足立啓二『専制国家史論』 その2

前回に引き続いて、足立啓二専制国家史論』を取り上げます。

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

専制国家史論―中国史から世界史へ (叢書 歴史学と現在)

前回は、この本の中で、日本の封建的な社会が、分業や商業の発達、資本の蓄積に有利に働き、近代を準備した、といった内容の部分を紹介しました。今回は、なぜ中国と日本で、このように異なった社会発展の経路を辿ったのか、という点についてです。実はこの部分は、著者の論の展開には、正直首肯できない部分があります。ですから、足立氏の考えを簡単にトレースしつつ、どちらかというと本の内容の紹介というよりは自分の考えを整理・紹介してみようと思います。ちょっとマニアックな話になります。


この本では、第3章「専制国家の形成」で、国家形成のアウトラインを追っています。人類史を、集団の拡大発展とそれに照応する新しい統合原理の開発史としてとらえ、専制国家や封建社会の形成に至る社会編成の発展過程をなぞります。ヒトは強固な原始共同体からではなく、不安定な家族の集まりから出発した。強固な関係性が緩められて私的部分が拡大していくのではなく、不安定で狭い関係性から広く安定した関係性を構築する。その新たな統合原理の開発の歴史をみていく、ということです。


足立氏は、中国の社会の変遷と国家の形成を、バンド(血縁)社会 → 部族社会 → 首長制社会 → 専制国家 と捉えます。そして、専制国家形成のポイントは、首長制社会 → 専制国家の形成に至る経路です。中国はBC7000年頃には農耕が開始され、2000年程度を経て安定性を増します。BC5000〜4000年の頃に集団の拡大と重積が顕著になり、紀元前3000年紀は集団間の軍事対立を示す諸指標が遺跡等に出現します。殷周〜春秋初期は、構造化された氏族社会だと考えています。社会の基底では個別家族に解消されないさまざまな集団が、政治的・経済的に機能していました。
ここで足立氏は、国家形成に導く二つの力、という考え方を持ち出します。一つが「共同体的意思決定原理」であり、もう一つが「指揮管理機能」です。「共同体的意思決定原理」というのは、集団的な意思決定と、それに従う共同規範、といったものを想像すればいいと思います。一方の「指揮管理機能」は、指導者、権力による統制ということでしょう。そして中国の場合は、首長制社会の高度化のもとで、「指揮管理機能」が強化され、そこから国家的な編成が形成されたと考えます。
殷周期を通じて高度化した首長制のもとで、臣従・官職授与関係が発展。それが人々の共同性をむしばみ、社会的合意形成を上からの賦与性の強いものに作りかえ始めます。加えて、従来共同体的な政治構成員でなかった広範な被支配氏族にまで一挙に軍事編成が拡大されたとき、共同体的意思決定原理は指揮管理機能に圧倒されました。また、諸侯・世族間の戦争は、双方の氏族解体、県への編成替えに向かいますが、社会の基層でも、農業生産力の発展による個別農民の経営強化が、社会再編の条件を作り出します。こうした小農経営の確立は、軍事編成単位として小農を自立化させようとする政策の結果でもありました。このように、戦国の動乱を通じて、皇帝と官僚機構、統一的軍事=行政編成、財政と中国的法規範といった専制国家の制度的枠組みが生まれます。その後、始皇帝の全国統一を経て、中国専制国家の編成が古典的完成を見るのは、紀元前二世紀中期の前漢武帝期ということになります。


