内田義彦「資本論の世界」「社会認識の歩み」

子供が夏休みに入ったために、すっかり更新できなくなってしまっていました。(妻は仕事に出ており、僕は自宅で仕事をしているので、僕が子供の面倒も見なくちゃいけない)


さて、今回は岩波新書の青版から。
岩波新書の青版で、今も増刷が続いているものには、名著が多いと思っているのですが、先日近所のブックオフの新書コーナーを眺めていたら、同じ本が何冊もあるのに目が留まりました。

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

近所に大学があるので、おそらく講義のテキストにでも使われているのでしょう。そういえば、内田義彦先生の本は、ちゃんと読んだことがなかったなぁ...と思い、早速購入。読んでみたらこれがなかなか面白い。


資本論の世界」はNHKで放送した講演、「社会認識の歩み」は「岩波市民講座」での講義が元となっており、文章自体も講演の形をとっています。とはいっても、

本書は、録音速記に加筆したものではない。テープをききながら、こうもしゃべればよかったかなという形で、まったく新たに書き下ろした ― といえば人ぎきがいいが、書き直してはテープにとり、それを聞きながら書き直すという作業を繰り返して出来上がったものである。(「資本論の世界」あとがき より)

今年(一九七一年)の五月、私は「岩波市民講座」で「社会認識の歩み」という同名の講義をした。その時の話をもとに、何度か書きかえをくりかえして出来たのが本書である。(「社会認識の歩み」あとがき より)

というように、単なる講演本とは違って、その構成、内容もよく練られたものとなっています。しかも文体自体の講演調、この独特のリズム感と、話し言葉による平易な表現は、たぶん人によって感じ方も違うんでしょうが、僕は非常に好感を持ちました。


資本論の世界」が1966年11月、「社会認識の歩み」が1971年9月に刊行されています。後から刊行された「社会認識の歩み」は「資本論の世界」の姉妹篇という位置付けで書かれており、僕が読んだ感想でも、やはりセットで読んだほうが、より楽しめると思います。


ということで、まずは「資本論の世界」のほうから。
マルクス資本論について書かれた岩波新書は、同じ青版で、僕が知っている限り、他に2冊あります。向坂逸郎資本論入門」、宇野弘蔵資本論の経済学」。そして、どちらも絶版になってしまっています。向坂先生の本は、僕も残念ながら持っていないのですが、宇野先生の「資本論の経済学」は、今も手元にあります。でも今回、内田先生の「資本論の世界」を読んで、なぜこの本だけが今も増刷を繰り返しているのか、あらためてよくわかりました。
マルクス経済学は、いまやすっかり影をひそめていて、僕が学生の頃(今から20年も前)ですら、経済学部にマル経の先生なんてほとんどおらず、教養部に何人かいる程度でした。まあ確かに資本論を経済学としてみた場合には、古典派のリカードの経済学がベースとなっており、その後の限界革命ケインズ革命をくぐりぬけてきた現代経済学と比べれば、かなりの見劣りを感じざるを得ません。でも、社会科学の古典としてみた場合には、どうでしょうか。
僕たちは、社会主義の失敗から、マルクスは間違っていた、なんていう単純な理解をしがちですが、でもマルクスの文献を読むと、そんな単純な話ではないように思えます。むしろ、その後の社会科学に与えた影響というものは無視できない。哲学から経済学、歴史学社会学へと、まさに近代における総合社会科学の祖とも言えそうです。
資本論の世界」は、資本論の入門・解説書というよりは、マルクスがどのようにして社会を切り取って見せたのか、そんなマルクスの視座、目線に迫ります。当然、話は資本論だけにはとどまらず、若いころから晩年のマルクスまで、マルクス自身の社会認識が、どのように変わってきたのか。そして、その結実がどのように資本論に表れているのか。マルクスの社会を見る目が、より重層的、複眼的、立体的に広がっていく様が、内田先生の独特の語り口によって、まるで推理小説をひも解いていくかのように、読者の興味関心を常に喚起しながら解説されていきます。


「社会認識の歩み」は、マキャヴェリホッブスアダム・スミス、ルソーと、近代社会科学誕生前からマルクスに至る近代社会科学の発展における歴史上の人物に焦点を当てながら、社会を認識するということがどういうことなのかを問いかけます。この本の面白いところは、その問いかけが、読者自身に向けられるところでしょうか。読者を含め、一個人が社会認識を深めていく過程、それと歴史的に社会科学の方法論が発展してきた過程が重ね合わされるのです。読者は社会科学の歴史を追いかけながら、自らの社会認識の方法論を深めていく。内田先生の企図はそこにあります。ですから、この本を読んでもマキャヴェリホッブスアダム・スミス、ルソーそれぞれの思想についての理解は深まりません。あくまでも、これらの歴史上の人物は、ある一面、内田先生の語りたい部分だけが取り上げられ、内田先生の語る社会認識の方法の素材として扱われます。


この2冊、扱われている歴史上の人物の年代順でみれば、「社会認識の歩み」→「資本論の世界」と読むのがよさそうなのですが、僕が読んだ感想としては、やはり刊行順、「資本論の世界」→「社会認識の歩み」と読むほうが面白いと思います。なぜなら「社会認識の歩み」が、「資本論の世界」をかなり意識しながら書かれているのです。「社会認識の歩み」の後半で、どこが「資本論の世界」に結びつくのか、言及されている部分もあります。とにもかくにも、是非セットで読んでいただきたい。



僕は最近、経済学なるものをちょっとかじったりしているんだけれど、なんていうんだろう、純粋な理論はいいんだけれども、実際の社会を説明する上で「歴史」とか「社会構造(法・制度・社会意識・文化等々)」とかをすっ飛ばして結論を出したがるような、そんな傾向をかなり感じるんです。逆に社会学では、それこそ経済をほとんど無視して(つまり雇用の問題をほとんど無視して)、若者論が語られたり...
そんなわけで、この本を読むと、「社会を認識する」ということはどういうことなのか?ということを、あらためて考えさせてくれます。
硬派な内容が、内田先生独特の、ある意味艶っぽい、生きた言葉で語られており、そのことで、より重層的、立体的な広がりをつくっているように思えます。なんというか、とても文化的な奥行きのある「教養」が感じられるというか...


ところで内田義彦先生は、今年没後20年になるのですね。没20年の今年、こんな本も出版されているようです。

学問と芸術

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