大塚久雄の描く「ゲルマン的形態」から、「日本的なるもの」を考えるヒント

前回の続きです。
今回は、大塚久雄『共同体の基礎理論』において描かれた「ゲルマン的形態」を見ていきます。

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

『共同体の基礎理論』の「ゲルマン的形態」で、大塚自身は広く中世ヨーロッパの封建性的共同体を想定しつつも、具体的には三圃式農業、開放耕地制の、典型的なゲルマン式の村落を描いています。
そもそも三圃式農業とは、農地を3つに分割して、冬畑・夏畑・休耕地を年ごとにローテーションさせて3年で一巡させる農法です。小麦やライ麦などの冬の穀物を栽培する冬畑、大麦など夏の穀物を栽培する夏畑、そして休耕地では家畜が放牧され家畜の糞尿が肥料となって土地を回復させます。この三圃式農業によって生産性は向上しました。同時に農作業が大規模になるため、村全体での共同耕作が行われるようになり、また住宅は一か所に集められ集村化が進みました。
では、このような典型的なゲルマン式の村落、ヨーロッパのどの地域に分布していたのでしょうか。

この地図はマックス・ヴェーバー『一般社会経済史要論』(黒正巌、青山秀夫訳 岩波書店)からの引用です。この地図を見てもわかるとおり、典型的なゲルマン式の村落形態は、フランス北部やベルギー、ドイツ、デンマーク、北欧、イングランドに展開していました。一方でオランダやドイツ北西部、フランス中部からスイス山岳地帯、スコットランドなどの地域では、土地や自然環境の条件から、三圃式の集村形態ではなく、散居式の村落が分布していたとされています。


では、大塚久雄の『共同体の基礎理論』における「ゲルマン的形態」についての記述を見ていきましょう。

「ゲルマン的」共同体においては、「村落」全体によって「共同に」(=「共同態的に」gemeinschaftlich)占取された「土地」は、その内部においてさらに各共同体成員(=各農民「家族」の家長)によって一応残るくまなくすべて「私的に」(=gesellshaftlich)占取され、所有され、相続されるのであって、すでにこの点において他の共同体諸形態のばあいと明確に区別されている。とはいうものの、こうした「土地」の「私的占取」はもちろん近代におけるような完全に個別的で自由な私的所有ではなく、共同体全体による一定の「共同態規制」のもとにおかれているばかりでなく、その一極にはいわゆる「総有」Gesamteigentum の関係(=「ゲルマン的」形態における「共同地」Allmende)をさえ含んでいるのであって、歴史上「フーフェ」《Hufe》(=mansus, virgate)とよばれてきたものがそれである。換言するならば、こうした「フーフェ」という形態のもとに、各共同体成員は「村落」Nachbarschaft の支配下にある「土地」を残るくまなく私的に占取したのである。

「フーフェ」とは、「ゲルマン的形態」を特徴づける土地の所有形態です。以下、大塚久雄の解説を簡単にまとめてみました。
村落の中心には集落が形成され、住宅や宅地、庭畑地は私的かつ個別的に占取されます。
その周辺に「共同耕地」が広がります。「共同耕地」は通常30個ないし60個、あるいはそれ以上の「耕区」によって構成。各村民は、この「耕区」にいくらかの広さ、例えば1エイカーないし1/2エイカーの耕地片を所有し、各「耕区」に分散している耕地片の総体が、彼が所有する「耕地」ということになります。これがいわゆる「混在耕地制」。各村民の占取する耕地片の大きさは「平等に」配分され、同時に耕作や収穫その他、利用のあらゆる面にわたって、厳しい「耕区強制」のもとにおかれます。
「共同耕地」のさらに周辺に広がっている放牧地や森林は、村落所属の「共同地」。各村民は慣習にしたがって「共同地」に対し、自己の耕地の大きさに比例した一定の大きさの共同使用権(たとえば一定量の木材の伐採、一定数の家畜の放牧など)である「共同権」をもっていました。「共同地」もまた一定の大きさの共同権という持分の形で私的占取の対象であり、「総有」Gesamteigentumという所有関係でした。
以上、各村民(=家長)が異なった様式で私的に占取する三種の土地、「宅地および庭畑地」「耕地」「総有地持分」の総和が「フーフェ」です。各村民(=家長)はこの「フーフェ」1個を私的に占取することによって、慣習的に標準的な村民(=共同体成員)としての資格を与えられました。1個の「フーフェ」はそうした標準的な村民の一家族(=家族経済)の生活を支えうる一単位とみなされていました。


