POSSE vol.8「マジでベーシックインカム!?」

本当に久しぶり、9か月ぶりの更新です。まあとにかく仕事が忙しくて混乱していたのですが、ようやくブログを更新できる物理的精神的余裕が生まれました。


このブログでは確か大塚久雄の経済史ネタを扱っていて、その途中だったんですが(実は大塚久雄の「前期的資本」の話とか、少しは原稿書きすすめてはいたんですけどねえ...)、今回は復帰一発目ということでマニアックネタは避けて、POSSE vol.8の特集「マジでベーシックインカム!?」について。

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

POSSE vol.8 マジでベーシックインカム!?

去年の9月刊行ですね。今頃このネタか、とも思うんですがいいんです。いつも旬の時期は逃すので。POSSEはもう既にvol.9が出ていて、こっちはブラック企業特集でとても面白そうなんだけど、Amazonで注文したら今だ届かず...増刷中なのかな?


ということで、ベーシックインカム。僕がこの言葉を初めて目にしたのはやはりWebでした。小飼弾さんのブログだったような気がします。個人的には最低所得保障の理念が、生活保護から雇用保険最低賃金、年金にまで貫かれるべきだ、くらいのことは考えていたので、ベーシックインカムを初めて知った時も、まあそういうのもアリなのかな?と思ったのを覚えています。
ところが、その後の議論の盛り上がりを見ていると、ちょっとおめでた過ぎるくらい安易な語られ方をするようになってきた。なので僕のなかでは、このベーシックインカム周りの言説に対して、なんだかなあ...というか、それこそ「最低所得保障という理念を制度に落とし込むのは、そんな単純な話じゃねえよ!」という、反発心も生まれてきていた。そんな折に、タイミング良くPOSSEの特集です。


僕がベーシックインカムに対してもっとも疑問を感じていたのが、家族や世帯ではなく、あくまで個人に対して一律の金額を支払うという点。その金額はどういう理念に基づき、どういう基準で算出されるのか?ところが、どうもこの点がはっきりしない。かといって、ベーシックインカムについて書かれた書籍をわざわざ買って読むのもなあ...と思っていました。
そんな僕にとって嬉しかったのは、このPOSSEの特集では、ベーシックインカムの議論を俯瞰できるような内容になっていて、話についてこれていない人も、一通りおさらいできるようになっている。そしてベーシックインカム推進派から、慎重派、否定派、理念論から制度論、経済(市場)論まで、一通りの意見が集められている。編集者自身はベーシックインカムに対して否定、または懐疑的な立場のようなので、全体としてはどうしても否定、懐疑のトーンが強くはなるんでしょうけど、それでも極力バランスを取ろうとしているので、変な先入観なく読めると思います。


それで、読んでみての僕の感想は、結局のところ制度としてどのように設計していくのか?という具体的な話が、推進派の人たちのなかでも、ほとんど考えられていないんだなあ、ということ。しかも、支給される金額がどういう理念に基づき、どういう基準で算出されるのか?が、まったくもってあやふやなのである。この点について制度論的に明確に問題点として指摘しているのが、後藤道夫さんの『「必要」判定排除の危険 ― ベーシックインカムについてのメモ』。これ読んだら、ああまったくその通り、とうなづいてしまいました。
例えば、ベーシックインカム生活保護に置き換わるものと位置づける場合。後藤道夫さんによれば、東京都内に住む単身、借家の18歳の場合、住宅扶助の特別基準上限額を用いた最低生活費は14万円だそうですが、要するに最も厳しい条件の人でも生活が保障される金額、というのが算出基準になる場合、この月14万くらいがベーシックインカムの給付額にならなければならない。そうなると、うちみたいに3人家族の場合、個人に一律同じ金額ということなので14万×3=月42万になる。子だくさんで7人家族だったら月98万。まあ子供は給付額を変えるにしてもですよ、これはちょっと非現実的ですよね。
推進派の小沢修司さんは、生活保護の生活扶助部分が都会の20〜30代の一人暮らしで、8万5千円くらいなので、これを参考に8万という数字を出しています。ということは住宅扶助分は別に出るということですよね。住宅扶助分はベーシックインカム方式ではなく必要な人に給付される。そうなったとしてベーシックインカムは例えば3人家族では8万×3=24万ですよね。5人家族なら8万×5=40万。こういう人たちでベーシックインカム以外に所得のない人には住宅扶助分は出るんでしょうか。やはり世帯収入にベーシックインカム分も加えた上で、支給するしないを決めるんですかね。そうなると下手すればベーシックインカムの金額によって出たり出なかったりしますよね。かなり制度設計難しそうです。まあ住宅はとりあえずおいておくとして、生活という面で見ても、東京の一人暮らしの人が最も厳しい条件だとして、その条件に合わせた8万。同じ8万で、例えば沖縄の離島の5人家族が40万。こういうのどうなんですかね。
社会保障というのは、最も厳しい条件の人でも、まっとうな生活が送れるようにしてあげる必要がある。それをもしベーシックインカムのような制度でカバーしようと思えば、最も厳しい条件の人に合わせなければならない。でもね、日本は広いわけですよ。様々な人がいる。確かに数字の上ではまったく同じ給付額だとしても、人によってその意味は全く異なるわけです。こういうのをあたかも平等だ、みたいな感覚でとらえるのはちょっと危険な気がします。そして、もし最も厳しい条件での必要分を、ベーシックインカムの給付額の基準としない、ということになれば、じゃあベーシックインカムはどこまでを保障し、そこからこぼれる部分はどのような制度によって賄われるのか、この切り分けを明確にすることが非常に難しくなるし、給付額の根拠もあいまいになる。そして、そうなった場合には、そのあいまいさゆえに、間違いなく政治的な思惑によって、大きく歪められてしまう危険性が高くなる。(子供手当も、ある意味政治的に決められた3万という金額のせいで、子育てに対する社会保障の議論が、なんだかおかしなことになっていますよね)
後藤道夫さんは、これを「必要」判定排除の危険、としてわかりやすく解説しています。とにかく、読んであらためて思ったのは、ベーシックインカムは「制度」として考えた場合、あまり筋がよくない、ということです。
公的サービスは現在、より個別具体的な対応が求められてきています。それゆえに役所だけでの対応では限界があり、多くのNPO法人との連携など、新しい公共サービスの在り方が模索されています。社会保障、生活保障についても、様々な個別の「必要」をどう把握し、きめ細かく対応できるか、より重層的な制度が必要なはずです。ですからベーシックインカムは、最大の特徴であるそのシンプルさが、実は最大の問題点であるように思えてきます。


