「リフレ」VS「潜在成長UP」を考えるその前に

もうずいぶんと更新していませんでした。
ある程度まとめたことを、ここでは書きたいと思っていたのですが、その一方で忙しくてなかなかまとまった内容を書く余裕がない。書こうと思っていることはたくさんあるのですが...
ということで、今回はとりあえず気楽に思ったことをちょちょちょいと。



勝間和代さんのおかげで、久しぶりにリフレ論争が再燃しているようですね。ということで、この問題についてちょっと一言。
量的緩和インフレターゲットが効果があるかどうかという議論以前に
日本の成長率の鈍化や雇用の不安定化、デフレの原因は、完全雇用レベルの生産量(潜在GDP)に対して、総需要が不足している(需給ギャップが存在する)ためであり、しかも総需要を潜在GDPにまで高める調整機能として働く「利子率」が名目でほとんど0にまで下がっているのに、それでも総需要が不足している
ということが問題であるという認識のコンセンサスってとれないんですかね?


これだけものが売れないと言われている時代、コンビニも増えすぎてロードサイドのショッピングセンターも増えすぎて、都会では自動車はいらないという若者も増えて、PCもデジカメも成熟産業となり、みんなユニクロで服買って、マックで昼飯を食い、すこしでも所得に余裕が生まれればできるだけ貯蓄に回す。しかも大手企業は大量の内部留保をせっせと貯め込んで...
これでも「需要不足ではなくて、潜在GDPの低下だ」「潜在成長率を高めなくてはいけない」と言っている人(こことかここ)の頭の中は、いったいどうなっているんだろう?僕が暮らしている日本とは違う「日本」の中で生きているんでしょうか?
まっとうな感覚の持ち主なら、「問題は需要不足である」ということは素直に理解できそうなんですけどねえ。


そして「問題は需要不足である」というコンセンサスが得られれば、どうすれば需要が増えるのか?という議論につながって、リフレ策含めてもう少し建設的な議論ができるはずです。需要を増やすには財政政策や金融政策のようなマクロ政策が王道ですが、個人的にはミクロ(長期)政策においても需要喚起を期待できそうな政策ってあると思うんですよね。投資を喚起させるための金融市場における様々なルールの見直し(もうさんざんやった?)とか、それこそ所得政策によって名目賃金を引き上げるとか、さらには貯蓄性向に影響がありそうな社会福祉政策や税制等々(すんません、素人なので言いたい放題です。)。逆に、求人・求職のマッチング支援とか、農業・林業・介護での雇用創出とかって、需要が増えない限り根本的な解決にはならないということもわかります。
ミクロ政策って「規制緩和」「競争・淘汰・流動性の促進」がすべてじゃないはずです。いつの間にかそういうことになっているような気がするけど。(ちなみに日本人の貯蓄性向の高さは、市場原理や金利によって低くなるとは思えません)
あっ、でも当然マクロ政策は重要です。ただインタゲがどこまで効くのか?ちょっと疑問もあるので、いろいろ試して合わせ技でとにかく需要を喚起できればと...

「大衆教育社会のゆくえ」苅谷剛彦

以前こちらで書いたように、苅谷先生の「教育と平等」を読んだら、こりゃ「大衆教育社会のゆくえ」も読まないかんな、と思った次第でして...