大塚久雄は、あくまで土地の所有形態に注目しています。「ゲルマン的形態」は、共同態規制に縛られながらも、くまなく「私的に」占取されている。そのことを強調します。


ところで、日本の近世村落共同体と比べてみてはどうでしょうか。日本も「ゲルマン的形態」と同じように、土地の「私的占取」は広く見られました。むしろ水稲が主流の日本では、共同耕作ではなく個別耕作のため、耕作地の「私的占取」はよりはっきりと表れていて、「耕区強制」のようなものもあまりなかった。「共同体」としての機能は、主に「水利」つまり水稲に必要な用水路の所有・維持管理等、あとは林野の所有・利用ぐらいでしょうか。こうしてみると「ゲルマン的形態」の方が、共同耕作のため、より共同体への積極的な組織が必要で、そのための強い規制、規律が求められそうです。実は、同じ西ヨーロッパでも、ゲルマン式ではない散居式の村落では、むしろ「共同態規制」は弱く「私的」領域が広かったりします。
それと「ゲルマン的形態」と日本の近世村落との目に見えての違いは、やはり「集村」か「散村」かということです。日本の近世農村は「散村」が多く、住宅が集まった形態の村でも街道沿いでの集村形態だったりします。これは「ゲルマン的形態」のような「共同耕作」の必要性ではなく、共同体外との市場的取引等の経済的要請からですね。
大塚久雄が考えていたような「私的所有の拡大により最終的に共同体が解体する」というストーリーとはちょっと違うように思えてきます。さらには以前僕が問題意識を書いたように、「ヨーロッパは個人主義で、日本は集団主義」というイメージとも異なる。「ゲルマン的」共同体は、私的所有を前提としながらも、共同体内の結びつきはむしろ強い、という印象です。


大塚久雄は『共同体の基礎理論』の最後に、「ゲルマン的形態」に関する、ある考察をしています。そして、僕が『共同体の基礎理論』を読んで、「あっ、そういうことか」と気付いたのは、実はこの最後の考察からです。

 最後に、以上述べたような「耕区制」の成立事情に関連させつつ、われわれはここで、他ならぬ「ゲルマン的」形態の共同体が他の共同体諸形態に比べて生産力(=生産諸力)のいっそう高い発展段階に照応するものであり、したがって「共同体内分業」の歴史的に独自な質と量を表示するものであったということについて、いちおうの理論的な把握を試みておきたいと思う。「ゲルマン的」共同体は、再生産構造の観点から眺めるとき、最も端緒的な段階においてさえ、すでに単なる自給自足の「自然経済」などではなく、むしろ最初から、ある範囲の局地内的商品交換をさえ伴いつつ、そうした局地的「貨幣経済」によって補充されていたように思われる。このことは、なお多くの実証的研究をまって史実的裏付けを与えられねばならないが、すでにすぐれた史家たちによって理論的にも実証的にもある程度の根拠をもって想定されているところである。それはそれとして、「ゲルマン的」共同体を内から支えているところの「共同体内分業」(=局地内分業)は、一般的にいえばもちろん「デーミウルギー」Demiurgie(=村抱え)とよばれるべき形態に属するものでありながら、やはりそこには「ゲルマン的」形態に固有なものがあったと考えねばならない。研究史の現状に即していえば、「ゲルマン的」形態の「農業共同体」(したがって荘園)の内部には、すでに初発から、一定の種類の「手工業者」fabri, Schmiede, wrights がだいたい次のような形で包含されていた。
 (1)まず、文字どおり「村抱え」(=デーミウルギー)の形をとる水車屋、鍛冶屋それに大工(とくに車大工)などの手工業者たちで、彼らはしだいに「村落」内のいわば特権層を形づくるようになっていく(「アジア的」形態のデーミウルギーとの相似と差異)。つぎに、家父長制「奴隷」の姿をとる手工業者たち(いわゆる「荘園手工業者」Hofhandwerker はその転化形態)で、彼らもしだいに「小屋住」などの形に上昇していき、それとともに「村落」内の手工業者の数も種類も増大していく。たとえば、鍛冶屋、馬具屋、大工、車大工、靴屋、パン屋、魚屋、織布工など。
 (2)ところで、「ゲルマン的」共同体にとくに特徴的と思われるのは、そうした「村落」内の手工業者たちのうちに、一般の人々に対して製品を「自由に」(必ずしも身分上の自由を意味しない)販売する者が少なからず存在したということである。換言するならば、「村落」共同体内部にそうした意味での「自由な」手工業者たちの存在しうる余地が十分にあったということである。

