「「はだかの王様」の経済学」松尾匡

松尾匡さんに興味を持って、なぜかこの本を読んでみました。

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

実はこの本、出版当初、ネットの一部で、ちょっとした話題になった本です。
『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である
山形浩生さんの、この批判があまりに強烈で、「はだか祭り」と呼ばれるほど議論が沸騰しました。そして、そんな「はだか祭り」から1年半も経った今頃になって、僕もようやく読みました。


なかなかおもしろかったです。数多くの違和感が残ったりもしたんですけど、でもよく出来てると思います。ただよくわからないのは、いったい誰が読むのだろうか?どういう読者を想定しているのだろうか?ということ。文章も平易にわかりやすく書いているんだけど、そもそもこんなことに興味を持って読もうとする人には、こんなくだいた表現じゃなくてもいいように思えるんですよね。むしろわかりやすくしすぎたために、誤解も生まれやすくなったような...。


さて、この本、マルクスの考え方を「疎外論」を軸に解説する、ということで、その「疎外論」を「はだかの王様」の話に例えて説明をしていきます。なんですけどこれ、マルクスを読んだことのある人、あるいはマルクスに関心のある人からすれば、なにかひとこと言いたくなる。そもそも、マルクスを「疎外論」で語ること自体に、違和感を感じる向きもありそうですし、「疎外」を「はだかの王様」に例えることにも、それは適切か?と思ってしまいそうです。当然、マルクスの「疎外論」自体に違和感を感じる人もいるでしょう。さらにこの本では、「疎外論」を新古典派の「ゲーム理論」を用いて説明してしまおう、ということまでやっていてですね、まあそりゃ、議論が沸騰するのも当然と言えば当然かもしれません。だからこの本、一人で読むんじゃなくて、読書会かなんかやって、その後みんなで議論したりするのが面白いんじゃないか?と。とにもかくにも「マルクス」という題材は、今までもああでもないこうでもない、とさんざん議論されてきたものですから。


僕もこの本のマルクス解釈について、いろいろと疑問、というか違和感も持ってしまったんですけど、でも基本的なところでは、結構同意できる部分もあります。例えば、第4章の「労働価値説はトンデモか?」というところ、

 ところで、マルクス経済学は「労働価値説」だってよく言われますよね。普通、「労働価値説」って言ったら、商品の価格を決めるのは、その商品を生産するのにかかった労働の量だという説をイメージします。たしかに『資本論』は冒頭から労働価値説を前提にして議論していまして、商品を生産するのにかかった労働の量に比例した割合で、商品が物々交換される事態から話を始めて、貨幣が出てくるまでを分析しています。でも、今どき、商品の交換割合である価格が、その商品を生産するためにかかる労働の量に比例するなんてことを言ったら、経済学会ではまず相手にされません。地動説を今さら唱えるのと同じレベルのトンデモな議論になります。
 じゃあマルクスの経済学は今日なんの意味も持たないトンデモ論なのかというと、そうではないというのが私の見方です。よく読んでみると明らかなのですが、この部分でのマルクスの強調点は、商品価格がその生産のための投下労働量に比例して決まるということではありません。逆なのです。商品の交換割合である価格は、その生産にかかった投下労働量からズレてしまうということこそが『資本論』のこの部分で本当に言いたいことなのです。

これについては、まったく同意できます。それこそ『資本論』第1章 第4節「商品の物神的性格とその秘密」を読めばわかるはずなんです。だからマルクスの労働価値説を使って、近代経済学(あるいはブルジョア経済学。マル経の人はこう呼ぶんですね。)に代わる「経済学」なるものを展開しようとすると、おかしなことになるわけです。マルクス資本論は、たしかに経済学を含んではいますが、あくまでも経済学批判なんです。だから、マルクスは労働価値説だからダメ、という批判も正しくないわけですね。ここのところについては、さすがに最近のマル経の衰退によって、ようやくコンセンサスを得られるようにはなってきたんだとは思います。



ところで、ふと思ったんですが、この本、マルクスを絡めなかったら、実は話がすっきりするのでは?と...。本の意味を真っ向から否定するかのような話ですが、要はワルラス一般均衡論のような効用を最大化するような一つの均衡解ではなく、個人が合理的な行動をとるという前提のもとでも、複数の均衡解(ナッシュ均衡)が考えられる。そして、もっとみんなにとってより良い均衡(パレート優位)があるにもかかわらず、そうではない均衡(パレート劣位)が持続する場合もある。ということが、ゲーム理論によって導き出せる。これがこの本の重要なポイントなんだと思うんです(これを、この本ではマルクス疎外論と結びつけているわけですが...)。
ただ、よりよい均衡に移るためには、どうすればいいのか?あるいは僕らには何ができて何はできないのか?という点について、最終的にマルクスに負う部分が出てくるんですよね。そして、そのマルクスに負う部分、その元となるマルクスの考え方自体が、僕個人としては違うんじゃないか?と思うところでもあるんですけど...


そんなこんなで、けっこう面白い本なんですが、僕はこの本を読んで、マルクスがどうこういうよりも、むしろ松尾匡先生の考え方、問題意識のほうにすごく興味がわきました。しかも、本の中身よりも、山形浩生さんとの論争点のほうが、より気になってしまいます。

 二〇〇七年までの景気回復は、企業の設備投資と輸出の拡大に主導されて起こっていたことでした。家計最終消費支出はほとんど伸びていません。小売販売額は執筆時点で入手できる最新データ(二〇〇七年六月)まで、何と減少しつづけています。つまり、景気回復だとか言って、私たちはたくさん働くようになったのですが、消費財の生産は増えていない。結局、増えた分の労働は、自分の身に返ってくる財を作っているわけでは全然なく、設備投資する企業のために機械や工場を造ってあげるのに働いていることになるわけですね。

この部分についての山形さんと松尾さんとの論争を読みながら、僕が思い出したのは、新古典派の成長モデル(ソローモデル)であり、「資本の黄金律水準」なんです。要は、投資と消費のバランスですよね。というわけで、この話については、またいずれ書こうと思います。


まあなんだかんだいって、松尾匡先生の本は、もっといろいろ読んでみたくなりました。