足立啓二『専制国家史論』

ずっと放置してました。ものすごく久しぶりの更新です。
前回は、2011年の12月に與那覇潤『中国化する日本』という本を読んであれこれ思ったことを書きました。それからもう2年近くですが、今回も話はつながってます。中国史です。

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

この本は、與那覇さんの『中国化する日本』が話題になったときにも、何人かの人が言及していた本です。『中国化する日本』が、中国の共同体や中間団体が弱く、流動性が高くて自由なところを「進んでいる」としたのに対して、『専制国家史論』ではそこを逆にマイナス面としてみている、というのが、この本に言及があった理由だと思います。それで、『中国化する日本』との対比で紹介する、というのもアリだとは思うのですが、今回は自分の関心に合わせて、以前紹介した大塚久雄の『共同体の基礎理論』からの流れで、『専制国家史論』についていろいろと書いていきたいと思います。


まずその前に、おさらいとして、以前のエントリーから。
大塚久雄「共同体の基礎理論」 - コバヤシユウスケの教養帳
大塚久雄の『共同体の基礎理論』は、マルクス歴史観が下敷きになっています。原始共同体から奴隷制封建制、資本主義へと発展していく、そこ共同体という側面から「アジア的形態」→「古典古代的形態」→「ゲルマン的形態」として、そのなかで共同体の規制から個人が徐々に開放され、土地所有における私的領域が拡大していく、という法則を見いだしています。ところが、このような歴史観というのは、その後大きく見直されていくんですね。その最大の理由というのは、マルクスがイメージしていた西欧史とはかなり趣を異にする歴史的変遷を、西欧以外の地域ではたどってきている、ということが歴史研究によって明らかになってきたからです。そして、特に中国が、マルクス歴史観からは大きく外れた社会の構造を古くから有していました。
『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』小野塚知二 沼尻晃伸 編著 - コバヤシユウスケの教養帳
上のエントリーは、2007年出版の『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』という本の紹介ですが、この本のなかの三品英憲「大塚久雄と近代中国農村研究」を取り上げています。ここでは"大塚共同体論は中国村落を説明できない"として、1940年代初めの戒能通孝の研究が紹介されています。戒能の研究では、中国農村社会での土地の所有権が、外面的には近代的所有権の特徴をそなえていて、また村落における共同体的な結合も非常に弱いことが明らかなっています。このことは中国の社会が、マルクス歴史観から見て、資本主義の全面的な展開に真っ先に向かいそうな、土地や共同体から個人が切り離された社会だということになります。でも、そうであったにもかかわらず、中国が西欧や日本に比べて近代化に手間取った、という現実はなにを意味するのでしょうか。


戒能通孝に代表される、戦前・戦中期の日本におけるレベルの高い中国の社会研究があったにもかかわらず、戦後日本の中国史研究は、ヨーロッパの単系的な歴史の発展法則を当てはめていくものが中心となります。そうしたなかで、1970年代以降になってようやく、戦前・戦中期の中国社会研究を批判的に取り入れつつ、現代中国をも射程に入れた中国史の体系的把握を目指した研究が、「中国史研究会」等によって進められました。「中国史研究会」の一員であった足立啓二氏が、そこでの成果も踏まえて書いたのがこの『専制国家史論』です。


実は今書いたような中国の社会や国家の歴史的認識のこれまでの系譜については、この本の第1章「専制国家認識の系譜」にまとめられています。そして、このような中国専制国家認識の変遷を踏まえ、現在の到達の上に立って、中国専制国家の構造と歴史的な変遷について展開していきます。


それで今回は、この本のなかでも、近代化や資本主義への移行が、日本と中国でなぜこのように違ったのか、というところを取り上げたいと思います。第5章「近代への移行―その一 経済」です。
ここでは、日本と中国の商業・流通の展開の違いを、歴史的にみています。ちょっと要約(といってもかなり長いですが...)していきたいと思います。



中国社会は、早くから流通に大きく依存してきました。共同体が無いため、村人同士での組織的な労働交換が行われません。ですから、農繁期など労働力が不足する時期には、労働力を購入します。彼らは、可能な限り自らの労働力を売って収入を得て、逆に必要な労働力は購入します。共同体のない社会では、農民経済は外部経済に依存せざるを得ません。「隣同士の交換」でさえも、流通を形成します。加えて、男子均分相続であるために農地が分割相続され、経営が常に零細化への圧力にさらされました。零細な農民家族の経済は、自給的に完結することが難しく、常に外部からの購入に依存するのです。中国の家族は安定性と継続性に乏しいため、流通への依存が高かったのです。日本の近世における、農家の経営の自己完結性の高さとは対照的です。中国では農産物の商品化率も高かったと考えられます。近代での統計ですが、1920年代前半の中国の農産物の商品化率が52.7%(J・L・バックの調査)、日本では、1936年の日本の農家の生産物商品化率を小経営で47.7%、中経営で46.7%、大経営では21.9%(帝国農会『農業経営調査』をもとにした栗原百寿の推計)と、日本と比べても中国の農産物の商品化率が高かったことがわかります。
一方、広域の物流については、中国は公権力性をもった中間団体がないため、基本的には統一された専制国家によってのみ組織されていました。