「共同体内分業」。僕はこの部分を読んで、日本の共同体との決定的な違いはここだと確信しました。


分業は、当然「交換」が前提となります。私的所有に基づいた「交換」は、分業が広く深く展開すればするほど、「市場的」なものにならざるをえないのでは、と想像できます。つまり「共同体内分業」の進行は「共同体内市場」「共同体内での貨幣経済」の発展につながる、と考えられるのです。
一方で日本の近世村落共同体を考えた場合、どうでしょうか。「共同体内分業」というものが、どれほど進行していたのでしょうか。江戸後期には日本の農村にも広く貨幣経済は行き渡っていました。でも「共同体内」での市場的交換は広がっていたのでしょうか。
僕は、阿部謹也の世間論に出てくる「贈与互酬」という言葉を思い出します。そう、つまり日本の共同体内は「市場」的交換ではなく「贈与互酬」的交換が主流なのではないか、と。


そう思った瞬間に、いろいろなことが思い浮かびます。日本の「カイシャ」という共同体では、自らの労働を「市場」的な交換原則によって提供するのではなく、「贈与互酬」的な奉仕行為として提供し、給与はその労働に対してではなく「贈与互酬」的関係性の中での「立場」に対して支払われます。日本の組織では、組織内での分業、役割を明確にした分担が、とても苦手です。逆に横並びで競い合う、という組織形態が好まれます。個人が専門性に特化することは、日本の「カイシャ」ではあまり望ましくないこととされています。
考えてみれば「日本的経営」なるものがこの日本に誕生し広がってきた時期と、農村部の労働力を産業資本が広く組織してきた時期は、ものの見事に重なるのです。


「分業・市場」と「序列・贈与互酬」の違いは、なにを意味するのか?
そんなことを考えたとき、思いつく古典的な名著があります。デュルケームの『社会分業論』とモースの『贈与論』。社会学の古典と文化人類学の古典です。実はこの二人、伯父と甥の関係なんですね。なにか不思議な縁を感じてしまいます。
というわけで、なんとなくこんな方向で「日本的なるもの」を、さらには「近代」ってなんだ、ということにもつながりますが、もっともっと深めていこうと思ってます。


最後に「共同体内市場」と「贈与互酬」の違いを端的に表す興味深い話を。これまた大塚久雄の著書『歴史と現代』(朝日選書)からなんですが、収録されている大塚久雄のインタビュー「国民経済の精神的基盤」で、内村鑑三岩波茂雄岩波書店創業者)のちょっとしたエピソードが語られています。

岩波茂雄さんを怒らせたという有名な話がありますね。岩波さんが内村先生の荷物をもってあげたところが、先生は岩波さんになにがしかのお金をお礼に渡した。自分は好意でしたのにと岩波さんが怒った、というのです。

内村鑑三は、岩波茂雄のサービス行為に対して対価を払った。とても「市場」的です。でも岩波茂雄は怒った。「贈与互酬」的関係性においては、内村鑑三の行為は礼に反するわけです。なぜ礼に反するのか、は文化人類学における「贈与」の意味を学べばおのずと答えが出てきますが、それはまたの機会に。
それにしてもこの話、プロテスタント内村鑑三、というところが興味深いです。



一般社会経済史要論 (上巻)

一般社会経済史要論 (上巻)

歴史と現代 (朝日選書)

歴史と現代 (朝日選書)