「大衆教育社会のゆくえ」苅谷剛彦

以前こちらで書いたように、苅谷先生の「教育と平等」を読んだら、こりゃ「大衆教育社会のゆくえ」も読まないかんな、と思った次第でして...


読んでみて...
いやはや、すんません。これを読まずに「教育と平等」について感想を書いてしまって...もう、参りました。



苅谷先生は、日本の教育における「平等」観の特殊性に注目します。
アメリカやイギリスでは、人種や階級による学力の違いが顕在化しており、家庭環境や経済的な理由による学力格差が問題視されています。一方日本では、戦後間もないころは同じような問題が顕在化していたけれども、日本の経済復興、一億総中流と言われる時代の中で、そのような問題は、あたかも解消されたかのように問題視されなくなってしまいます。しかし、本当に問題は解消したのか?むしろ問題は隠されているのでは?その点を、各種統計データを駆使しながら、解き明かしていきます。
そして得られた結論は、親の学歴や職種等と、子供の学力や進学率には、明らかな相関があり、しかもそれは経済的な問題(かけられる教育費)よりも、家庭環境(親との会話の内容や、親から引き継ぐ文化的な側面などなど)や、子どもの本来生まれ持った資質等に大きく依存しており、不平等の再生産は今も続いているということです。
では、不平等が再生産され続けていることが隠されている中で、教育に対する人々の意識、目線はどのようになってきたのか?
教育を受ける前の段階でそもそも不平等があることは意識されず、教育の場における「平等」を求める意識が際立ちます。例えば、外国では階級や人種等による学力差を解消するために、能力別の対応等が実践されています。そして、その選別教育自体については賛否両論があるものの、それを「差別的」といった批判は見られないといいます。一方、日本では「平等」の名のもとに、教育の標準化、画一化が進行し、能力別の教育はタブー視されています。
また、教育の機会均等、教育の場における平等主義のもと、教育を受ける前段階での不平等が意識されないことによって、「努力すれば報われる」という価値観が広く大衆に共有され、教育への積極的参加、つまりは厳しい受験戦争へ。そして結果ではなく「機会」の平等を前提とした序列化が大衆レベルで広がっています。


僕はこの本を読みながら、僕が受けてきた「教育」ではなく、僕が勤めていた「会社」を思い浮かべていました。
僕が以前勤めていた会社ですが、勤め始めた頃は、古き良き日本的経営、日本的雇用が残っており(ついでに言うと、勤めていく中でその日本的な会社文化が壊されていく過程を目撃することもできたのですが)、その時に感じたのが、ものすごい横並び意識や平等主義と、その上での序列化というのでしょうか。僕から見れば滑稽なものも多々ありました。
例えば、会社の椅子。たしか部長以上(だったかな?)は肘掛付の椅子になっていたんだけれど、20〜30人くらいの事業所だったので、部長が増えてきたら、肘掛付の椅子が足りなくなっちゃんたんですよね。で会社の業績も芳しくなく、経費削減が叫ばれていたわけです。だから新たに肘掛付の椅子を買うわけにもいかない。そうなると、肘掛なしの椅子を使う部長さんを誰にするのか?ということになって、総務部長さんがずいぶんと気を使っていたことを思いだします。僕からすれば椅子なんてどうでもいいじゃないか、と思っちゃうんですけどね。他にも、PCだとか机の大きさについても、この序列と平等が貫かれる。同じ事業所内に営業職の人も企画系の人も事務系の人もみんないたんですけれど、その職務内容にかかわらず、PCも同じ、机の大きさも同じ。そのかわり、役職によって変える。PCなんて、部長さん以上はモニタが高解像度のものになっていたんだけれども、老眼の局長さんなんて、逆に見づらいって怒っていました。とにもかくにも、社員の意識の中でも、序列と平等というのは非常に大きな意味を持っているんです。そして同期との差異にはものすごくうるさく、自分が同期の中でどの位置にいるのかがとにかく気になる。この横並びの上での競争意識こそが、日本人を社畜へと走らせている大きな原動力となっているようなんです。ところが、例えば系列の親会社から出向してきた社員は、プロパーの社員よりもはるかに高給だったりするんですけど、そういった不平等については、あまりうるさくない。同期とのわずかな給与の差にはとても敏感なのに。


苅谷先生のこの本を読んでいると、日本の教育の問題を説明しているというよりも、よりリアルに日本の企業社会を描いて見せているという印象です。そもそも、僕はサラリーマンの家庭に育ったわけではなく、「いい大学出て、いい会社に入る」という感覚からは縁遠かったので、会社勤めをして初めてサラリーマン的な意識、感覚に触れることができたからでしょうか。とにもかくにも、あの会社員時代に感じた違和感を、ものすごくリアルに説明してくれる本のように思えます。


さて、それでは、この実に日本的な、横並び・平等主義+序列・業績主義というようなもの(苅谷先生は「メリトクラシーの大衆化状況」と言っています)は、教育の現場から生まれて、それが企業社会へと影響を与えていったのでしょうか?この本では、「教育」→「社会」への影響については考察されているんですが、逆に「社会」→「教育」、さらに言うと「企業社会」→「教育」への影響については言及されていません。でも、僕はこの問題を「教育」という側面から見るのはやはり片手落ちのような気がします。なんとなくの僕の印象では、日本の「教育社会」と「企業社会」というのは、二人三脚のように歩調をそろえて、「メリトクラシーの大衆化状況」へと突き進んできたのではないかというものです。
なにが言いたいのか?
それは、日本的な、「出る杭は打たれる」「空気を読む」的な「世間」の内側(学校内、会社内)では、あまり出来の良くない者が、早々にくさったり、あきらめてしまわないように、できるだけ多くの者たちが、前向きな向上心を持ち続けられるように、横並び・平等主義とそのなかでの競争が徹底される(それゆえの年功制なのでしょう)。その一方で学校単位での序列化(=偏差値による学校の分類)、企業単位での序列化(大企業>>中小企業、親会社>>子会社)などなど、業績主義による差別化が「世間」の外側で際立つ。機会の徹底的な平等と、不平等の再生産の隠匿により、「努力すれば報われる」という幻想が創出される。
誰が企図したということではなく、多くの日本人が、教育においても、労働の現場においても、この構造の中に引き込まれてきたんでしょう。
おそらく、この構造は、戦争直後の時代には様々なパターン、バリエーションのうちの一つでしかなかったのではないでしょうか。いやいや、そもそも「構造」ですらなかったのでしょう。そして多く日本人が、無意識のうちに選択してきたものの組合せが、構造化されてきた。そんな気がしてなりません。



苅谷先生は「教育と平等」のあとがきで、「いずれもう一冊、「大衆教育社会」論を書いて三部作にしたいと企図しているが、」と書かれています。「大衆教育社会のゆくえ」「教育と平等」の2冊で書かれた「大衆教育社会」論を、どのように発展させ、まとめ上げるのか、正直今から楽しみです。(まだまだ当分先なのだろうなあ...)


教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)