このような特徴を持つ中国社会が、実際にどのような経済パフォーマンスを発揮してきたのか、その具体例として、棉業について日中の違いを見ていきます。
中国では棉花の歴史は古く、栽培・加工は広く普及していました。しかし、開港前(1842年 南京条約での五港の開港)の中国でも「棉花市場」が支配的でした。日本でいう繰り綿、中国では軋棉と呼ばれる、種を取り除いただけの糸を紡ぐ手前の状態で、全国の非棉作地域に送り出されていました。それらは自給のための農家の作業、あるいは零細農家の農外作業によって、棉布に仕上げられていました。
一方日本では、中国に500年程遅れて、15世紀末から16世紀中頃に棉作は始まりますが、その後の展開は急速です。17世紀になると棉業は本格的な展開をとげ、該地で紡績・織布されるほか、繰り綿の状態で棉花生産に乏しい地域に移出されるようになり、18世紀を通じて流通はさらに拡大しました。近世後期には、一部地域で生産と流通に変化が生まれます。中国で開発されながらも中国では普及しなかった高機が導入されるなど、分業化された労働に支えられ、労働生産性の向上が顕著になります。専業の織り屋が形成され、紡績部門は外注化されるなど、地域性をともなった紡績と織布の分離が出現。先進地で織りあげられた棉布が、全国的に流通します。「棉花市場」から「棉布市場」の段階へと移行するのです。
棉業で見る限り、中国は日本のような生産の組織化や分業化が進行せず、そのことがある段階以降の市場の量的拡大を制約し、集中した生産の展開を阻害したと考えられます。では、なぜ中国では生産の組織化や分業化が進行しなかったのでしょうか。著者は、中国の市場形態の特徴である「流通」の組織構成の低さ、に注目します。


中国の流通の末端は、市集などと呼ばれる定期市です。中国の定期市は、地域内の交換の場としても機能するため、大きな役割を担ってます。一方で広域流通を担うのが「客商」です。生産地や集散地で買い付けし、輸送手段を随時調達しながら消費地まで運びます。市集や客商の間で、仲介機能を果たすのが「牙人」。市集で価格の調停や秤量、生産地での委託買い付けや消費地でや委託販売、船や馬などの輸送手段の斡旋、宿の提供などを行います。輸送業者は零細業者がほとんどで信頼度はきわめて低いため、輸送を全面的に委託することが難しく、輸送に同行する必要がありました。このように構成された流通は、自律的で閉鎖的な団体や公権力による規制が薄弱で、非閉鎖的・非固定的なものでした。
日本でも、中世の時代には、流通の構造は中国と多くの点で類似性を持っていました。流通の末端は定期市であり、広域流通を担うのは中国の「客商」に似た遍歴的な商人、中国の「牙人」に相当するのが問丸です。輸送業者も中国と類似していました。しかし一方で質的な相違が見られます。定期市は、販売座席の固定性など市場運営の組織性が、参加自由な中国の定期市と対照的です。移動商人も、参入自由な中国の客商に対して、日本の行商人は、初期には公家・寺社等の供御を行う住人が販売独占権を与えられたり、地域内の住人が領主からの営業許可を受けたり、一定の特権の承認を受けて商人となりました。彼らは集荷地・販売地・あるいは交通路にさえ独占権を確保して、時には武装商人集団として商行為を行います。問丸も、元来は一種の荘官として、年貢米等の保管・輸送・換金・上納のための買い付けを行ったことに起源し、要所ごとに独占的地位を確保していました。輸送業者も団体を持っており、時には海賊に典型的にみられるように、輸送業組織自体が領主体制の一部をなしていました。
中国の流通構造が近代に至っても基本的な部分で変わらなかったのに対して、日本では中世から近世への移行期に、組織的固定性が急速に強化されました。取引の中心は定期市から常設店舗へ移行。卸と小売といった商業の分業化と系列化の進行。領主による流通統制で、特定の商人に領内外を結ぶ取引の独占権を与えられると、他の商人は仲買や小売りとして系列化されました。宿駅制度は、運輸業の安定化・自立化が、封建団体や領主支配と結びつく形で実現しました。組織的で信頼度の高い交通・運輸・通信業者が生まれ、文書による発注、問屋を介した荷物の送達、為替による決済が、安定的に可能になりました。常設店舗取引が一般化し、商人ごとに取扱商品と取扱地域が固定化。卸―小売、仲買―問屋等の形で系列化されます。運輸・通信業の自立化によって商人が輸送行為から離脱可能になると、自ら買い付けし・輸送し・販売する移動商人と彼らを仲介する委託売買業者という体制は非効率なものとなり、自己資本商人の間での遠隔地取引が普及していきます。


