リベサヨ(リベラルなサヨク)からいろいろ考える

「リベサヨ」という言葉は、hamachan氏がhamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)で使いだしたのだと思いますが、最近ではツイッターでもよく見かけるようになりました。とはいっても、hamachan氏が使いだしたときの意味とは、違う意味で使われているようで、どうもリベラルと左翼をいっしょくたにして「リベサヨ」と言っている人が多いようです。そもそも右とか左とか、イメージが先行して語られるので、人によってそのイメージにギャップがある。そこにリベラルまでくっついたので、ちょっと混乱してます。僕なんかより若い人は、左翼=リベラルというイメージがしっかり張り付いてしまっている人も多いようなので、たぶんhamachan氏が言わんとしたことが、いまひとつピンとこないのかもしれません。でも僕はこの言葉が、日本の政治思想の対立軸を考える上で、そしてヨーロッパの左翼を知る上でも、けっこういい切り口になるのではないか、と思ったので、ちょっとこの「リベサヨ」という言葉を掘り下げて、いじってみたいと思います。
と、そのまえに、hamachanブログの、リベサヨに関するエントリー、ふたつほどリンクも張っておきます。
リベじゃないサヨクの戦後思想観: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
特殊日本的リベサヨの系譜: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


それでは、この「リベサヨ」という言葉の意味からいきます。hamachan氏の言いたいことを、僕なりに解釈してみました。まず、そもそものリベラルとはなんなのか。EUの労働法制を研究されてきたhamachan氏は、ヨーロッパにおけるリベラルと、日本での使われ方の違いに違和感を感じたはずです。日本では、リベラルという言葉は、どちらかといえば左派を意味しますが、ヨーロッパでは「リベラル」は右派だからです。日本で、いつ頃から「リベラル」という言葉が使われるようになったのかは謎ですが、おそらくアメリカの「リベラル」からきているんでしょう。アメリカはもともと自由主義の国で、いわゆる左翼、ソーシャルな社会民主主義の勢力が弱い国です。民主党共和党もどちらも保守自由主義政党ですが、1930年の世界恐慌以降1960年代までは、民主党優位の中で穏健な経済福祉政策が進められました。一方共和党は1970年代以降、徹底した経済自由主義タカ派な安全保障政策を掲げるようになり、新自由主義新保守主義と呼ばれるようになります。このようにしてアメリカでは、右派が(新)保守、左派がリベラル(自由主義)と呼ばれるようになりました。しかしヨーロッパの場合は、リベラルは右派で、公共福祉政策を重視するソーシャルが左派です。どうもこのあたりがいろいろと混乱していて、日本のサヨクがリベラルを標榜するとか、なんか妙におかしなことになっているんですね。


そこで、ヨーロッパの政治勢力を、右 ⇔ 左 と、もうひとつの軸として リベラル ⇔ ソーシャル で、マッピングしてみました。といっても、あくまでも僕の印象なので、これは違うぞという人もたくさんいると思います。まあ、そこは一つ大目に見ていただいて、あくまで思考を助ける意味で、仮説を組んでみる、整理を試みる、そんな感じでお付き合いください。

縦軸に 右っぽい ⇔ 左っぽい を、横軸に リベラル ⇔ ソーシャル としてあります。ヨーロッパといってもいろいろな国があるのですが、とりあえずフランスやドイツあたりをイメージしてみました。実際は自由主義政党と保守政党は、保守連合を形成していたりします。右っぽい、左っぽい、というのはイメージなので、そこはご了承ください。こうしてみると、やはり右と左の対立軸が リベラル ⇔ ソーシャル になっているのが良くわかります(とはいっても、ここ数十年で全体としてだいぶリベラル側にシフトしたような気もしますが...)。ではこんな感じで、日本の政治勢力も、プロットしてみます。