読んでみて...
いやはや、すんません。これを読まずに「教育と平等」について感想を書いてしまって...もう、参りました。



苅谷先生は、日本の教育における「平等」観の特殊性に注目します。
アメリカやイギリスでは、人種や階級による学力の違いが顕在化しており、家庭環境や経済的な理由による学力格差が問題視されています。一方日本では、戦後間もないころは同じような問題が顕在化していたけれども、日本の経済復興、一億総中流と言われる時代の中で、そのような問題は、あたかも解消されたかのように問題視されなくなってしまいます。しかし、本当に問題は解消したのか?むしろ問題は隠されているのでは?その点を、各種統計データを駆使しながら、解き明かしていきます。
そして得られた結論は、親の学歴や職種等と、子供の学力や進学率には、明らかな相関があり、しかもそれは経済的な問題(かけられる教育費)よりも、家庭環境(親との会話の内容や、親から引き継ぐ文化的な側面などなど)や、子どもの本来生まれ持った資質等に大きく依存しており、不平等の再生産は今も続いているということです。
では、不平等が再生産され続けていることが隠されている中で、教育に対する人々の意識、目線はどのようになってきたのか?
教育を受ける前の段階でそもそも不平等があることは意識されず、教育の場における「平等」を求める意識が際立ちます。例えば、外国では階級や人種等による学力差を解消するために、能力別の対応等が実践されています。そして、その選別教育自体については賛否両論があるものの、それを「差別的」といった批判は見られないといいます。一方、日本では「平等」の名のもとに、教育の標準化、画一化が進行し、能力別の教育はタブー視されています。
また、教育の機会均等、教育の場における平等主義のもと、教育を受ける前段階での不平等が意識されないことによって、「努力すれば報われる」という価値観が広く大衆に共有され、教育への積極的参加、つまりは厳しい受験戦争へ。そして結果ではなく「機会」の平等を前提とした序列化が大衆レベルで広がっています。


僕はこの本を読みながら、僕が受けてきた「教育」ではなく、僕が勤めていた「会社」を思い浮かべていました。
僕が以前勤めていた会社ですが、勤め始めた頃は、古き良き日本的経営、日本的雇用が残っており(ついでに言うと、勤めていく中でその日本的な会社文化が壊されていく過程を目撃することもできたのですが)、その時に感じたのが、ものすごい横並び意識や平等主義と、その上での序列化というのでしょうか。僕から見れば滑稽なものも多々ありました。
例えば、会社の椅子。たしか部長以上(だったかな?)は肘掛付の椅子になっていたんだけれど、20〜30人くらいの事業所だったので、部長が増えてきたら、肘掛付の椅子が足りなくなっちゃんたんですよね。で会社の業績も芳しくなく、経費削減が叫ばれていたわけです。だから新たに肘掛付の椅子を買うわけにもいかない。そうなると、肘掛なしの椅子を使う部長さんを誰にするのか?ということになって、総務部長さんがずいぶんと気を使っていたことを思いだします。僕からすれば椅子なんてどうでもいいじゃないか、と思っちゃうんですけどね。他にも、PCだとか机の大きさについても、この序列と平等が貫かれる。同じ事業所内に営業職の人も企画系の人も事務系の人もみんないたんですけれど、その職務内容にかかわらず、PCも同じ、机の大きさも同じ。そのかわり、役職によって変える。PCなんて、部長さん以上はモニタが高解像度のものになっていたんだけれども、老眼の局長さんなんて、逆に見づらいって怒っていました。とにもかくにも、社員の意識の中でも、序列と平等というのは非常に大きな意味を持っているんです。そして同期との差異にはものすごくうるさく、自分が同期の中でどの位置にいるのかがとにかく気になる。この横並びの上での競争意識こそが、日本人を社畜へと走らせている大きな原動力となっているようなんです。ところが、例えば系列の親会社から出向してきた社員は、プロパーの社員よりもはるかに高給だったりするんですけど、そういった不平等については、あまりうるさくない。同期とのわずかな給与の差にはとても敏感なのに。


苅谷先生のこの本を読んでいると、日本の教育の問題を説明しているというよりも、よりリアルに日本の企業社会を描いて見せているという印象です。そもそも、僕はサラリーマンの家庭に育ったわけではなく、「いい大学出て、いい会社に入る」という感覚からは縁遠かったので、会社勤めをして初めてサラリーマン的な意識、感覚に触れることができたからでしょうか。とにもかくにも、あの会社員時代に感じた違和感を、ものすごくリアルに説明してくれる本のように思えます。


