「努力すれば報われる」と「努力しても報われない」を考える

なんていうんですかね。この「努力すれば報われる」というもの言い。
小泉内閣の時代に、なにやら格差を正当化するために使われてきた言葉でもあるんですが、僕が意外だったのは、「全くその通り!」と言う人たちが結構多くいたことです。しかも、その使われ方は、貧困に苦しむ人たちに対して「報われていないのは、頑張らなかったからだ!」といった「自己責任」論、いやいや自業自得論ですね。もうこれが聞くに堪えない。なんなんだろう、これは...というのが正直な感想でした。


そこで思ったんです。日本人はいつからそんな「努力すれば報われる」なんてことを、素直に信じられるようになったのか?ってこと。
以前、ここで紹介した苅谷剛彦先生の「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)」では、現実には学力における不平等が再生産されていながらも、学校内での平等主義のもと、その不平等が隠匿されていると分析していました。だからこそ「努力すれば報われる」という神話が成り立つのだと。
でも、ちょっと待てよ、とも思うんです。確かに、そこそこの大学にいける学力を持っている子は、努力すればもっと上の大学にいけるかもしれない。でも、偏差値50くらいの子に「努力すれば東大にいける」なんて期待は持たないでしょうし、勉強が全然得意じゃない子に「努力すれば、日東駒専くらい入れるぞ」なんていう人もいないはずです。そう、つまりみんなわかっているんです。もともとの素養とか環境によって、本人の努力の及ばない不平等が、学力という面に限れば、存在するということを。そりゃそうですよね。早ければ小学校低学年くらいから、その差は現れてきます。
では、それでも、それこそ社会の最底辺にいるような人たちに「努力すれば報われる」なんていう言葉を投げることができる、その感覚とはなんなのか?彼らはどのような努力を想定して、しかもどのような報われ方を想像して、「努力すれば報われる」なんていう言葉を発しているのか?で、僕はなんとなく思い当たることがあったんです。こういうことなんじゃないかな?と。


僕は能力の不平等なるものを考えていたとき、ふと村上春樹の小説「海辺のカフカ」に出てくるナカタさんを思い出しました。
ナカタさんは、二つの世界が並行して描かれるこの小説の、片方の世界の主人公です。60過ぎの初老の男性なんですが、子供の頃、とある事情から知能障害のようなものを患って、読み書きすらできない。そのかわり、なぜか猫と会話できる、という人。といっても、ここでは小説の内容はどうでもよくて、僕が思い出したのは、そのナカタさんが知的障害を抱えながら送ってきた人生です。
ナカタさんは、中学卒業後に家具製造会社で木工の仕事につきます。図面を読んだり計算をすることは不得意でも、繰り返し作業は上手にこなせるようになって、2年間見習い工をやったあと、本雇いに昇格。ここでナカタさんが52歳になり、木工所が閉鎖されるまで働き続けます。ナカタさんはハンデを背負った人です。でも、木工所では戦力になった。熟練の職人だったという話です。
そうなんです。同じような作業を何度も繰り返すことで、技術を磨く。そういう仕事では、それこそ何年かの見習い期間を経て一人前になる。学力は劣っていても、ある程度の器用さや集中力があれば、なんとか技術を身につけることができる。というよりも、そもそもガテン系って、そういう世界ですよね。町工場の旋盤工や金型職人、建築土木関係では左官屋や塗装屋や建具屋。料理人なんていうのも、それこそ町の大きな料理店で見習い修業して、一人前になったら自分で店を出すとか、他の店に引き抜かれるとか...だから根性がなくて、飽きっぽくて、見習い期間中に我慢できなくてすぐ辞めてしまう。そういう人には、確かに「努力がたりない」「我慢が足りない」「今は辛くても、続けていれば必ず報われる」という説教は意味があるのかもしれません。
さらに言うと、こういった熟練技術者というのは、技術向上によって所得も安定するんですね。生産性が高いから、というのも理由なんですが、同時にその技術の希少性(つまり誰でもできるわけではない)によって、労働力は高く売れるわけです。なるほど、確かに「コツコツと努力すれば報われる」っていう言葉がフィットする世界のようにも思えます。
でも、「海辺のカフカ」のナカタさんは、52歳で失業します。家具会社の社長が亡くなったため、木工所が閉鎖されたのです。もう木工家具なんてものがあまり売れなくなってきた。時代の流れですね。