日本の場合、リベラル ⇔ ソーシャル という軸だと、どうも座りが悪いので、ちょっと横軸は変えてありますが、なんとなく言いたいことはわかってもらえるのではないでしょうか。ちなみに民主党や生活の党は左っぽいのでは?という人もいる思いますが、申し訳ないですが僕から見たらどちらも左という印象はないので、こういうプロットになりました。どうでしょう。全体的に「個人・自由」のほうに寄っちゃってますね。自民党も、昔よりも確実に新自由主義色を強めています。そして問題は左翼ですよね。40年前には社会党という総評(国労自治労日教組 etc)を支持基盤とした政党があったはずなんですが、見事に消滅してしまって、その残骸ともといえる社民党は、かなりリベラルに寄っているというのが僕の印象です。そしてリベサヨというのは、このマップでは左下のエリアになるんだと思います。こうしてみると、古い自民党社会党をぶっ壊して、結果として新自由主義的な勢力ばかりになってしまった、という状況になっているんですよね。
そこで、ちょっと気になるのは、じゃあ日本では右と左の対立軸というのは、どこにあるのだろうか?ということ。ヨーロッパのような リベラル ⇔ ソーシャル という構図ではないのですから。なにか別のところに対立軸があるはずです。でもその考察をするよりも、今回はヨーロッパの リベラル ⇔ ソーシャル という構図が、どのようにして生まれたのか?というのを掘り下げます。


そもそも、「右翼」「左翼」という言葉は、フランス革命直後の国民議会での座席位置が起源です。では、この時期の右翼と左翼は、どういう対立軸だったのでしょうか。

フランス革命直後は、王制を支持し、貴族や教会の利害を代表する勢力が右派。そして左派はリベラルでした。貴族や教会とは別に、新たに政治的な影響力を強めてきたブルジョア(有産市民)の利害を代表する勢力が、リベラル(自由主義)です。今とはずいぶん違います。そりゃ200年以上前のことですから、当然と言えば当然です。それではいつ頃から、リベラルは右派になったのでしょうか。そして、どのようにしてソーシャルな左翼が登場してきたのでしょうか。このままフランスにスポットをあてて、変遷をたどっていきます。
革命後、フランスは帝政、王政、共和政を繰り返します。そして、本格的に議会制民主主義による政治が始まるのは、1870年の第三共和政期になってからです。1875年から、男子直接普通選挙による「代議院」と間接選挙による「元老院」の二院制がとられます。ここから第三共和政期の前半は、共和派が多数を占めることになります。もともと左派勢力だった共和派が保守勢力となったのです。そして19世紀末から20世紀にはいると、新たな左派政党が誕生し影響力を強めます。20世紀初めの頃の政治勢力を、同じようにマッピングして見てみました。

まず上側半分(右っぽい)を見てみます。フランス革命後は左派だった共和派・自由主義派が、100年経って、中道右派になっています。この中道右派のグループは、「民主共和同盟」をはじめ、「独立左派」「共和独立派」「左翼共和派」「独立民主急進左派」といった名称の組織に分かれていました。これら「共和派」や「左翼」という名称は,フランス革命直後は左翼だった共和派に起源をもつことを意味しており、その後の社会の変化と新たな政治勢力の出現によって、右派に押しやられたことがわかります。また、フランス革命後は右派だった王制や帝政を支持する勢力は、議会ではすっかり影響力を失ってしまいました(ちなみに「王党派」の横軸がこの位置なのは、リベラルでもソーシャルでもないという意味です)。
次に、下側半分(左っぽい)を見てみます。急進党というのは、1901年に誕生した共和主義・自由主義政党。農業経営者や公務員など、地方、小都市の「エリート」たちを支持基盤とする中道左派の政党でした。そして、もうひとつの左翼政党が社会党。1904年に誕生したマルクス主義を掲げる政党です。あと「サンディカリスム」というのも入れてあります。これは議会の勢力ではないのですが、フランスの労働組合運動の大きな思想潮流だったので、加えました。
それで、やはりリベサヨではないソーシャル左翼、というものを考えるのであれば、このフランスの社会主義勢力「社会党」と「サンディカリズム」に至る、つまりは19世紀の労働運動を、ちゃんと歴史的な線でつなげてみていく必要があると思いますので、話は長くなりますが、軽く歴史を追いかけてみようと思います。