それで、ここまでが中国専制国家形成の説明なんですが、足立先生は当然ながら単系的な発展法則という考えではありません。つまり他の発展経路というものを意識されています。その一つの例として挙げられるのが、ギリシャアテネの古代都市国家です。
アテネの国家形成は、中国のような発達した首長制を経過していませんでした。支配氏族の集住によってポリスの形成がBC8世紀頃に進行し、ポリス相互間の抗争時代が出現します。アテネの政治は、住民が戦士共同体へと組織されることで編成されました。国家の意思決定は成年男子の直接参加による民会により、民衆法廷も成年男子の直接参加による集会の形をとりました。官僚制は基本的に存在せず、特定人物への権力集中が慎重に排除されました。つまり、社会統合の二つの力のうち、中国とは反対に、集団的合議による構成員の規律の力を強化する、という発展の方向をとったと考えます。なお、アテネのような直接的な共同体編成は、狭い国家でしか機能しないものでした。アテネから国家編成を引き継いだローマは、国家の拡張とともに、直接的な共同体編成では支えることができず、行政機構が形成されて共和制が帝政によって取って替わられます。以後、政治体制の専制化とともに、共同体諸関係の解体が進行しました。
高度に発達した首長制社会からではない国家形成の事例に、もうひとつ近代国民国家を挙げます。前提となる封建社会は氏族社会ではなく、質の高い統合力を生み出してはいますが国家という形での組織体制を完結させていません。封建的共同体の相互関係のなかで上位権力の形成と集中化が始まり、絶対主義段階とともに封建社会の国家化が進行して近代国民国家が形成されました。未成熟な首長制社会からの国家、成熟した首長制社会からの国家とならんで、封建社会からの国家形成という発展経路を設けます。


ここまででも説明的というんでしょうか、正直そんな印象があるのですが、一番気になるのがこの先です。第4章「封建社会専制国家の発展」で、日本の封建社会の形成過程と、中国の専制国家形成過程の違いが論じられていて、ここが正直、首肯できないことがいろいろ出てくるんですね。ちょっと軽く追ってみますね。


日本における国家形成の特徴は、その後追い性にある、と足立氏は言います。中国からの稲作技術体系や専制国家モデルの導入も、中国からは大きく遅れてのスタートでした。中国では、農耕の開始から広域的な首長制体制形成へ、そして国家形成に至るまで数千年の歳月を要しましたが、日本は後追い的に、これを短い期間で社会に取り込みます。期間が短いだけでなく、社会全体の再編を要求するような長期にわたる軍事対立の時代を経過しなかったところが、中国との違いを考える上で重要だとします。
日本では、7世紀の後半に律令政治体制が立ち上がります。しかし、中国専制国家をモデルにした後追い的な国家形成は、一面では隋唐律令制をモデルとする完成度の高い国家枠組みを備えていましたが、他面では国家機構の形成が本格的な社会再編に裏付けられていませんでした。日本の「古代国家」は、広範な前国家的社会秩序に支えられており、有力氏族の力に依拠した支配や「世帯共同体」と評価される単婚家族の集団が存続していた、ということです。
専制国家の形式をとりつつも、それにふさわしい社会の実態を備えていなかった日本律令体制は、成立後まもなく本来の形では機能しなくなります。日本版専制国家は、田堵による請作や国司による請負体制など、取り分とともに職務を付託することによって存続が図られます。一方で、いわゆる「世帯共同体」と評価される単婚家族の集団が11世紀頃までに解体を遂げます。従来の集団によって担われてきた祭祀や水利などの社会的機能は、個別の小経営間の関係として再構築される必要がでてきます。日本の「国家」形成における社会統合能力の強化は、ここから社会の団体化として始まります。自立的な小農経営と彼らの取り結ぶ共同団体の成立。さらに、そのことが領主制の形成開始にもつながったと足立氏は説明します。共同体形成に必要な規範の共有のため、私人が立会人、規範の管理人となった時、その人物は社会の公共機能の管理者としての力を獲得することになり、領主の形成につながる。このようにして封建社会の基本的構成要素たる、小農経営・共同体・領主制が登場した、という説明になります。


