合理的期待形成とリアルビジネスサイクル理論

前回のエントリーで、「一般均衡理論」における時間軸の欠落の問題を取り上げました。

でも、そんなことよりもなによりも、もっとも重要なことは、経済活動というものは今現在のためだけに行われているわけではないということ。つまりは将来のための経済活動というのが存在しているということです。将来に向けた貯蓄、投資、資本蓄積などなどが、「一般均衡理論」では完全に抜け落ちているのです。
そして静学的な均衡理論の積み上げによる経済分析ではなく、経済全体の統計数値等から国全体の経済を説明し、将来への「期待」、未来の「不確実性」によって、経済活動が左右されるという考え方の「ケインズ経済学」が登場するわけです。

で、この話の続き。


一般均衡理論」のような、時間という概念の入っていない、単なる均衡状態を表したモデルを、経済学では「静学的アプローチ」と言います。時間の経過による変化を説明する場合は、需要曲線や供給曲線がシフトするというような形で説明します。でもでも、考えてみれば、経済って一つの時間の中で完結するものじゃないんですよね。
だからこそ、かの有名なケインズは「投資」と「貯蓄」というものに注目します。特に「投資」というものの不安定性に注目したんです。


経済活動においては、将来の利益を期待して生産されるものがあります。たとえばメーカーであれば生産設備(工場とか機械とか)は、減価償却されるまで何年も使われるわけです。だから、こうしたものは将来その設備を使って生産される物が売れることを期待してつくられるのです。オフィスビルや住宅なんていうものもそうですね。将来の家賃収入を期待してつくられます。こういったものをマクロ経済学では「投資」と言います。
マクロ経済学における「投資」とは?


この「投資」というものが、「需要」の一部を占めているわけですが(残りは「消費」)、この「投資」が増えたり減ったりすることで、「需要」も増えたり減ったりします。じゃあ、ケインズ以前の「新古典派」において、「投資」の問題が全く考慮されていなかったのかと言えば、そんなことはないわけで、金融市場における均衡というものが考えられていました。利子率というのが一般の市場における「価格」に相当し、「貯蓄」と「投資」が均衡することにより、完全雇用レベルでの供給量に等しい需要が創出されるというものです。
投資と利子率について


一方、ケインズは、利子率は「貯蓄」と「投資」の均衡によって決まるのではなく、「流動性プレミアム」によって決まると考えました。「流動性プレミアム」というのはきちんと説明するとややこしいのですが、要は債券とかが簡単に交換できる(現金化できる)=流動性 が、所有者にとっては価値がある(流動性選好)とするものです。簡単に交換ができるというのは、使い勝手がいいのと同時に、リスク回避にもなるので、価値がある。だからその分利子率は低くなります。一方、簡単に交換できないと、使い勝手が悪くなり、リスクも大きくなる。だから流動性が低いと、その対価として利子率は高くなる。そして、ここでのポイントは「リスク」です。将来のリスクを人々がどう考えるのかによって、利子率というものは変わってくるということですね。そして「投資」というのは、この利子率に大きく左右されます。
さらにケインズは、「投資」は利子率とともに、予想利潤率によって決まると考えました。ふつう企業が「投資」をする際には、将来の収益予想、資金調達での利子率、将来の不確実性(リスク)などなどを考えて、慎重に検討されます。
なんとなくわかってきたとは思いますが、ケインズは将来に対する「期待」、将来の「不確実性」というものが「投資」を大きく左右すると考えたのです。そして、「投資」が少なくなれば、需要が減って、失業が増える。だから、この「投資」というものを安定させるために、金融政策や公共投資を用いる必要があると考えたわけです。


現在のマクロ経済学の主流派の考え方では、長期においては「新古典派」的な均衡が働くが、短期的にはケインズが考えたように「投資」の不足=「需要」の不足により、経済全体の生産量が完全雇用レベルよりも低くなってしまう=失業が増える、ということが起こりうるとしています。マンキューの教科書でも、最初に長期均衡の説明がなされ、その後「短期分析」という形で、IS/LMやフィリップス曲線などが解説されています。
ところが、同じ主流派の中でも一部の経済学者は、短期においても「需要」の不足はあり得ない、常に経済のレベルは「供給」によって決まる、という考え方をしているんです。そして、そんな一部の経済学者の考え方の基本にあるのが「合理的期待を形成する代表的個人」というものです。


新古典派一般均衡論は、合理的な選択を行う個人というものを暗黙の前提としていました。一方ケインズは、たとえ合理的な個人であっても、不確実性を有した将来に対しては、合理的な行動はあり得ないという観点から、新古典派の均衡論の問題点を指摘しました。ところがところが、将来に対しても合理的で正確な予測をするという、まあ常識的に考えたらありえんだろう!!!といいたくなるような、ウルトラスーパーな人間を仮定することで、新古典派の均衡論に時間軸を加えたのが、合理的期待仮説です。こんな非現実的な仮定に基づいた経済モデル、僕ら経済学の外にいる人間から見れば、一笑に付されて葬り去られてもおかしくなさそうに思えますが、とんでもない。1970年代から80年代にかけて、アメリカの経済学において一大ブームを起こします。さらには、この合理的期待形成学派の中心人物であったロバート・ルーカスは、ノーベル経済学賞も受賞しています。
ではなぜ「合理的期待を形成する代表的個人」なるものを前提にした経済学が、一定の支持を受けて発展していったのでしょうか?