'--< フランスの左翼の歴史 >------


革命前のアンシャン・レジーム期は、労働者を結びつける団体は、職人組合(compagnonnage)でした。手工業親方を中心としたギルド組織である同業組合(corporation)とは区別される職人の団体で、親方の独占団体と化した同業者組合との対抗関係をもはらむ職人のみの横割り組織として顕在化してきました。
フランス革命がおきると、1891年のアラルド法とル・シャプリエ法によって、同業組合・ギルドの廃止と労働者の団結が禁止されます。個人の自由や経済活動の自由を優先して、貴族特権・教会の特権だけでなく、同業者組合や職人組合など、団体的な制度も禁止されます。その後のナポレオンの第一帝政下でも、職人組合は禁圧され、復古王政になってようやく公認されます。しかし、職人組合はその閉鎖性や組織内の因習の封建性や位階的な秩序のためか、1830年頃を頂点に七月王政期には急速に衰退していきます。
職人組合に代わって、労働運動を担うようになるのが相互扶助組合(société de secours mutuels)。職人組合に加入できない労働者を結集して大きな広がりをみせ、労働運動の温床に発展します。相互扶助組合は、規制が厳しかったのですが、当時としては唯一の自衛組織であり抵抗組織でありました。七月王政期と第二帝政期の前半も、労働運動は抑圧されます。特に二月革命での失望は大きく、1850 年代は労働運動の「沈黙の時代」でした。ところが第二帝政期も1860年代に入ると、労働者に対して寛容な政策がとられます。1963年ロンドン万博への労働者代表団派遣、そして1864年法により団結権争議権が事実上承認されます。1965年 第一インターナショナルパリ支部設立。そして1970年に第二帝政が崩れると、ようやく労働者階級が政治的な影響力を強めてきます。
このように19世紀の前半、フランスの労働組合の形成は遅れていました。1850年代には既に強固な職能別組合運動が形成され、トレード・ユニオニズムの伝統が確立したイギリスとは対照的です。またフランスの産業革命が本格的に進行するのは第二帝政期なってからです。イギリスが産業革命の急速な進行で、大企業の工場労働者が労働運動の担い手になったのとは異なり、労働運動を主導したのは主に小規模な手工業で働く熟練労働者でした。
第三共和国政に入り1880年代になると、議会では共和左派が勢力を伸ばしてきます。そして1884年、ついにル=シャプリエ法の廃止により、労働組合が合法化されます。マルクス主義の影響を受けた社会主義政党も誕生します。1879年にフランス労働党(POF)が結成され、その後社会主義政党は分裂や統合を繰り返しながら、徐々に近代政党、議会主義へと傾斜していき、議会での議席を獲得していきます。
1870年代からは、産業構造の高度化が進行します。鉄鋼業を筆頭に炭鉱・電機・機械・化学工業が主に地方で勃興し、賃銀労働者を集積し始めます。またこの時期、1873年〜1896年の大不況が重なり、1880〜90年代はフランス各地でストライキが頻発しました。その担い手は従来の職人労働者から、工場労働者や公務員へと拡大していきます。彼らの間に社会主義的な思想が浸透して、労働運動の種が播かれるのはこの時期でした。
ところでフランスの社会主義思想は、マルクス主義だけではなく、サン=シモンやフーリエといった初期社会主義思想からプルードン無政府主義やブランキの蜂起主義など、多様な潮流がありました。特に小規模な手工業で働く熟練労働者に担われてきたフランスの労働運動では、彼らの職人としての自尊心、自立心が、マルクス主義のような「国家」という枠組みを介しての社会変革ではなく、労働組合そのものが社会変革の主体となる、という思想に結実していきます。この思想潮流がサンディカリスム(syndicalism)になります。サンディカリスムは、syndical=労働組合の という意味なので、労働組合イズム、労働組合主義とでも言えばいいでしょうか。国家や議会ではなく、労働の現場、生産の現場で、ゼネストなどの直接行動を通じて資本家と対峙し、生産・分配を担う主体となって社会を変革していく、という革命思想です。自由主義・共和主義に対して、さらには現場からは乖離した「政治の論理」への対抗として、このような思想が広がったとも考えられます。こうした伝統を持つ労働運動が、産業構造の変化で増えてきた大規模な工場労働者も取り込んでいきます。1880年代に行政の資金援助を受けつつも労働組合によって自律的に運営される職業紹介機関「労働取引所」が相次いで設立されると、ここが労働運動を担い、フランス労働取引所連盟(FBT)が創設されます。そしてFBTが中核となってフランスのナショナルセンター、CGT(労働総同盟)が1895年に結成されます。CGTはサンディカリスムを掲げる組織になります。
一方で、議会を通して社会を変革していこうとする勢力がありました。フランス社会党、正式な名称は「労働インターナショナル・フランス支部」“Section Française de l'Internationale Ouvrière (SFIO)”です。現在のフランス社会党“Parti Socialiste (PS)”の前身でもあるのですが、名前からもわかるように、当時の社会主義運動の国際組織、第二インターナショナルのもとに結集してできた政党です。1889年に結成された第二インターは、直接行動ではなく議会進出による条件改善を重視する方針を掲げます。そして1904年の大会で、フランスの社会主義政党は一つの党にまとまることが望ましいと決議され、第二インターに加盟していたフランスの政党、PSDF(フランス国社会党)とPSF(フランス社会党)が合同して、フランス社会党が誕生します。
議会を通して政治、社会を変革していくという立場の社会党(SFIO)と、労働、生産の現場で、ゼネストなどの直接行動を通じて資本家と対峙し、生産・分配を担う主体となって社会を変革していくという、サンディカリスムを掲げるCGT。つまり国家の役割を重視しする社会党と、現場の自律性主体性を重視するサンディカリスト社会主義、労働運動の勢力は、このような2つの大きな流れに分かれていました。これが、上のチャートにした20世紀初頭です。