さて、このあと日本の封建社会形成史が、続くのですが、正直このあたりが一番首肯できない部分でして、このまま要約していくのも、正直うーん、という感じなのです。例えば、小農経営と共同体の誕生と封建的な領主層の形成では、経緯や時代も違いますし、中世の初期から後期までの様々な歴史的契機を、あまりにも直結させて語り過ぎで、けっこう違和感があるのですね。それで、細かいところを、これは違う、あれも違う、とやっていくよりも、もっと全体的な枠組みのところからちゃんと考えたい、と思うので、要約はここまでにして、ここからは僕自身の考えをちょっと展開してみたいと思いますね。


まず、そもそもの本題に戻ります。なぜ、中国と日本では、国家形成が大きく異なったのか?これは、つまり社会編成というのはどのような条件に左右されるのか?という話でもあります。それで、足立先生は、歴史的な系譜や蓄積を重視されている。加えて「共同体的意思決定原理」と「指揮管理機能」社会統合の二つの原理を持ち出して、どのような力で社会統合が進められたのか、どこに分かれ道があったのかをみています。でも、なにかが足りない。それは外的条件、つまり地理、地形、気候、環境、資源といったものの違いが、どのように発展経路の違いに影響したのか、さらには技術的な発展が歴史的な契機として、どのように働いているのか。そこの具体性です。ですから、そこを丁寧に見ていきたいと思います。


農業をめぐる環境が、どのように違っていたのか、という点が、小農経営の成立やその共同のあり方に大きく影響しそうなことは、想像がつきます。
中国で農業生産が盛んに行われてきた地域の一つが、黄河流域になります。古都長安のあった内陸部の関中平原や現在の北京の南に広がる華北平原は、土地が肥沃で、粟(アワ)や黍(キビ)が栽培され、後に小麦が栽培されるようになります。一方、稲作中心のエリアは、長江下流域から両湖平原、四川盆地になります。特に長江下流域は、唐から宋の時代に稲作の生産性が大きく向上し、経済的にも発展したと言われています。地形図等で見ていただければわかるのですが、広大で、しかも比較的平坦な土地で農業が営まれてきました。
一方日本は、山国で国土の70%が山地です。山国とはいっても河川による土砂の堆積で河口周辺には広い平野があります。地形学的には沖積平野と言われるところで、現代では普通に水田が広がっていたりもします。ところが、そうした平野部、特に低湿地が農地として利用されるようになるのは、実は近世からなんです。比較的大きな河川の周辺は、氾濫原とか後背湿地と呼ばれるような土地が広がっていて、毎年のようにやってくる台風で氾濫することと、その水捌けの悪さで農地にはあまり向いていませんでした。ですから中世までは、洪積台地、河岸段丘扇状地というどちらかといえば山際の、それほど広くはなくても比較的平坦で、少し傾斜もあって水捌けのいい場所を中心に、農地が開発されていました。
とりあえずこの中国と日本の地形的な違いを頭の中でイメージしておいてください。これがあとあと効いてきます。