固定的・閉鎖的な封建社会は、資本成長の条件でもありました。営業権の独占により、市場の拡大が経営の拡大にそのままつながりました。また他分野への自由な参入ができないことは、資本が高利潤を求めて浮動することを抑え、資本の内部蓄積・経営規模拡大に向かいやすくします。家名・家業・家産の一貫性を柱とする封建的なイエ制度は、経営の安定的な継続を補償する仕組みとして理想的です。中国の徹底した均分相続と不安定な財産関係と比較すれば、そのことは明瞭です。
日本商業の構造的組織化が進行した要因は、中世から近世への移行にともなう社会・政治構造の変化でした。イエ・ムラをはじめとする封建的団体形成の進行、領主権の集中といった社会・政治の組織化、その結果実現する団体内・団体間の信用関係の安定が、日本の中世商業が持っていた組織的側面を急速に成長させたのです。
一方中国では、社会の団体的組織化が進行せず、団体を媒介とする国家支配の組織強化も実現しませんでした。同業者組織は国家の行・財政の下請け機構でしかなく、日本の座や株仲間などのようなメンバーシップが特権でもある自治的な共同団体とは全く異なっていました。営業にかかわる団体的規制も少なく、国家の統制も、末端の流通を管理することはできませんでした。商業は依然として自由度が高く、かつ信頼度に乏しかったのです。参入と退出が自由な状況では、特定の経営が特定の営業分野に固定されにくく、また規範が広く共有されない社会のもとでは、分業は常に多くのリスクを伴いました。安定した分業が形成されなければ、各部面ごとの技術的蓄積や資本蓄積、経営の内包的に発展は困難です。近世日本における商業の構造化や分業的発展とは対照的な中国の事態は、このような事情に根拠を持っていたと考えられます。


客商―牙人体制は、経営の拡大を制約しました。客商にとっては、集荷や卸売りの体制が弱ければ、取扱量の増大は経営上のメリットになりません。運輸業の信頼度が低いので大量の現金や商品の輸送も困難かつ危険です。また牙人は、客商の委託をうけて売買する仲介者にすぎず、大きな自己資本をもった経営ではありません。有利な仲介分野には参入者が集まるため、経営規模を引き下げます。
日本では、農村部での仲買商でさえ経営規模は大きく、幕末の知多半島には、織元から白木綿の買い付けをする仲買が100株いました。平均で一萬反近くを取り扱っていたと考えられていますが、この規模で既に中国の客商の一般的水準を超えています。仲買から集荷する知多半島五株の買次問屋は、一問屋あたり10万反、価格にして中国の銀両表示で銀五万両、日本表示一万両(金)程度の取扱量となります。これらを集約する都市問屋は、銀両表示で優に銀数十万両の取り扱いとなり、資産額にして三井が金100万両(日本の金銀比価で銀600万両、中国の比価で銀1500万両程度)、鴻池や大丸下村家で銀400万両台の水準に達しました。
中国は、商業資本の集積は大きくなく、明代後期で、最大規模の山西商人の資産額でも銀数十万両。清朝最末期では、数千万両と号して突出する亢氏を含めて、銀100万両を超えると評されるのは七姓に過ぎず、この資産額も亢氏等と一括される幾家族かの合計で、分散的に運用されていました。


客商―牙人体制は、流通コストも高くつきました。流通経費を引き上げる最も大きな要因は、輸送・販売の不確定性です。輸送手段・販売先を選択しつつ行われる商行為は、利潤実現自身が不安定で途中における危険性も高いため、客商の販売価格は原価の三倍程度が求められました。牙人や輸送業者も同様で、近代になってからも、牙人は仲介行為のみで4〜5%の手数料をとっていました。
日本の場合は、取扱量が大きく取引関係は固定的でリスクも少ないので、流通経費が抑えられました。先の知多半島の場合、仲買は二%、買次問屋も二%のマージンを取るのみで、輸送経費を入れても、買次問屋の手を離れるまでに、織元販売価格の六・三%が上積みされるに過ぎません。江戸問屋の取り分も五%である。幕末、近江商人が大阪より仙台まではるばる繰り棉を送る場合、大阪払いの荷造費を入れても、運賃は仕入れ価格の10%程度、酒田〜仙台間の陸運経費を除くと4%程度に過ぎませんでした。