それで、この左翼勢力の分断がこのあとどうなるのか、さらに駆け足でいきます。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターは消滅します。1917年にロシア革命がおこり1919年にコミンテルンが結成されると、フランス社会党は分裂して共産党が誕生します。CGT(労働総同盟)でも、共産党系のCGTU(統一労働総同盟)が分裂します。一方、政権与党は共和派が中心でしたが、左派の急進党も議会で重要な位置を占めていて、何度も入閣します。また急進党は政府を強固にするために、社会党とも協力関係を結ぼうとします。社会党も、共和派の内閣への参加はいっさい拒否していましたが、急進党の政権に閣外から協力することもありました。そして、1933年にドイツでナチスが政権を握ると、状況は大きく変わります。フランスでもファシズム運動が起きていたことから、共産党が路線転換をして反ファシズム社会党と協調します。そして社会党共産党に急進党も巻きこんだ形で、ファシズムに対抗する人民戦線運動がおこり、1936年の総選挙で人民戦線派が勝利します。ブルム人民戦線内閣の誕生です。
ブルム人民戦線内閣は、誕生からわずか1年の短命内閣でしたが、フランスの左翼勢力にとって重要な意味を持っているので、ここを丁寧に見ていきます。
人民戦線派が選挙で勝利してからブルム内閣誕生までの間に、フランス史上未曽有の工場占拠闘争が開始されます。工場占拠ストライキが吹き荒れる中で登場したブルム内閣は、このストライキへの対応に迫られます。内閣に最初に与えられた試練であり、対応を間違えれば人民戦線の支持は失われかねません。この政権がどこを向いているのか、なにを目指しているのか、そのことがこの対応によって明らかにされるからです。
ブルムは、CGT(労働総同盟)の代表と経営者側の組織CGPF(フランス生産総同盟)の代表をマチニオン館に集め、労使間の調停を行います。ここでいわゆるマチニオン協定が締結され、工場占拠ストの収拾を図られます。さらにこの協定では、週40時間労働、年2週間の有給休暇、労働協約に関する法案提出の念書も、ブルムとCGTの代表との間で交わされ、これにもとづく労働3法案は月内にすべて成立させました。
ところが、工場占拠ストは収まるどころか、さらに拡大します。ストを行っている労組の多くが、CGT加盟労組ではなかったことと、中小規模の経営・雇い主の多くもCGPFには加盟していなかったためです。マチニオン協定は当事者同士の協定とはいえない性格のものだったのです。しかも社会党内、共産党内、サンディカリストの中にも、ストを収拾させるのではなく、今こそ革命の契機だと扇動している過激なグループがいました。
事態の収拾に際して重要な役割を果たしたのは共産党でした。共産党の書記長が活動家集会で事態の収拾を呼び掛ける演説を行います。さらには党内のスト扇動者を除名し、ストの中核だった金属部門を名指しで批判。党活動家に収拾への努力を訴えます。数日中にパリ地区の占拠は大部分収拾され、工場占拠闘争はようやく沈静化へと向かいます。共産党にとっても、反ファシズムの要となる人民戦線の崩壊は絶対に避けなければならないことだったのです。
ところで、かつては政党からの自律をかかげ、ゼネストという直接行動による変革を目指すサンディカリスムを掲げてきたCGTにとって、工場占拠闘争は現場の直接行動による革命的契機と捉えても不思議なかったはずです。しかしCGTの指導部は、ブルム内閣による工場占拠の収拾に協力をしました。彼らは直接行動による経済構造改革を目指すことよりも、資本主義的な枠組みのなかで国民生活の改善を目指すことを選んだのです。CGTは、マチニヨン協定直後、飛躍的な組織の拡大をします。組織の拡大は、大衆的な労働組合、交渉型の労働運動への移行を促進するものでもありました。労働組合運動は、国民経済の枠のなかでよりよい分配を追求するものとなり、サンディカリスムという思想は、ここで終焉を向かえたのです。
ブルム内閣が、マチニオン協定でCGTと約束して成立させた労働3法は画期的なものでした。年2週間の有給休暇と週40時間労働は世界初でした。労働協約法は、最も代表的な組合によって締結された労働協約を、同地域・同職業のすべての労働者に適応可能とする拡張制度を初めて導入するというものでした。また有給休暇法と併せて、ブルム内閣は、文化政策として余暇の拡大、レジャーの大衆化の促進に取り組みます。低所得者層にヴァカンス旅行の便宜を図るために、4割引きの乗車券を発売したり、6割引きの特別列車を走らせたりしました。工場占拠ストの収拾後、労働者の関心は、初めての夏のヴァカンスをどう過ごすかに移っていきます。ヴァカンスは労働者の工場占拠闘争のエネルギーを吸収する役割をも果たしたのです。
工場占拠ストを収拾させ、労働3法を成立させたブルム内閣。しかしその諸政策によって企業など経営側の負担は大きくなり、その負担が価格に転嫁され、インフレーションが進行します。さらには資本家の防衛策が「金の退蔵」や資本の海外逃避につながり、人民戦線内閣自体は長続きしませんでした。最終的にはスペイン内戦を巡る急進党と共産党外交政策上の対立から内閣は崩壊します。1938年にブルムは再び首相になりますが、1ヶ月で内閣は崩壊します。このような政治的な混乱の中、翌年にはドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまります。



