文化と政治性 村上春樹エルサレム賞がらみで

僕もこの話題に乗せてもらいます。

2009年2月にエルサレム賞を授与される、ということ - モジモジ君の日記。みたいな。
村上春樹を読まずに批判してるって? - モジモジ君の日記。みたいな。



そもそもmojimoji氏は、村上春樹の作品については一切語るつもりはないようです。村上春樹の「作品」と「作家本人の政治性」は切り離して、その「政治性」についてのみ「どうするんでしょうね?」ってな話をしただけです。
でも、「作品」と「作家本人の政治性」の切り分けが理解できていないのか、「作品も読まずに、語らないで!」ってな感じの反応が返ってきたようです。



で、気がついたら、村上春樹ファンの「心性」とか、村上春樹の作品における「政治性」なんてものが語られ始めちゃった。
村上春樹はエルサレムで語ることができるか? - キリンが逆立ちしたピアス
村上春樹氏 エルサレム賞受賞−村上春樹という問題 - 無造作な雲
村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと - 琥珀色の戯言
こうなると、もう絶対にまとまらない。



僕は文化とか芸術における「政治性」ってなものに考えを巡らせ、そして以下の文章(高井守氏の「永久保存版」の日記)を思い出しました。
永久保存版 最新情報の地層2003年6月〜2004年5月

最近何かにつけて見ているのが桜チャンネル掲示板です。 この掲示板は、保守の視点から落ち着いたレベルの高い論議もところどころで見られて、アカ(自己申告)の私にとっても全体的に面白いのですが、中でも興味深いのは日本のサブカルチャーに関するいくつかのスレッドです。この掲示板の投稿者のイデオロギーからすれば、手塚治虫宮崎駿の作品はアカや戦後民主主義プロパガンダデマゴーグというわけで、否定すべき対象以外の何ものでもないのですが(というようなことは、手塚治虫に関しては、実は40年近くも前にアカの学生たちが言っているのが)その一方ではそういうイデオロギーを持つ前にブラックジャックやらアトムやらナウシカやらトトロやらを読んだり見たりして深い精神的影響を受けたかつての自分が一方でいて、その両者のあいだの隔たりをどのように埋め合わせるかというようなことについて白熱した議論が戦わされているわけです。でも、野暮を承知で言うと、これに似たような議論は「国民」や「伝統」を「階級」や「進歩」に置換したバージョンで、大戦前のヨーロッパのアカの知識人が盛んにやっていたものなのですね。来るべき共産主義革命のあかつきに、それまでの王侯貴族やブルジョワなどの旧支配階級が蓄積してきた文化のストックをどう扱うかということが、彼ら自身もそれらによって教養を形成してきたという事情もあって、重要な問題になったわけです。それについては、乱暴に分けると、旧支配階級の影響を完全にクリアランスして新しいプロレタリアート文化を創造しようというラディカルな回答と、そういった旧支配階級の文化の中にも進歩的な要因と反動的な要因の両方が含まれていて、進歩的な要因を選別し有意義な遺産として革命の主体たるプロレタリアートが継承・発展させていくという穏当な回答の二つに分かれたのです。もちろん、後者の方が、より多くの支持を受けたのですが、その次は、何が進歩的な要因で何が反動的な要因かというその基準をめぐって延々と議論を繰り広げることになったわけです。例の桜チャンネルの投稿者のサブカルチャーをめぐる議論というのも、私から見ればまさにヨーロッパのアカの知識人のこのような議論のサブセットなのですが、べつに私はヨーロッパのアカの知識人の 思想を今さら勉強しなさいというつもり はありません。論壇というのも系統的発生を繰り返すものだなと、フェッセンデンの宇宙をガラス越しで、という比喩が古ければ、最初の条件付け操作に従って議論を果てしなく繰り返す論壇シュミレーションソフトのアウトプットを見ているかのように、好奇心を持って彼らの議論を興味深く眺めているだけなのです(ちなみに「彼らの信奉する神をこそ撃て」というのはもう古くて、IT化の進んだ今日では「私は神だ、ただしシミュレータを操作する」です)。でも、どうせやるならば徹底して行って、手塚治虫の原画や宮崎駿のセルを展示する頽廃、じゃなかった反日芸術展というのが催されるところまで行き着くのを見てみたいような気がしますが。

文化と政治を厳密に切り離して考えることは不可能だけれども、それでも便宜上分けて考えた方が賢明だと思います。



ちなみに僕も村上春樹は結構愛読していますが、村上春樹ファンの「心性」とか作品の「政治性」とかは、どうでもいいです。でもエルサレム賞の受賞に関しては、辞退等、なんらかの抗議の表明はしてほしい。村上春樹さんご本人の「政治性」がそうであってほしいということではなく、単純にイスラエルが国際的に孤立することを望んでいるという理由から。