さて、ここまでは「制度」としてみた場合についてですが、理念や思想として考えてみた場合、どうなのか?
POSSEでは「新自由主義との親和性」という観点が何人かの論者によって語られていて、これはもともと僕も感じていたことですね。むしろ驚いたのは推進派の人たちが、「労働」と「所得」を切り離すだの、労働からの「解放」だ、などという、根本的に社会の在り方を変えるかのような、大それたことを言っている。ずいぶんとスケールの大きい話です。当然、僕はものすごい違和感を感じたんですが、特に労働からの「解放」だの「自由」だのといった考え。なんだか「解放」とか「自由」とか「自立」というものの捉え方が、僕とは全然違うんだなあ...と思ってしまいました。


僕は、このところ経済史とか文化人類学方面にも興味を広げていて、そこで得た知識をもとにすると、人間の関係性って、ベースに「必要とする」と「必要とされる」があって、それが相互に絡み合って、時には抑圧が生まれたり、あるいは協力が生まれたりと、この「必要とする」と「必要とされる」の力学が強く働いていると思うんです。よく経済で需要と供給という言葉が使われますが、これは商品化され貨幣価値で交換される市場の上での「必要とする」と「必要とされる」の関係性です。近代以前なんかでは、農地を必要とする農民と、耕作して地代を支払う耕作人を必要とする地主の関係がそう。ここでは農地を「必要とする」が強く、逆に地主から「必要とされる」が弱いと、従属的な関係になってしまう。そして歴史的に見て、個人の「自由」や「自立」は、この「必要とする」と「必要とされる」の力学と不可分な関係にある。「必要とされる」が「必要とする」より弱ければ、どうしても従属的になってしまうし、「必要とされる」の選択肢が狭ければ、その限られた「必要とされる」場所から離れられなくなってしまう。一方で「必要とされる」が、個々では弱くても、組織的に統合して顕在化・強化することができれば、対等な立場をつくりだせたりもする。近代から現代にかけての個人の「自立」だの「自由」だのも、この「必要とされる」が、広げられ、強められたことによって、獲得できてきている。


それで話を戻しますが、社会的弱者というのは、この「必要とされる」が圧倒的に弱い人たちだと思うんです。労働市場で必要とされない。あるいは、必要とされる場所はあるのかもしれないけど、それを結び付ける回路がない。さらには、経済的な関係だけでなく、家族、友人、その他様々なコミュニティ、共同体からも「必要とされる」が弱い。
ベーシックインカムは、社会的弱者の脆弱な「必要とされる」を強めるものではありません。「必要とする」を弱めて、従属的な関係を和らげることはできるかもしれない。けれども、けっして「自立」だの「自由」だの「解放」といった、社会の在り方を変える新たな革命に結びつくようなものには思えません。
ベーシックインカムは、生活保障を受ける人たちへの蔑視、劣等視を和らげる、と言います。受ける側もそういった恥辱感を持たずにすむと。本当にそうでしょうか?僕には「いい大人が働かず税金も納めず、国に甘えてんじゃねえよ!」という蔑視がなくなるとは思えません。「必要とされる」が弱い限り、社会的な排除、蔑視からはそう簡単に逃れることはできない。そう思います。
所詮、所得保障は、所得保障でしかないのです。


ここまで、制度論的にも理念的にも、ベーシックインカムについて思ったことを書いてみたんですが、あともう一点「経済」の観点から、ベーシックインカムに対しての根本的な疑問があります。POSSEの特集に経済学者の飯田泰之さんへのインタビューがあるんですが、飯田泰之さんは、制度導入に際しては最低賃金制度をなくすべき、と言っているんですね。ベーシックインカム(あるいは「負の所得税」)を導入し、最低賃金制度をなくす。その結果労働市場はどうなるのか?僕はどう考えても、人手の余っている非熟練単純労働の市場では、その賃金は大きく下がる、としか思えないんですが、経済学者である飯田泰之さんは、そんなことない、って言っている。


ということで、この話は長くなりそうなので続きます。
労働力を再生産するためのコストを市場が負担しない、そんな経済クソ喰らえだ、ってなことを書こうと思っていますが、はたしてどうなるやら...