フランス人民戦線は歴史的にどういう意味を持っていたのか。ここで、他国の例もみてみます。
イタリアではフランスより16年も前の1920年に、大規模な工場占拠闘争がおこりイタリア全土に広がりましたが、雇い主と労働者の対立は深まるばかりで妥協的な和解にはつながりませんでした。逆に地主層や中小産業資本家などの支持のもとで、ムッソリーニのイタリア戦闘ファッショが黒シャツ隊を組織し、軍部や官僚の一部からも武器や資金の援助を受けて、農民や労働者の闘争を暴力的に鎮圧しました。
ドイツは大恐慌後、中道・保守・リベラル連合のブリューニング内閣が、財政の立て直しを目指します。第一次大戦の巨額な賠償金支払いに苦しんでいたため、緊縮財政とデフレ政策を進めたのです。左派の社会民主党は政権支持ではありませんでしたが、共産党ナチスを警戒して、閣外協力をします。その結果、選挙で共産党ナチス議席を拡大させることになり、体制派は信認を失うことになります。さらには共産党の支持拡大を警戒した保守派や財界の協力によって、ナチスが政権を奪取してしまいました。
このような国民の分断によって、近代民主主義国家体制の不信任と暴力的な収束に向かってしまった例を考えた時、フランスの人民戦線が果した役割も見えてきます。ブルム人民戦線内閣の誕生と工場占拠ストは、労働者のエネルギーを国民統合へと向かわせる、ひとつの契機になったと考えられます。それが反ファシズムという一点での協調によるところが大きかったとしてもです。



