『大塚久雄「共同体の基礎理論」を読み直す』小野塚知二 沼尻晃伸 編著

前回は、大塚久雄の描く「ゲルマン的形態」から、日本の近世村落共同体との違いを考えたのですが、今回は現在の経済史学の到達点からみて、大塚久雄の「共同体」史観はどうなのか?というところも見つつ、同時にゲルマン的共同体や近世日本村落をもう少し客体化してみる、というかその特殊性もあぶりだしてみたいです。


そんなわけで、こんな本があるんです。

大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す

大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す

政治経済学・経済史学会の「2006年春季総合研究会」。大塚久雄の「共同体の基礎理論」をあらためて読み直す、というテーマのもと行われた研究会の、報告・記録集です。僕の問題関心を深めるうえで、もってこいの本ですね。
内容は、小野塚知二氏による序章、研究会での五つの報告、沼尻晃伸氏による結語、討論記録等で構成されています。
この本を読んで、僕が個人的に刺激を受けたのが以下の三つの報告です。

  • 『日本近世村落史からみた大塚共同体論』渡辺尚志
  • 大塚久雄と近代中国農村研究』三品英憲
  • 『共同体の「ゲルマン的形態」再考』飯田恭

簡単に内容を紹介してみたいと思います。


まず最初に、渡辺尚志氏の報告。
『日本近世村落史からみた大塚共同体論』
渡辺尚志氏は、日本近世史、村落史の研究が主要フィールドです。この報告では近年の日本近世村落史研究の成果から、「共同体」論の可能性を論じています。ここでは日本近世村落の「共同体」の特徴を見てみます。

大塚の言う、共同体構成員としての「私的諸個人」が、歴史具体的には「家」の男性家長として存在していた点には留意すべきである。近世において、各村民は、村落共同体(「村」)とともに、「家」に帰属しているのが通例であった。村民の生活は、「家」と「村」によって支えられていたのである。「家」と「村」の関係については、おおよそ次のように考えられよう。中世後期から戦国期にかけて、まず「村」が形成され、「村」に保護されつつ、しだいに上層農民から「家」が成立してくる。地域差はあるが、一般村民の「家」が広く成立したのは、ほぼ一七世紀のことと考えられる。

日本では室町時代に入ると、それまでの荘園や公領を土台とした土地所有制度の衰退の中で、水利配分や水路、農道の維持管理などの要請、さらには境界紛争や戦乱などからの自衛を契機にして、地縁的な結合を強めて村落が形成されるようになります。戦国時代以降は武家領主による支配のもとおかれようになりますが、その後、灌漑、溜池 用水の整備等により農業生産性が向上。検地と兵農分離を経て、江戸時代に入ってからは、一般村民の「家」が広く形成されます。近世の典型的な村落形態が広く見られるようになったのは17世紀頃です。
ところで「家」が形成された、と聞いてピンとこない人もいるかもしれませんが、もともとは大家族的な親族血縁関係が強く、家父長的な小家族単位である「家」というのは17世紀になって登場したと考えられています。「家」成立の契機として大きいのは、農地の相続の問題が挙げられます。新田開発が停滞するようになり、分割相続では農地の細分化が避けられないため、嫡子単独相続が定着していった。1673年には分地制限令が出されています。

「家」と「村」とは相互補完的に村民の生産・生活を支えており、いずれを欠いても村民の安定的な存続は困難であった。当初は、「村」あっての「家」という関係だったものが、しだいに「家」が自立性を増すにつれて、「村」は「家」の集合体という性格を強めていく。そして、「家」の中から一部に「個人」が姿を現すようになってくる。
 「家」の成立により、「村」は「家」の維持・存続のために存在するものとなり、戸主以外の「家」の構成員は、戸主を通じて村の公的側面に間接的に関与することになる。このように、「家」成立の前後では、共同体の構成原理が大きく変化するのである。