それでは、ここから日本の小農経営と共同体(惣村)の誕生を、環境と農業技術の面から、ちょっと追いかけてみます。農業の零細化が進行したのは鎌倉時代です。この前後で、農業の経営や技術にどのような変化がみられたのでしょうか。
律令体制の機能不全から、9世紀に公営田や官田という経営が生まれます。直営方式の田を設定し、町単位に分割して百姓の集団に委託、有力農民に監督にあたらせました。徴収が困難だった調・庸などの人的負担を土地別に課するという、人から土地への課税方式の変更でもありました。10世紀になると徴税の国司請負が進み、国司は耕作を有力農民「田堵」に委託します。「田堵」は隷属する農民を抱え、さらに周辺の農民も組織して経営を行いました。「田堵」の中には、勢力を拡大して「大名田堵」と呼ばれるものもあらわれます。10世紀後半には大名田堵が各地で勢力を強めて開墾が盛んにおこなわれるようになり、荘園が増加。11世紀後半から12世紀初期には荘園公領制に移行、荘園の整理と公領の強化が行われます。耕地の大部分を「名」として、かつての田堵など有力農民に割り当てられ、彼らは「名主」と呼ばれました。名主は隷属農民を使った直接経営や、小農民(作人)に耕作を請け負わせていました。このように、平安末期頃までは、有力な百姓による比較的規模の大きい経営が行われてきたのが特徴です。ところが13世紀、鎌倉時代に入ると、状況が変わってきます。農業経営の零細化の進行です。小規模でも「名」を手にして名主となり自立する作人や、それまで名主に隷属していた者たちのなかからも、作人となり隷属的な身分から解放されていきます。小農民の自立です。同時に、こうした農民を結びつける共同体が誕生します。惣村と呼ばれ、後に近世の村請制度につながる、力強い農村共同体です。
この時期が、一つのキーポイントです。なぜこのような変化が生まれたのか。その理由は、二毛作をはじめとする農業の集約化、だと言われてます。この時代に、農耕の技術に大きな変化があり、農業の集約化と零細化が進行したのです。
それでは集約化が零細化につながったのはなぜでしょうか。わかりやすいところで、二毛作をみていきます。二毛作とは、同じ耕地で一年の間に二種類の異なる作物を栽培することです。日本では、春から夏に稲を栽培して、秋からに春先にかけて麦などを栽培します。それまで同じ耕地では一年に一種類の作物だけでしたが、二種類の作物で合計二度の収穫があり、生産量が増えます。二毛作には技術的なポイントがあります。まず一つめが耕地に適切に水を引いたり排水ができるようにすることです。夏は水田にしますが、冬は畠地にするので、水を引くだけでなく排水もスムーズにできなくてはなりません。用水路や畦の整備などが必要になります。二つめが施肥の問題です。一年に二種類の作物を育てるわけですから、それだけ、地力(土地の栄養分)が低下します。そのため肥料を施さなくてはなりません。当時の肥料は、人糞尿、草や木を焼いた後にできる灰(草木灰)、そして刈敷(草木を刈ってそのまま田畑に敷きこんで地中で腐らせる施肥方法)といったものです。
それでは、このような耕作方法で、なぜ零細化が進んだのでしょうか。それはきめ細かな耕地の管理が必要だったからだと考えられます。それまでの大規模経営のような、下人や所従と呼ばれるような隷属農民に耕作をさせるような農業は、どうしても粗放な耕作になりがちでした。耕作する者にとっては、それが自分の土地ではなく、収穫が増減が直接自分の取り分に関係しなければ、自ら積極的に耕地のきめ細やかな整備、管理をすることはありません。しかし耕作者と土地の所有や収穫の恩恵が直接結びつく場合は、自分の仕事の成果が収穫増となって実を結ぶわけです。ですから、集約的で手間のかかる農法は、小規模経営のほうが向いていました。集約化は水田二毛作だけではありません。畠の二毛作、耕地を細かく区分けしての多品種の栽培など、畠作物も積極的に栽培され、これらは商品作物としても流通しはじめます。さらには不作地の減少(耕地利用率の上昇)や、それまで生産力の低い不安定とされてきた耕地も、適合した地種に選別し開発をすることで安定的な耕地に切り替わっていきます。領主層も、小農民が自立していくことを許容しました。零細化により集約化が進み、生産性が向上するため、より多くより確実な租税収入が期待されたからです。
それでは、このような零細化と小農民の自立と同時に、農民の共同体が形成されたのはなぜなのでしょうか。今見てきたように、農業の集約化にとって用水と施肥が重要になります。用水は、水路や溜池などの灌漑施設の開発や維持管理が、零細経営の規模では難しい。そこで有力農民が中心になりつつも、共同で開発・管理をするようになります。また施肥についても、刈敷につかう草木は、山で刈り取ってくるものです。山は燃料のために木々が伐採されますが、さらに肥料に使われる草木の刈り取りも自由に任せていたら、あっという間に禿山になってしまいます。長期的に山からの恩恵を受けようとすれば、伐採制限など共同で管理する必要が出てきます。そのために山野が「入会」と呼ばれる村の構成員の共有・管理の下に置かれるのです。そして、この二つの要請から、惣村と呼ばれる農民の力強い共同体が形成されたと考えられています。