近代民主主義国家の枠組みの中で、労働組合や左翼政党が、労働者や無産階級の利害を代表し、国民として統合し、社会的に包摂することで、体制を補完する。それこそが第二次世界大戦後の欧州の福祉国家のあり方です。戦後の福祉国家の誕生は、ケインズの理論やベヴァレッジの理念、ファシズムの台頭と世界大戦への突入からの反省に加えて、ブルム人民戦線のような体制派左翼による国民統合の経験も、大きな意味を持っていたのだと思われます。欧州では戦後、社会民主主義ユーロコミュニズムという新しい流れがつくられていきます。こうした思想潮流が、ヨーロッパの「ソーシャル」な左翼なんですね。ただし、その後70年代以降の新保守主義の趨勢、90年代のグローバリズムの波やEU統合のなかで、現在はかなり立ち位置を変えてきているので、今後どうなっていくのかは、非常に心配なところでもあるのですが...
どうでしょうか。こんな感じでヨーロッパにおけるソーシャルな左翼の形成を、フランス、それもサンディカリスムから人民戦線への流れで見てみました。
欧州の右派・左派を考える上でまず前提として考えないといけないのが、産業資本と労働者との階級的な利害対立の顕在化です。中・近世においても、親方・ギルドと職人・徒弟・職人組合との利害対立は日常的に存在し、職人がまとまってサボタージュしたり、職人組合が職人の供給を止めてしまったり、しばしば暴力沙汰にも発展するようなことは多かったのですが、これが市民革命による自由主義産業革命による資本主義の進行によって、社会的な階級対立に発展してきた、ということがあります。それともう一つ、左翼的な思想の原初的な形態は、現場での自律・解放を求めた抵抗主義、無政府主義的なものになりがちだったということ。ですから近代民主主義という枠組みを通して国民統合される過程において、体制に親和的でソーシャルな左翼思想が後から培われてきたということ。しかも、その形成過程においては、暴力的な破綻・悲劇の経験と、その反省による産業資本側含め社会全体での妥協・譲歩があって、ようやくできたことでした。


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それでは最後に、ちょっとだけ日本に戻ります。
日本と欧州を比べたとき、まず最初に思うのは、日本ではそもそも階級対立が顕在化していないのでは、ということです。日本は戦後の高度成長期に、企業が社員を丸ごと抱え込む、企業による労働者の包摂が進行しました。ゆえに階級対立が社会的に顕在化してこなかった。ですから、右とか左のイメージが、そういう階級の利害を代表する、というものではなく、反戦平和だの人権だの、あるいは国家だの経済成長だの、親米だの反米だの、といったところでなんとなーくのイメージが広がっているように思えます。特に1970年代までは活発だった、総評のような官公労中心の組合闘争や、そうした組合を基盤にした社会党共産党の革新共闘というものが、1980年代に入って一挙に衰退してしまいました。このことが、右と左を、ますますわかりづらい、漠然としたイメージにしてしまったのでしょう。
そこで、ここは一度「右」だの「左」だのという区分けを捨てて考えてみたいと思います。どうもこの「右」「左」というのにいろんなイメージがへばりついていて、物事が見えづらくなっているような気がします。それで、リベラル ⇔ ソーシャル という対立軸を日本的に置き換えた、個人・私的領域 ⇔ 団体・組織 を横軸に残しつつ、縦軸に「右」「左」ではなく、欧州で近代国家が形成されてきた、その時間軸を、なんとなく日本的なものに置き換えて、以下のようにしてみました。

