国を見た場合、日本とロシア、イタリアを除く5カ国は「ゲルマン的形態」を共同体の基本形態として歴史的にもっていた国、あるいはその移民で形成された国、ということになります。中世における「ゲルマン的形態」の分布を見ると、他にはオランダ、デンマーク、北欧諸国等。逆にEU加盟国でも、地中海エリアのスペイン、ポルトガルギリシャ、スラブ系の東欧諸国は「ゲルマン的形態」とは違った形態の共同体が基礎となっていた。イタリア、ロシア含め、非「ゲルマン的形態」の国は、どうも経済的にも政治的にも不安定ですよね。そして日本はどうか。
やはりここはきっちりと、「共同体」の個別具体的な形態の差異に注目してみる必要がありそうです。


ということで、この話続きます。次はできるだけ早く更新したいと思います。ポイントは、大塚久雄が比較分析の軸としていた「土地所有形態」以外の経済的な要素。どんなものが考えられ、実際どういう違いが見出されるのか?です。
ではでは。