「古典派の二分法」と「貨幣中立説」

ちょっと、マクロ経済学ネタで、ものすごーく基本的なお話を。


デフレは困るとか、日銀の量的緩和だとか、インフレターゲットだとか、貨幣供給を増やすだとか、まあなんといいますか、マクロ経済学の、それも金融政策にまつわるお話が、あちらこちらから聞こえてきます。このブログも、まさにそんなネタを扱ったりもしています。ただいろいろなブログ記事や、コメント、はてブなんかのコメントもそうなんですが、経済学の基礎知識をあまりよくわかっていないで、リフレだ、いや生産性アップだ、国際競争力だ、なんていうような話をしている人も多々おられるようです。
そこで、今回は「古典派の二分法」と「貨幣中立説」についてです。まさに基本中の基本。これはしっかりとおさえておきたいところなので、僕自身用のメモとしても、まとめておきます。よく耳にする「長期」とか「短期」といった話も、この貨幣の中立性の問題と大きく絡みます。


ということで、僕がすっかりお世話になったマンキュー先生より。

 これまでは、貨幣供給の変化によって、財・サービスの平均的な価格水準がどのように変化するのかを学んだ。それでは、貨幣量の変化は、他の主要なマクロ経済変数、すなわち生産、雇用、実質賃金、実質利子率などにはどのような影響を及ぼすのだろうか。この問題は長年にわたって経済学者をとりこにしてきた。たとえば、18世紀の偉大な哲学者であったデービッド・ヒュームも、この問題に関して本を書いている。今日、この問題に与えられた解答も、実はヒュームの分析に負うところが大きい。
 ヒュームと同時代の学者たちは、すべての経済変数を二つのグループに分けるべきだと考えた。第1のグループは名目変数(貨幣単位で測られた変数)であり、第2のグループは実質変数(物質的な単位で測られた変数)である。たとえば、トウモロコシ農家の所得は、金額で測られているので名目変数である。他方、彼らの生産するトウモロコシの量はブッシェル(重量)単位で測られているので実質変数である。同様に、名目GDPは経済の財・サービスの生産を金額で測っているので名目変数である。実質GDPは財・サービスの総生産量を測定し、財・サービスの現在の価格に影響されないので、実質変数である。このように、経済における諸変数を二つのグループに分類することを古典派の二分法と呼ぶ(二分法とは二つのグループに分けることであり、古典派とは初期の経済学者たちを指す)。
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 なぜ、わざわざ諸変数を二つのグループに分類しなければならないのか。ヒュームは、古典派の二分法が経済分析に役立つことを示唆した。ヒュームは、実質変数と名目変数では、影響を受ける要因が異なると考えた。名目変数は経済の貨幣システムにおける出来事に強く影響されるが、実質変数は貨幣システムにはほとんど影響を受けないと主張したのである。
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 ヒュームの考え方では、貨幣供給の変化は名目変数には影響するが、実質変数には影響を与えない。中央銀行が貨幣供給を2倍にすると、物価水準が2倍となり、他のすべての金額も2倍になる。しかし、生産、雇用、実質賃金、実質利子率といった実質変数は変化しない。このように、貨幣量の変化が実質変数と無関係であることを、貨幣の中立性と呼ぶ。
(マンキュー入門経済学 第11章 補論2 古典派の二分法と貨幣の中立性)より

古典派の二分法とは、名目変数と実質変数を分けて考えましょう、ということ。そして、長期的には名目変数を無視して、実質変数だけで経済を説明できる。つまり、貨幣というものは、いわば「ヴェール」のようなもので(貨幣ヴェール観)、雇用や生産高などの実質的な経済活動の水準には影響をもたらさない、というのが貨幣中立説です。


さて、この貨幣が中立的であるという考え方、長期においては近似的に正しい、とされており、このことは現代の経済学の世界においても、異論を唱える人はほとんどいないようなんですが、問題は短期的にはどうなのか?という点です。