というわけで、いままでつらつらとなにを言いたくて書いてきたのか?というと、そもそも熟練技術者、熟練労働者の労働需要というものが、時代の流れの中で、著しく減ってきたのではないのか?ということです。だからこそ、以前であれば「努力すれば報われる」だった世界が、成り立ちづらくなってきたのではないか?と。
僕は、以前広告関連の会社に勤めていたんですが、最も印象に残っているのが、DTPの技術によって、印刷にかかわる多くの熟練労働者が失業していったことです。写植屋さんに製版屋さん、みんないなくなりました。今ではデザイナーがDTPソフトでつくったら、データ入稿でおしまいです。じゃあ代わりにデザイナーの労働需要が増えたか?といえばそんなことはないですよね。むしろ専門学校上がりの、とりあえずイラレとフォトショが使える、というデザイナー予備軍は大量にあふれているけど、デザインって、センスとか理解力とか創造力なんてものが必要で、それこそ修業すればだれでも上達するっていう仕事ではないです。
要するに、IT等の技術進歩や、合理化、マニュアル化、定型化等によって、今まで熟練労働者が担ってきたような仕事が、実は非熟練労働者でもできるような仕事に変わってきたのではないか?ということなんです。そうなると以前のように見習い修業によって技術を取得することで、生活の安定を得るということが難しくなる。「努力すれば報われる」が「努力しても変わらない」になってきた、ということです。
よく、海外の安い労働力の脅威、というものが製造業において語られますが、問題は、「海外の安い労働力」が脅威というよりは、「非熟練労働者で事足りる」という状況のほうにこそ、あるように思えます。「非熟練労働者で事足りる」からこそ、より安い労働力でまかなえるわけで、海外に工場をつくろうが、国内に工場をつくろうが、「非熟練労働者を安く雇用する」という状況は変わらないわけです。実際、「海外の安い労働力」との競争に直接さらされない国内サービス業、流通、小売、飲食等々でも、「非熟練労働者で事足りる」という状況がものの見事に展開されています。定型的なサービス、マニュアル的な応対しかしない店員。食べ物屋に入れば、どこぞの料理店で修業した調理人ではなく、アルバイトが工場でつくられたものをただ温めて出してくる。そして、そこで働く人たちは、いつでも代替可能なために賃金は低いままです。そこには、熟練によって自分の労働力がより高く売れるようになる、という可能性が微塵も感じられません。


思考力、創造力、交渉力、応用力等々、ある程度の能力を有している人たちとは異なり、以前であれば、定型的な労働をより正確に早くできるようになるための訓練・修業の積み重ね=「熟練」によって自らの経済的価値を高めてきた人たち。そんな人たちの労働力の経済的価値を高める方策が無くなってきて、それこそパートのおばさんとか学生アルバイトと同じ土俵で競争しなくてはならない状況。
そう考えると、問題はむしろ深刻なように思えてきます。「努力しても報われない」が、単純にマクロでの需要不足の問題であれば、マクロ政策を中心に需要を喚起する政策を打っていけばいいし、労働法制や社会保障制度、教育制度等、制度の問題もあるのであれば、制度改革によって状況は改善できるでしょう。でも、それだけで事足りるのでしょうか?
他人にはできないことができて、その能力、労働に対して相応の対価が支払われる。つまり「誰でもいい」じゃなく「自分だからできる」労働は、それこそ自尊心を高め、生きる自信にもつながります。でも、そういう労働による精神的、社会的恩恵は、これからは一部の恵まれた人たちだけのものになってしまうのでしょうか?
経済学者や社会学者でも、あまりこういう問題、視点では取り上げられていないですよね。どうなんでしょう?



というわけで、今回の話はここまで。すんません、まとまりが悪くて。でも個人的には、「非熟練労働者で事足りる」がこのままどんどん進行していくのは、経済的にみても合理的ではないと思っています。もっと深く考えたいテーマですので、またいろいろな視点から、触れていきたいと思っています。