これもまあ、かなり乱暴ではあるのですが、でもある一面がみえてくるような気もします。まず右上の象限に、企業社会、日本的経営、といったものが入ってきます。日本の会社では、社員が喪主となる葬儀に会社が手伝いを動員するが当たり前だったり、休日に上司の引っ越しの手伝いをさせられたりとか、独特な共同規範や位階秩序があります。あの「中国化」のよなは先生に言わせれば「封建遺制」ということになるのでしょう。ここに農協とか地域の自治会とか青年団とか、さらには日本の労働組合なんかも入ってくるような気がします。あの共産党でも、目指す方向は右下の象限なのでしょうけど、組織の体質的には、かなり右上の要素が入っていそうです。それで「リベラル」ですが、これが左下の象限に入ってきます。こうしてみると、なんかいろいろ見えてくる気がしません?
リベラルな人たちの多くは、日本のムラ社会的なもの、団体・組織依存的なものの解消を求めているような気がします。戦前の超国家主義にもつながった日本的な古臭いエートスから脱して、「近代的自我」の形成、「個人」の自立が必要だ、とするような人たち、つまりは丸山眞男大塚久雄などの戦後の近代主義インテリとどこかつながっている。彼らは「近代」を志向する、つまり上の象限から下の象限への移行を目指すべきところを、どうも団体・組織 → 個人・私的領域への移行を重視してしまったのではないか、ということです。(ちなみに丸山眞男は、もっと深い分析をしていて『個人析出のさまざまなパターン』〈丸山眞男集 第九巻〉で展開している考え方は面白いので、興味のある人はぜひ読んでみるといいと思います)そして、右下の象限。ここがソーシャルなのですが、社会保障の充実や労働条件の改善など、大きな政府や強い中間団体による社会的な包摂を求める、ということになります。最後は、左上の象限。ここがなんか、最近の日本を象徴しているような気がするんですよね。戦後の日本的な雇用が崩れてきて、ムラ社会的「世間」の外殻であった会社や組合、地域などが弱くなったことで、境界があいまいな大衆的「世間」が、薄く広がっているのではないか、ということです。


あんまり話を広げると収拾つかないので、ここらへんで切り上げたいと思いますが、おそらく日本の「右」と言われる人のなかでも、特にタカ派的な人達は、反「近代」なのではないか?という気がするんです。最近は自民党立憲主義を否定するようなことを言ったり、何年か前には「人権思想がよくない、やはり武士道だ!」という本が売れたり、ひどいのになると「生活保護受給者は、権利の制限も仕方ない」とか、未成年犯罪者の親を「市中引き回しの上、打ち首にすればいい」とか言う政治家がいたりします。具体的・実体的な利害というよりも、社会的規範の問題が大きく全面に出てきている。実は、日本人の伝統的な規範意識と人権思想や近代法規範とでは、大きな齟齬があるんですよね。このあたり、佐藤直樹さんの「世間」に関する本を読むとよくわかります。ですから反「近代」からすれば、リベラルもソーシャルも、いっしょくたに「左」となるのではないかな、と。実際、松尾匡さんのこの話「ガチウヨ世代のソ連イメージ」では、ソ連が、国民がみんなわがままで好き勝手やって甘やかされてダメになった国、というイメージになってしまっているようですし、最近でもツイッターで、ヨーロッパのEU統合や移民受け入れが左翼主導で行われてきたかのような話になっていたのも、びっくりしました。
それから、経済右派新自由主義の人は、これはもう明らかに経営側の論理といいますか、強い国力=国際競争力で、新興国が低賃金で伸びてきているのに対して、日本も労働コストを抑えられるように、雇用規制の緩和、社会福祉の削減を言う人たちですね。こういう人たちは 団体・組織 → 個人・私的領域 となる。さらにリベラルな「左」の人たちは、日本の社畜文化からの自由・解放を求めて 団体・組織 → 個人・私的領域 となる。そして文化サヨになんかになると、伝統とか清貧とか里山エコとか、これまた反「近代」になっちゃう。それで、おそらくソーシャルなものを目指しているような人たちというのは、本当に生活が困っているような人たち、つまり餓死、凍死なんてものがリアルな現実として目の前に広がっているような層を救済する、そういう活動をしている人たちに限られてしまっている。どうもこんな感じになってて、こんがらがってわけわかんなくなっちゃっているのではないか、というのが、いろいろ考えて、思ったことです。実体的な利害がどこにあるのか、もう少し社会的に顕在化できないものなのかなぁ...と。
まあ強引に自分の関心事につなげたかっただけのような気もしますが...


ということで、今回はフランスの左翼の歴史の話がメインのエントリーでした。



参考文献

【PDF】『19 世紀フランスにおける労使の団体形成と労使関係』大森弘喜
『1930年代フランスの主要政治勢力について』竹岡敬温
『1936年のフランス社会政策(I)―「人民戦線」内閣の政策経験―』向井喜典