ここまでの話を整理してみましょう。キーワードは経営や管理、開発、資本蓄積の「規模」です。耕作は、小農経営が効率的とされるような農耕の技術変化がありました。ゆえに零細化が進んだ。一方、用水や肥料の調達には、村という規模での開発や管理が効果を上げました。ゆえに農村レベルでの共同体が形成された。これは日本の地形・気象や、作物・耕作技術に適した形での「規模」になるわけです。じゃあ中国はどうなのか?というところで、農地の地形や環境等々の違いが出てくるわけですね。


中国は、古くから零細的な農業が行われていました。足立氏が言うように、鉄器の普及は大きいように思えます。中国は紀元前5世紀頃から製鉄が始まり、前漢の時代には広く普及しました。このことが、農業経営に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。伝統的な華北の乾地農法は、鉄製の鍬を用いた労働集約的な農法でした。零細経営が相対的にみて効率的な耕作の規模だったといえそうです。ついでに触れておくと、鉄器の普及は農業技術とともに戦闘技術にも大きな影響を与えました。足立氏は、軍事編成単位として小農を自立化させようとする政策が採られたことを上げますが、鉄器の普及で、大規模な歩兵の組織が戦闘で効果を持ったのかもしれません(すみません軍事史はまだあまり詳しくないので、よくわかりませんが...)。それでは、小農の自立が進行した一方で、日本とは異なり農民の共同体が生まれなかったのはなぜなのか?それはやはり地形、環境的な違いによると思います。
長江下流域の稲作が盛んな地域、それも「唐宋変革期」と言われる、生産性が大きく向上した時代の農業を見てみます。実はこのあたりのことが書いてある本は、専門書になってしまって、それこそ足立啓二氏の『明清中国の経済構造』には、いろいろよさげな論文が収録されているのですが、15,750円。近くの図書館にも入っていません。でもネット時代ってほんと素晴らしいです。いい具合の論文がpdfであげられているのをググって見つけました。
『宋代「河谷平野」地域の農業経営について : 江西・撫州の場合』大澤正昭 1989
『宋代江南における農耕技術史の方法的検討』市村導人 2011
『宋代以降の江南における「省力型」農耕技術』市村導人 2013
長江の南側に位置する江南地域、稲作を中心に畠作も様々な品種の栽培がおこなわれていたと考えられているんですが、宋代(10〜13世紀)には生産性がとても向上したと言われています。この江南地域は、東側に太湖を中心に長江デルタが広がっていて、南西には山地があります。この山地と山地の間の河谷平野は、扇状地・支谷といった、傾斜地または河川・湖沼沿いの低地など、農業に最も適する土地が広がっています。宋代には、河谷平野で集約的な農業が発展します。日本の地形条件と似ていますよね。水捌けも良く、小規模な灌漑施設の開発で間に合います。ただし経営の展開は、少し日本とは違っていたようです。溜池等の開発は豊かな地主農家によって行われ、経営も隷属農民を使った直接経営だったようです。しかし集約的な農業では、直接経営で規模を広げることが難しく、一定面積以上の土地は小作地として貸し出されるなど、地主の成長は制約されたようです。
一方、長江デルタの地域は、低湿地で水捌けも悪く、大規模な灌漑工事を行わなければ、河谷平野でおこなわれていたような集約的な農業を行うことはできませんでした。休閑をはさむ水田耕地など、低田の持つ高い地力ポテンシャルを効率的にかつ省力的に発揮させる農耕がおこなわれていたようです。ところが、このような長江デルタ地帯も、明代に入ると国家的規模での大規模な水利工事や、灌漑排水条件改善のための耕地の再編、整備が行われます。これにより集約的な農業が可能となり、長江デルタの地域が全国の最先進水稲作地へと転換していきます。