16・17世紀は、日本社会が大きく変化した時期なんですが、その基底には経済的な変化があります。17世紀の100年間に日本の人口は倍増したと言われています。その背景には新田開発による耕地面積の増加と農業生産性の向上がありました。ゆえに日本の社会構造も大きく変わったんです。明治維新後も、地租改正や戸籍法、家督相続制などにより村落共同体や「家」制度は大きな変化を強いられたんですが、今でも日本人の基底に流れる共同体観は、この16・17世紀に源流があるように思えます。日本の近世村落の形成に関しては、興味深い話満載なので、もっともっと突っ込んでいきたいと思っていますが、ここでは渡辺尚志氏の報告にもどります。
大塚久雄の「共同体」と「私」という「固有の二元性」。これを近世日本村落に当てはめれば「共同体」=「村」、「私」=「家」になります。渡辺尚志氏は、「私的諸個人」が、個人というよりは「家」の男性家長として存在していた点は留意すべき、とことわったうえで、さらに、土地の所有を重層的なものとしてとらえます。共同体が所有する土地の典型は「入会地」ですが、一方で耕地・屋敷地は「私的占有」、つまり「家」(家長)の所有というのが通説です。しかしこれらの「私的占有」地は、同時に「共同体的な所有」という側面も含まれている、と渡辺尚志氏は考えます。無年季的質地請戻し慣行や他村の者への土地売却・質入れの制限など、「村」は土地所有関係に大きく関与していました。

近世において、「村」の耕地は個々の「家」のものであると同時に「村」全体のものであり、「村」の強い規制を受けていたことがわかる(私は、こうしたあり方を「間接的共同所持」とよんでいる)。

また、領主との関係性において、共同体の役割は、領主支配を補完する役割を持つと同時に、反面「抵抗」「交渉」の組織という側面も持っていますが、渡辺尚志氏は後者の共同体(「村」)の自律性に注目します。

「村」は中世後期以降、農業生産力の一定の上昇にともなって、戦乱や自然災害、他の「村」との抗争や領主の収奪から成員の生産・生活を保護するための組織として形成されてきたのである。年貢の村請も、当初は「村」側の主体性のもとに、荘園領主や地主との契約が結ばれた。それが、近世になると、今度は武家領主主導のもとに全国的制度として村請制が定立されたのであり、そこに武家領主のイニシアチブが発揮されたことは確かだが、その基礎には「村」側の自律的動向があった。近世の国制が兵農分離を基本原則としており、「村」に武士があまりいなかったことも、「村」が自律性を維持するのに役立った。

この他にも、教育、医療、文化、社会的弱者に対する保護・救済など「村」が公的な役割を果たしていたこと。たとえば教育や医療については、国家や藩による制度的な整備は期待できなかったため、「村」が費用を負担し環境を整え、外部から教師(寺子屋師匠)や医師を招聘する場合もあったそうです。さらに、「村」はその外部にも多様な集団を派生させて、用水や入会地をめぐる組合村(村連合)に加え、18世紀後半以降は年貢米輸送・治安維持など多様な契機による組合村が各地に成立。こうした組合村は、村落共同体の枠を超え、人々が共通する利害のために結合したものでした。
渡辺尚志氏の報告では、このように力強く、多層的な近世日本の村落「共同体」の姿が描かれています。



次に、三品英憲氏の報告。近代中国農村についてです。
大塚久雄と近代中国農村研究』
三品英憲氏は、中国近現代史専門です。近代中国農村史研究と大塚共同体論との間には距離があった。近現代の中国農村に関する研究は大塚共同体論とは断絶した地点で行われてきたし、一方で大塚久雄も、中国村落の捉え方に関して積極的に発言し理論に組み込もうとした形跡はない。その原因を、三品英憲氏は冒頭で以下のように述べます。

おそらく大塚共同体論で描かれた共同体の発展過程と中国村落のあり方との間に、巨大な差異が横たわっていたことが原因であろう。それはつまり、大塚共同体論は中国村落を説明できないということを意味する。


