『「空気」と「世間」』鴻上尚史

昨年の夏に出ていて、読んだのも昨年の秋。なんだか忙しくて、感想を書きたくてもなかなか書けないでいた本です。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

鴻上尚史さんといえば...
たぶん世代によっても、違ってくるんだろうけれど、僕はやはり80年代の小劇場ブームを引っ張っていた劇団「第三舞台」の主宰者であり、劇作家、演出家、という印象。「第三舞台」の公演は何度も見ました。また、僕くらいの世代では、オールナイトニッポンのパーソナリティで知った人も多いのではないでしょうか?さらにはエッセイストとしても活躍していて、週刊SPA!の「ドンキホーテのピアス」はもう10数年も連載が続いています。最近テレビではNHKでよくお見かけするんですが、タモリ倶楽部でもちょくちょく。まあマルチな文化人?というか、いろいろな顔を見せてくれています。


さて、そんな鴻上さんが、なぜか新書で、しかも堅苦しい『「空気」と「世間」』なるタイトルの本を出されました。もうちょっとうまい(というか売れそうな)タイトルにしてもよかったんじゃないか?と思ってしまうんですが、中身を読めばこれがとっても真面目なお話。大学の先生でもヒドイ釣りタイトルで中身のない新書を平気で量産するような時代にあって、まあ硬派というか、きちっとした本だぞ!という思いを伝えたかったんでしょう。でも、本屋でほとんど見かけないんだよなあ。タイトルにもうひと工夫!と思ってしまいます。


実は、鴻上尚史さんが、この「空気」なり「世間」なりに、違和感・関心を持っている、そういう感覚の人だということを、僕はよく知っていて、鴻上さんがこんな本を出してきたことにも、やはりそうきたか!と思ってしまいました。というのも十数年前、この日本の社会に対する違和感というものを僕なりに漠然と感じていた(けれどなかなか言語化できずにいた)頃に、第三舞台の「スナフキンの手紙」という芝居を見て、「あああ...そういえばそうだった...」と思ったシーンがあったんです。それは、帰国子女である女性が日本の学校教育(それも集団教育)の中で、思いっきり違和感を感じるシーン(子供の頃の回想?というか夢の中のシーンだったと思う)。その瞬間、そういえば僕も帰国子女だった、ということを思い出して、自分が感じる日本社会との違和感と、自分が帰国子女であるということが、あらためてつながったんです。そうだよな...と。それまでもなんとなく思ってはいたんですけどね。その後も、鴻上さんのエッセイなんかで、それこそ電車の中の女子高生の話だとか、ロンドン留学での話だとか、まあなんというか共感するお話をいろいろ読みまして、僕自身もずいぶん触発されました(帰国子女の話とか、電車の中の女子高生の話とか、みんなこの新書の中で出てきます。)。なので、僕が関心を持っていた阿部謹也先生の「世間」論、鴻上さんも関心を持って読んでいたことは、実にしっくりきます。で、鴻上さんなりの現代日本の解釈の仕方、「空気」や「世間」のとらえ方、なるもの、やはり読まずにはおれんぞ、と思い、で読んでみて、ああ、これはまた堅苦しい話を、うまく鴻上節でまとめあげたなぁ、比喩やエピソードがうまいなぁ、僕ももっと若かったら、この本読んでなんかちょっと励まされちゃったかなぁ?なんて思っちゃいました。


鴻上さんは、「空気」と「世間」なるものを説明する際に、テレビのバラエティ番組というものを持ち出します。それも、大物司会者がいてひな壇芸人がいる、トークバラエティのイメージです。大物司会者は、明石家さんま島田紳介でしょうか?トークのマナー、方向性が明確で、掌の上で他のタレントさんのトークを転がすようなタイプ。そしてひな壇には、それこそ吉本の芸人さんがいて、先輩と後輩の序列が非常に明確になっている(芸能界って、おそろしいほどの縦ノリなんですよねえ。その代表が吉本でありジャニーズ。)。そこで若手の芸人さんが、うっかり大物司会者が期待してないようなボケやリアクションをしてしまったとき、必ず先輩芸人がつっこみます。
「おまえ、空気読めや!」と。
このような番組では、「空気」は大物司会者が決めています。ですから「おまえ、空気読めや!」というつっこみは、じゅうぶんに成立します。
ところで、この大物司会者がもしもいなかったならば、どうなるのでしょう?あるいは、明確な番組の方向性を打ち出せない、あまり有能でない司会者だったら?そう、番組の「空気」はあやふやなものとなります。それでも、「おまえ、空気読めや!」はありなのでしょうか?