そもそも、「期待」とか「不確実性」のような合理性に欠けるものを経済モデルに組み込むのは無理があります。仮にモデルに組み込めたとしても、抽象的なあいまいさを多分に含んだモデルにしかならないでしょう。ケインズ経済学においても、この問題は重くのしかかってきます。
わかりやすい話として、ケインズ的な金融政策を考えてみましょう。経済全体の「需要」が完全雇用レベルに達していない。つまり「需要」の不足により、失業が生まれていると考えた場合、金融政策は金利を下げて貨幣供給量を増やす方向で対処します。これは金利が下がることで「投資」が増えるからです。ところが1960年代後半、ミルトン・フリードマンが貨幣中立説という考え方を復活させます。貨幣供給量の増減は長期的には物価にのみ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないという考え方です。フリードマンの「自然失業率仮説」も、この考え方によるものです。じゃあ短期的に影響が出るのはどうしてか?それは、貨幣供給量が増えたことによる錯覚に依存していると考えられるわけです。実質価値は増えないのに、名目では増えていることによる錯覚ですね。
ところが、金融政策というのは常にオープンにされています。ちょっと合理的に考える人ならば、中央銀行の金融政策をみて、インフレを予想しても不思議ではありません。そうなると「錯覚」の効果は薄くなります。つまりケインズ的な金融政策の効果を測るモデルでは、中央銀行が何をやっているか全く知らない、おバカで将来の予測をきちんと立てられない経済人というのが前提となっており、これまた現実との整合性に欠けるのではないか?という批判につながります。
こうなると、もうお手上げ!なんて言っていたら、これまた経済学の進歩はないわけで、いっそのこと「合理的期待を形成する代表的個人」という、ある意味フィクションをうち立ててみてもいいのではないか?と考える人が出てきても不思議無いわけです。現実とはちょっとずれるけれども、まあ極端というか理論の純粋化というか、そういうモデルを考えることで、逆に一見不合理に見える現実の複雑な世界の本質が見えてくるかもしれない、ということなのかもしれません。さらに、最大のポイントは、この考え方により、時間軸を取り入れた、動学的な均衡分析の可能性が開けたからなんです。つまり「期待」というものを数学的に扱える。


さてさて、このようにして生まれた「合理的期待を形成する代表的個人」を前提とした動学的な均衡モデル。でも、気になるのが「景気循環」というもの。アメリカの経済においても短期的な景気の循環、つまり景気が良くて経済が拡大する時期と、景気が悪くて経済が停滞する時期とが交互にやってくる、そういう現象は明らかに観測されています。現代のマクロ経済学の主流では、この景気循環を短期的な需要の不足や過剰に求めています。ところが「合理的期待」を前提にすれば、需要の不足や過剰といった不均衡は生まれないということになってしまいます。では「合理的期待」を前提にした動学モデルでは、どのようにして現実の経済変動を説明するのでしょうか?
そこで、登場するのが「リアルビジネスサイクル理論」という考え方です。
リアルビジネスサイクル理論 - Wikipedia

この理論の主張点は、マネーサプライや物価水準などの名目変数の変動が景気循環を引き起こすのではなく、生産技術や財政政策などの実質変数(実物的要因)のみが景気循環の要因となるというものである。
リアルビジネスサイクル理論モデルの前提となる仮定は、合理的期待を形成する代表的個人の存在である。このモデルは1人の「異時点間を最適化する」個人を用いて表現されており、この個人の行動は構成員全員、さらには経済全体を代表しているように見ることができる。(これが代表的個人モデルの大きな特徴である。)
もう一つ暗黙のうちに仮定されているのが、貨幣の中立性である。(これは合理的期待から導かれている。) ルーカスは、生産性ショックがあるという条件下でモデル内部で景気循環が現れることを示している。これは次のように説明できる。個人の生産性が低下したとすると、実質所得もまた低下する。(これはロビンソン・クルーソーの文脈で解釈でき、代表的個人がすべての生産を担っており、完全に競争的な労働市場では個人は限界性産物に等しい賃金が支払われている。)
異時点間の最適化行動の下で、生産性ショックは消えて実質所得が再び上昇することが合理的に期待できる場合には、代表的個人は最適化行動の結果として次の期まで働くことを留保する(代わりに余暇を消費する)。集計の結果として、負の生産性ショックは自発的失業と経済活動の低下つまりGDPの低下をもたらすことになる。