大塚久雄の共同体理論からは乖離した現実の近代中国村落。三品英憲氏は、大塚久雄と同時代に、中国農村社会の研究から大塚共同体論とは大きく異なった結論を導き出した、法学者、戒能通孝の研究を紹介します。
1930〜40年代、中国侵略や大東亜共栄圏構想により、日本では中国農村社会への関心が高まり、1940年から満鉄調査部と東亜研究所によって華北農村調査が行われました。戒能通孝は東京で現地から送られてくる調査報告の分析に従事し、1942年に「支那土地法慣行序説」を執筆しています。
戒能通孝によれば、中国農村社会に見られる土地の所有権は、近代的所有権に類似していました。使用状況を問われず、権利義務にも結びつかず、支配関係とも関わりなく、家族・同族・村落・国家からの制約も受けない。このように外面的には近代的所有権の特徴を具えていたのです。しかし、だからといって中国農村社会が近代社会であるとは言えない。近代社会の土地所有権との区別として、土地所有権を支える社会的な結合・団体の有無を、戒能通孝は指摘します。
中国農村社会では、血縁的結合は農村慣行上の土地所有権を支えるものではなく、一方で、村の領域が明確な形では存在しないなど、地縁的な結合も弱いのが特徴です。人の移動は自由に行われ、村長や会首の許可さえあれば「他村民」の村への転入は認められました。「人品」の悪い者を追い出す強制力も村長と会首の実力に拠っていて、村民全体とは無関係でした。会首は現時点で財産を持つ者が就き、そこに「名門」といった意識は介在しません。小作人を水呑などと言って軽蔑したり、逆に村全体で面倒をみる、ということもなく、ただ経済原則の適用に任せていました。
村は、村長や会首など村の有力者による支配団体的な性格が強く、あまり公的な性格を有していませんでした。ゆえに、中国農村社会における土地所有権は、外形的には近代的土地所有権に似た相貌を持ちつつも、社会の末端にそれを支持・保障する強力な団体を欠いていたのです。個々人が持っている「権利」は、その個々人の実力に拠ります。団体意識が弱いため、一般的秩序の形成も弱く、実力的な均衡関係だったと考えられます。「農民」は身分ではなく職業であり、土地の売買も移動も職業選択も自由。このような農村社会では、集落こそ存在し住民相互の結びつきは成立するものの、村落を公的団体へと成長させるものではありませんでした。
村民に定着意識がない、住民同士での「同村民」という意識上の紐帯の欠如、村民の村内での席次が「家柄」として固定されていない、そのような中国村民。戒能通孝は、近世日本村民との決定的な違いとして、「高持本百姓意識」がない、という点を強調します。

 戒能の言う「高持本百姓意識」とは、村の正式な成員として村の意思決定に携わり、そうした過程を経て決定された村としての意思に従って行動し、さらに団体としての村の結合を内面的に支持しようとする意識を指している。そして前段の引用にもあるように、戒能は、ドイツ農村の「バウエル」(Bauer)も「高持本百姓」と同質のものと見ていた。その上で、村民が「高持本百姓意識」を持たない中国村落を対置したのである。

どうでしょうか。ここまでで、日本近世の村落共同体と、中国の農村とでは、大きな違いが感じられると思います。中国の農村との比較でみれば、日本の近世村落やヨーロッパのゲルマン的形態の、力強い「共同体」の存在が、近代化へとつながった。そう考えるのが自然ですよね。大塚共同体論のような、「私的個人」の領域の拡大、とは逆の印象です。
ただ、戒能通孝が描き出した近代中国農村民。ちょこっとだけ、足りないのではないか?と思う点があります。それは、個々人がバラバラで実力主義、弱肉強食の世界であったとして、本当に個々人の実力のみで生きていたのか?という点です。僕の考えでは、コネクション・繋がりは、地縁とは別の形で存在していたのではないか?つまり強者のコネを頼るのが、弱者が生き残る上では非常に重要な戦略であり、そのための緩やかな血縁、コネ、ツテの広がりがあったのではないか、ということです。なぜこんなことを言うかというと、僕自身の印象として、日本や西ヨーロッパ(地中海諸国除く)や北米には、それぞれに独特の「平等観」(裏を返せば独特の差別観)というものがあるけれど、それ以外の国や地域での「私的所有」をベースにした関係性では、コネ優遇、身内びいきが、普通に見られる気がするんですよね。近世日本村落やゲルマン的形態の「強い共同体」と、中国の「緩やかなコネ社会」という対比にした方が、僕的にはしっくりくる。この辺りはもう少し調べてみたいと思います。
ただ日本における中国農村史の研究は、戦後、中国の革命により足踏みを余儀なくされました。「社会主義中国」の実態が明らかになり、その後急速に近代化する中で、中国農村史研究は、今新たな局面を迎えているのかもしれません。いろいろと議論がありそうです。



さて、あともう一つ、飯田恭氏の『共同体の「ゲルマン的形態」再考』を紹介したいんですが、これは次回にします。あらためて「ゲルマン的」形態と近世日本村落共同体とを、最近の歴史学的な成果を交えて、ガッツリと比較してみたいと思います。特に「共同体内分業」「共同体内市場」について。