どうでしょうか。日本のような農村共同体を生み出すような契機があまりないですよね。特に長江デルタ地域では、日本の農民共同体のような規模での用水の開発や山野の管理の要請はまったくなさそうです。このようにしてみると、足立氏がこの専制国家史論で展開したような「日本の国家形成の特徴はその後追い性」というような観点から中国との違いをみるのとは、ずいぶん印象が違ってきます。
さらに付け加えると、足立氏は、農業技術の発達による経営の零細化・小農化は、ある意味歴史の必然、みたいな扱いをしているんですよね。確かに日本と中国だけをみれば、農業技術の発達が集約化に向かい、経営の零細化が進行します。これは東アジアの農業の特徴でもあります。でも世界の他の地域の農業史に目を向ければ、そんなものは必然でもなんでもないのです。例を上げるとロシア。ロシアは強力な地主による大規模な土地所有のもと隷属農民による耕作が行われてきました。ロシア革命で地主から土地を取り上げられた後も、結局スターリンによりコルホーズソフホーズというある意味農奴制的な経営が復活しました。これはロシアの農業が遅れていたからなのでしょうか?他にも、南米は強大な地主制で有名ですよね。この地主制は20世紀後半にも残っていて、経済発展を妨げたとも言われています。
もうひとつ例を出しますね。中欧と呼ばれる地域、ドイツの東側やポーランドチェコハンガリーのあたりは、12世紀頃から小農自立が進みます。ところが、14世紀以降は大規模な地主制による農業に変わるんです。これは歴史的な後退なのか?って話です。僕は、14世紀中頃以降の寒冷化が一つの原因なのではないか?と睨んでいます。西ヨーロッパは北大西洋海流による温暖な気候ですが、東ヨーロッパは大陸性の気候になります。このことが農業経営のありようを分けた一つの理由だとも考えられます。中欧はちょうどその境目です。温暖期だった10世紀〜13世紀と寒冷期の14世紀〜19世紀で、農業が変わったと考えられるのではないか、という推理です。あとは西ヨーロッパとの地域的分業の進行、という理由もありそうです。まだちゃんと調べていないのでなんとも言えませんが。


というわけでダラダラと自説を展開しました。
足立先生のこの本もそうなんですが、こうした歴史的な見方をしていけば、マルクス的な19世紀西欧の歴史観、というより、私たちのなかにも漠然とある進歩発展的な歴史観を、あらためて冷静に考え直させてくれます。マルクスは、土台(経済)は上部構造を規定する、と言いましたが、「経済」は単純に階級対立だけでは語れないのです。


こうした共同体、社会史、国家史をみていると、そこには間違いなく経済史が重要な意味を持っていることがわかります。そして経済的観点で歴史を見ていくと、経済というものがバラバラな個人の利己的行動というよりは、社会的制度的な関係性の上に成立しているということがよく見えてきます。同時に、共同・統合の論理、規範、法制史などを追っていくと、社会や制度が歴史的構築物だという側面も明らかになります。


今回は、足立先生の本をきっかけに、日本の封建社会の形成についても、ほんのさわりだけ展開してみました。このあと戦国大名の誕生や、近世でのさらなる小農自立と一子相続によるイエの誕生なども、経済的観点からみていくといろいろおもしろいです。さらにはそこでの共同規範、社会規範的なものの形成、発展の歴史もとても興味深いので、なんとかそのあたりも展開してみたいですね。そして、西欧のゲルマン的共同体の誕生や封建社会の形成との違いをみていくと、ようやく日本の「世間」と、西欧の「社会」「公共」との違いも見えてきます。そこはまたじっくりと...


参考文献:

日本農業史

日本農業史

詳説日本史研究

詳説日本史研究