 貨幣の中立性という概念の意味を理解するために、つぎのようなアナロジーを考えてみよう。貨幣は計算単位であり、経済的取引を測る尺度であることを思い出そう。中央銀行が貨幣供給を2倍にすると、すべての価格が2倍になり、計算単位の価値は半分に低下する。同じことは、政府が1ヤードを36インチから18インチに変更したときにも生じる。新しい尺度の下で、すべての測定された距離(名目変数)は2倍になるが、現実の距離(実質変数)は変化しない。ドル(円)は、ヤードと同じで測定単位でしかない。したがって、その価値が変化しても、実物面には重要な影響を与えないのである。
 貨幣の中立性の結論は、われわれの住んでいる世界をどの程度現実的に描写しているだろうか。その答えは、完ぺきな描写ではない、ということになる。1ヤードが36インチから18インチに変更されても、長期的には大した問題にはならないだろう。しかし、短期的に混乱やさまざまな失敗が生じるのは確実である。同様に、今日の多くの経済学者は、(約1〜2年の)短期においては、貨幣量の変化は実質変数に重要な変化をもたらすと考えるに足る理由があると信じている。またヒューム自身も、貨幣の中立性が短期にあてはまるということについては、疑いを抱いていた(短期における非中立性は次章で扱う。非中立性を学ぶことは、中央銀行が貨幣供給を変化させる理由を理解するのに役立つ)。
(マンキュー入門経済学 第11章 補論2 古典派の二分法と貨幣の中立性)より

実にわかりやすい例えです。尺度というものが変わると、短期的には混乱やさまざまな失敗が生じるということですね。例えば、貨幣の価値が変わると、モノの値段や賃金などもそれに応じてすぐに変わるのか?といえば、そんな簡単な話ではないですよね。


ということで、基本知識は以上です。ここから先は、ちょっとたわごと、というか思ったことをつらつらと...


この「貨幣の中立性」、「長期」では近似的に成立するけれど「短期」では成立しないということ。ところで、この「長期」とか「短期」という話は、マクロ経済学ではよく出てくる話です。「長期」においては、経済の水準は「供給」側によって決まるが、短期においては「需要」の不足(あるいは過熱)がある。となると、「長期」にはなくて、「短期」だとあるもの、それが貨幣の非中立性であり、需要の過不足でもあるわけです。
ではでは、貨幣の中立性が成立しないことと、需要が不足したりすることには、何か関係があるのでしょうかねえ...。というのも、なぜ需要不足が起きるのか?を、多くの経済学者は価格の硬直性(あるいは粘着性)を問題にしたりしていますよね。でも、なぜ貨幣が短期的には中立的でなくなるか?といえば、価格の硬直性もそうなんですが、それ以上に「貨幣による錯覚」というものが大きいように思えるんですよ。実際、金融政策が効果があるのは、貨幣の錯覚によるところが大きいはずです。だとしたら、需要不足を深刻化させる原因の一つに、「貨幣による錯覚」があるとは考えられないんでしょうかね?というか、僕はもともと、需要不足は経済主体の非合理性によって起きるように思っていて、「貨幣による錯覚」もそんな非合理性の一つのような気がするんですよね。


僕らは、価値を貨幣で測っているわけですが、その貨幣自体の尺度がどう変わっているかなんて、それほど気にしていません。例えば、所得が名目で増えていれば、軽いインフレで実質所得はそれほど増えてなくても太っ腹になれるような気がしますし、逆に所得が名目で全然増えなければ、デフレで実質所得が増えていても、やたらケチケチ節約しそうな気がするんですよね、今の日本みていると。となると、賃金の下方硬直性よりも、名目で所得が増えない、ということのほうが問題として大きいようにも思えてきます。


それと、「短期」の問題といっても、それを具体的に1〜2年という短い期間で考えるのもどうかな?とも思うんです。まあ日本では、利子率による調整が効かなくなっていて「短期」の問題が長期化しちゃっているわけだけれども、アメリカの好景気が10年以上も続いて、しかも低インフレ・低失業率であったのも、これまたいい意味で「短期」の問題が、長期間続いていたという話もあります(以前ここで触れました)。なにが言いたいかというと、単純に長期的に続いていることだから「長期」つまり供給側の問題だ、なんていう話はおかしいんですよね。期間の長さで判断するんではなくて、やはり現象を見て判断すべきだなあ...と。
ちなみに、構造改革派の人たちは、日本の20年近くにわたる長期停滞は、長期間続いているから「長期」=供給側の問題だ!って言っています。
そうそう、リアルビジネスサイクル理論とか「新しい古典派」では、貨幣の中立性は短期においても成立するんでした。需要不足もないんだよなあ...。当然、経済主体は「合理的期待を形成する代表的個人」です。(以前ここで紹介しました)


マンキュー入門経済学

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