やっぱりわかりづらいですね。わかりやすく説明すれば、経済における生産性ショックを、景気循環の根拠にしているんです。たとえば技術の進歩などによる生産性の向上は常に一定のペースで進行しているわけではない。技術革新によって一挙に生産性が向上する瞬間もあれば、たいして進歩しない時期もある。逆に異常気象や天災などによる農作物の収穫減や、貿易相手国でのクーデターによる政情不安などなど、外部的な要因で生産性が悪化するショックもある。そうなるとですね。「合理的期待を形成する代表的個人」というスーパーマンは、今は余暇を減らしてでもたくさん働いた方がいい。今は働くよりも余暇を楽しんだ方がいい。などと異時点間で効用を比較して最適な選択をする、ということなんですね。そして、その合理的な異時点間の選択の結果として、景気循環があるということだそうです。だから景気循環市場経済の効率的な働きに完全に合致したものであって、下手な経済政策など打ってはならぬということにもなります。ついでに失業も、非自発的なものではなく、異時点間での最適化による自発的なものということになってしまいます。


ちなみに、現代のマクロ経済学の最先端も、やはり動学的均衡モデルになります。ただしリアルビジネスサイクル理論のような完全均衡モデルではなく、価格の硬直性や協調の失敗など、様々な要素を取り入れたモデルの開発・分析が進められています。このあたりは、より上級の教科書を読まないと紹介されていないので、僕も理解不足なのですが、「合理的期待」などという非現実的な前提をスタートとしながらも、その進化の過程で、より現実的な条件を組み入れた動学均衡モデルが生み出され、今なお発展途上ということなのでしょう。
ただし、今回の世界的な経済危機によって、その妥当性は大きく揺らいでいそうですけれども...




まあしかし、なんでこんな話を延々と続けてきたのか、というとそれは、最終的には日本における「構造改革派」を考えるためなんです。彼らは、日本経済の長期的な停滞について、決して需要不足なんかではない!と言いきっています。デフレが起きようが、失業者がどんどん増えようが、です。そしてその根拠が、アメリカの最先端の経済学の動学均衡モデルなわけです。しかも、決して需要不足が起きないリアルビジネスサイクル理論のモデルです。


というわけで、近いうちに日本の「構造改革派」についての話をまとめたいとは思っています。でも疲れてきたのと、もう少しネタを仕入れたいことから、ちょっと先になりそうです。しばらく経済学ネタから離れるかもしれません。


最後に、「合理的期待形成」とか「リアルビジネスサイクル理論」は、「新しい古典派」とも言われます。ということで「新しい古典派」について、マンキューマクロ経済学より

【コラム】新しい古典派経済学とは何か
 リアル・ビジネス・サイクル理論は、短期の経済変動を研究するにあたって、古典派モデルの仮定、とくに伸縮価格と貨幣の中立性を用いるので、新しい古典派経済学(new classical economics)と呼ばれる。しかし、リアル・ビジネス・サイクル理論は「新しい古典派」と呼ばれるマクロ経済学の唯一のものではない。ほとんどの経済学者はこの用語を、1960年代に広がったケインジアンの正当性への多くの挑戦を記すために広く用いている。
 この広義の定義によると、これまでの章で議論してきたいくつかの考え方、すなわち、合理的期待(第1巻第11章)、ルーカス批判(第2巻第3章)、時間非整合性(第2巻第3章)、政府負債に関するリカード派の見解(第2巻第4章)に「新しい古典派」のラベルを貼ることができる。経済学者のなかには、短期的に価格が十分に伸縮的なモデルに「新しい古典派」のラベルを貼る人たちもいる。この定義によると、古典派の二分法に反するが、総供給における労働者錯誤モデルと不完全情報モデル(第1巻第11章)も新しい古典派となる。
 リアル・ビジネス・サイクル理論は「新しい古典派」と広くいわれているが、ある意味でそれは誤った呼び方である。なぜならば、古典派の経済学者は、貨幣が短期的に中立的であるとは決して示唆しなかったからである。たとえば、デビッド・ヒュームは1752年の論文「貨幣論」のなかで、貨幣は長期においてのみ中立的であると強調した。
「私の意見では、金や銀の量の増加が産業に好ましいのは、貨幣を入手してから価格が上昇するまでの間あるいはその中間的な状況である。・・・農家や園芸家は、自分の商品がよく売れだすのをみて、即座に生産を増やそうとする。・・・全国を流通する過程で貨幣が増加するのを見ることはたやすい。そこでは、労働の価格が上がる前に、まずすべての個人が勤勉さを高めなければならないことが見出されるだろう。」
貨幣が短期において中立的であるという仮定を示唆するということは、リアル・ビジネス・サイクル理論は古典派経済学者が自ら行った以上に、古典派の仮定を推し進めているのである。