客商―牙人体制は、高い利子率と傾向的な投機性の源にもなっていました。近世日本の商業資本は、絶対額で大きな収益を実現してましたが、成長した商業資本が傾向的に収益率を低下させることが広く確認されています。このことが、日本の近世通じての利子率の低下と関係しているということは、十分に考えられます。一方中国では、商業資本の資本装備は著しく低く、不安定市場の下で「原価の三倍での販売」が実現すれば、資本額に比して大きな収益が実現します。中国の利子率は日本ほどには低下を見せることなく、比較的高水準を続けました。商業資本に対する貸し付けは、一般的には月利1%強、年間10〜20%の水準が維持されました。


日本では、中世から近世への移行期に社会編成が転換され、商行為の構造的組織化が進行し、流通経費の低下・経営規模拡大・資本集積・利子率低下等が進行します。このことが近代への移行の上で有利な条件を提供したことは疑いありません。一方で中国では、社会そのものの組織性の低さに規定されて、流通形態が基本的なところで変化しなかったのです。



要約は以上です。ずいぶん長くなってしまいましたが、どうでしょうか。自由で開放的で流動性の高い市場こそが資本主義的発展に必要なんだ、という昨今よく聞かれる考えとは真逆のお話ですよね。むしろ日本の封建社会のイエ、ムラといった団体性、領主による規制や一部団体の特権や独占などの存在が、資本主義的な発展を準備した、ということですから。このことは当然、西ヨーロッパの中世封建社会にも当てはまりそうです。そして、封建社会が形成されなかった専制国家中国との対比が、そのことを明らかにしてくれています。
最近の新自由主義的な風潮からすれば、ちょっと新鮮に感じられるかも知れません。ただ注目は、新自由主義的な経済観もそうなんですが、マルクス大塚久雄歴史観からみても、やはり逆な話になっているということなんですよね。古い封建的な共同態規制から解放されて私的所有が拡大していくことが、歴史発展の方向であり、資本主義的発展の条件であった、というマルクス的な歴史観とは相容れない話です。このブログでも、上で書いたようにここで、戒能通孝の研究を引きながら、大塚共同体論は中国村落を説明できない、という三品英憲氏の報告も紹介していますが、やはり中国史を考えることが、マルクス的な歴史観、いやもっと言えば19世紀的な西欧の歴史観を見直すうえで、とても重要だということがわかります。


一つ引用してみます。

中国の流通経費の高さを、封建的な市場構造に帰する解説が多い。しかし実際にはむしろ封建的でなかったことに原因がある。商業資本の市場支配と搾取に求めるのも誤りである。むしろ市場支配力のない相対的に零細な商業資本の乱立が、高い流通経費を生んでいた。日本では、封建的な独占性と固定性が、大局的には流通経費を引き下げ、しかも先の買次問屋で、銀両表示年間1000両程度の粗収益を生んでいた。

これなんかは、大塚久雄の「前期的資本」の考え方に、再考を迫るものです。大塚久雄の「前期的資本」については、このブログでもここで、紹介していますが、大塚久雄は「前期的資本」を、専制国家や封建制など、その時代時代の政治支配機構と深く結び付き、寄生し、それを補完してきたものとして捉え、専制国家の下での商業資本や高利貸資本も、中世の西ヨーロッパや近世日本の封建制下の「貨幣経済」の発達も、すべて「前期的資本」で括っています。ところが、中国を考えると、むしろ封建社会に深く結びついた商業資本こそが、近代「産業資本」を準備していたのであって、非閉鎖的で自由な商業資本や高利貸資本は、国家体制や団体・社会と深く結び付いていなかったが故に、資本の蓄積や分業の拡大・進行に結び付かなかった、と受け取れます。どうでしょうか。
このあたりはもっともっと突っ込んでいきたいテーマですね。


ところで、実はこの専制国家史論。19世紀西欧的な歴史観をきっちりと再考する内容でもあるんですが、一方で、その西欧近代の歴史観から逃れきれてないんじゃないの?と思えてしまう部分もあるんです。それが第3章「専制国家の形成」と第4章「封建社会専制国家の発展」の内容です。
ということで、この部分についての違和感というか反論というか、自説の垂れ流しは、次回にします。


そうそう、この本、版元切れしていて、図書館か古本でしか読めなくなっている本なんです。1998年出版なんですが、すこし時代が悪かったのでしょうか。日本経済が停滞して中国経済が急伸していた時期ですから。もう十年前だったら、日本経済すごい!日本的経営万歳!な時代の空気にも合って、もっと話題になったかもしれませんね。『文明としてのイエ社会』(村上泰亮公文俊平佐藤誠三郎)みたいに。ああでも『文明としてのイエ社会』も絶版か。そういうご時世なんでしょう。