 居酒屋で、大学生のグループと遭遇したことがあります。4月でしたから、クラスの親睦の飲み会だったのでしょう。
 順番に自己紹介をしている時、一人がわりとくだらないダジャレを飛ばしました。冷めた笑いと沈黙の後、別の誰かがフォローの意味で、違うダジャレを言いました。沈黙はさらに深くなったようです。
 すると、また別の一人が、「お願いだから、空気読んで!」とおどけて叫びました。少し笑いが起きましたが、笑いが終わった後は、かえって場は緊張しているようでした。
 ほとんど初対面で、お互いがどんな人間かも分からず、自分がどんなことを言えば適切なのか明確でない場所で、「空気を読め」と要求することは、はっきり言って無茶だと、僕は思っています。

 『空気を読む力』(アスキー新書)という本で、放送作家田中大祐さんは、「大勢の人間が集まるトーク番組の場において、読むべき空気というのは、そもそもどのように発生するのでしょうか?/空気をつくるのは、出演者の『立ち位置』と『キャラクター』です」と書いています。
 放送作家ならではの、実践的なアドバイスだと思います。キャラクターだけでは不十分で、さらに立ち位置も考えることが必要だというわけです。
 けれど、それは、司会者(業界用語ではMC)が明快な場合に有効なアドバイスだろうと僕は思います。
 司会者が大物でなくても、中堅でも、とりあえずちゃんと仕切れる人、またはアナウンサーのように異業種の人で司会の立場を通せる人がいる場合のことです。
 けれど、現実の生活には、そんな明快な司会者がいないことが多いのです。
 それでもみんな、「空気」を読もうとします。
 大切なことは、有能な司会者がいない場合にできた「空気」に、過剰におびえる必要はない、ということなのです。
 これが、まず最初にはっきりさせたい「空気」の特徴です。

鴻上さんは、「世間」というものを大物司会者のいるバラエティ番組のようなものとします。「空気」が明確で、みんなの立場もはっきりしている。それこそが「世間」だと。一方、大物司会者がいなかったり、出演者の立ち位置も不明確な番組が、まあ仮にもしあったとしたら、それは「世間」が壊れていて「空気」だけが残った状態です。
そして、現代の日常では、この「世間」が壊れ始めていて、あやふやな「空気」だけが広がり始めている、と。


このように、まさに鴻上節というのでしょうか、この後もうまいエピソードや比喩によって、僕らの実感に沿った形で「世間」や「空気」の正体が紐解かれていきます。当然、この本では、阿部謹也先生の「世間」や山本七平さんの「空気」に関する話も、簡単にわかりやすくまとめられて紹介されています。そういった意味では、「世間」や「空気」に関する言説のちょっとした入門書のような趣もあります。
ただ、最大の力点は、「空気」というものに縛られ、抑圧される、と感じ始めた私たちに、ちょっとした「心の持ち方、構え方」なるものをアドバイスする、というところです。なので、より「世間」や「空気」を客体化し解体して、その意味を考える、というような内容を期待している人には、ちょっと物足りないです。でも、問題意識が刺激されるようなネタは満載ですので、いまさら「世間」や「空気」かよ、と言う人でも読んでみる価値はあると思います。


とにかく、もっと話題になってもいいのになぁ...と思える内容の本です。
こういった方面でも、鴻上さんには、これからもぜひぜひ頑張ってほしいものです。





ところで、話は変わるんですが、僕はこのブログでも何度か「世間」や「空気」に関して言及したことがあります。特に「世間」については、もうずいぶん前から僕の関心の中心にあります。さらには、会社員生活を送って、それこそ日本的経営、日本人の職場意識なるものを見てきたので、日本の職場こそが、「世間」であって、しかも近年問題になっている「年功序列」だの「新卒一括採用」だのといった問題も、この「世間」を考えずには、なにも本質は見えてこないようにも思えています。
ただ、なんていうんでしょうか?阿部謹也先生の「世間論」の本を何冊か読んでみても、で、どうすればいいの?日本の世間は、これからも変わらないの?というところから思考が抜け出せないというか、まあどこにも行けないなあ、という感覚があるんです。阿部謹也先生自身が西洋史専門で、それも風俗から宗教、呪術なんかが中心で、結局ヨーロッパにおいて「個人」なるものが誕生したのも、キリスト教の影響が圧倒的だということになっています。でも、キリスト教があったから「個人」というものが生まれ、「世間」が「社会」に変わったというのなら、日本においてもキリスト教のような信仰が必要なのか?ってことにもなってしまうんです。
というわけで、僕は阿部先生の「世間論」から、一度離れてみよう、と思っています。近いうちに、なんらかの話を、ここでできたらと考えています。


ではでは。