さて、それでは、この実に日本的な、横並び・平等主義+序列・業績主義というようなもの(苅谷先生は「メリトクラシーの大衆化状況」と言っています)は、教育の現場から生まれて、それが企業社会へと影響を与えていったのでしょうか?この本では、「教育」→「社会」への影響については考察されているんですが、逆に「社会」→「教育」、さらに言うと「企業社会」→「教育」への影響については言及されていません。でも、僕はこの問題を「教育」という側面から見るのはやはり片手落ちのような気がします。なんとなくの僕の印象では、日本の「教育社会」と「企業社会」というのは、二人三脚のように歩調をそろえて、「メリトクラシーの大衆化状況」へと突き進んできたのではないかというものです。
なにが言いたいのか?
それは、日本的な、「出る杭は打たれる」「空気を読む」的な「世間」の内側(学校内、会社内)では、あまり出来の良くない者が、早々にくさったり、あきらめてしまわないように、できるだけ多くの者たちが、前向きな向上心を持ち続けられるように、横並び・平等主義とそのなかでの競争が徹底される(それゆえの年功制なのでしょう)。その一方で学校単位での序列化(=偏差値による学校の分類)、企業単位での序列化(大企業>>中小企業、親会社>>子会社)などなど、業績主義による差別化が「世間」の外側で際立つ。機会の徹底的な平等と、不平等の再生産の隠匿により、「努力すれば報われる」という幻想が創出される。
誰が企図したということではなく、多くの日本人が、教育においても、労働の現場においても、この構造の中に引き込まれてきたんでしょう。
おそらく、この構造は、戦争直後の時代には様々なパターン、バリエーションのうちの一つでしかなかったのではないでしょうか。いやいや、そもそも「構造」ですらなかったのでしょう。そして多く日本人が、無意識のうちに選択してきたものの組合せが、構造化されてきた。そんな気がしてなりません。



苅谷先生は「教育と平等」のあとがきで、「いずれもう一冊、「大衆教育社会」論を書いて三部作にしたいと企図しているが、」と書かれています。「大衆教育社会のゆくえ」「教育と平等」の2冊で書かれた「大衆教育社会」論を、どのように発展させ、まとめ上げるのか、正直今から楽しみです。(まだまだ当分先なのだろうなあ...)


教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

「国際金融入門 新版」岩田規久男

国際金融入門 (岩波新書)

国際金融入門 (岩波新書)

今回も、またまた岩波新書。リフレ派の大御所、岩田規久男先生の国際金融に関する入門書です。
岩田先生は、この8月に「日本銀行は信用できるか」という挑発的なタイトルで講談社現代新書から本を出されているので、そちらも気になってはいるのですが、やはり金融や経済の基本は大切だということで、こちらを先に読了。


さて、この本ですが、旧版が出版されたのが1995年。今回の新版が今年の7月。14年も前に出された本の改訂ということになるのですが、この間にも、ユーロの通貨統合や、東アジアの通貨危機、そして昨年の世界的な金融危機があり、これらのことが新たに内容に盛り込まれています。さらに、この本の最後のほうに浜田宏一岡田靖「実質為替レートと失われた10年」(『季刊政策分析』2009年春号)が紹介されているんですが、おそらくこれも新版で新たに入った内容ですよね。この部分は、それこそ旧版を読んだ人でも読む価値ありと思えます。


僕は、今年に入ってから経済学というものを趣味で勉強し始めたんですが、マクロ経済学ミクロ経済学の優れた入門書はたくさんあり、おかげさまで僕のような素人でもなんとなく理解できている?つもりにはなれました。でも、金融、特に国際金融については、なかなかいい入門書が見当たらず。そんななか国内金融については、同じ岩田先生の「金融入門 新版」に出会い、これがよく整理されていて良かったので、次は「国際金融入門」だな、と思っていたところでの改訂。まさにベストタイミングです。


内容は、ちょっと難しいです。経済学の入門テキストと、岩田先生の「金融入門 新版」を読んだくらいの知識レベル向けでしょうか。経済学の知識がほとんどない人には、ちょっとつらいと思います。
読んでみての感想ですが、いやはや、これはもう、経済とか国際政治とか語る人には必修の内容でしょう。僕はいままで、こんな基本的なことを知らずに、断片的な知識だけでなんとなくわかっているような気になっていたんだ、ということを思い知らされました。とにかく、為替、通貨、金融にまつわる話が体系的にまとめられており、今まで断片的だった知識が、すべて結びついたというか、スタグフレーションや日米貿易摩擦など、国際通貨制度という視点から見た場合に、こういう風に整理されるのか、と、ちょっと感心してしまいました。
逆に言うと、いかにこの分野で、誤った情報、トンデモ情報が広く流布しているのかも、あらためてよくわかりました。「強い円は日本の国益」だとか「基軸通貨ドルの終焉」だとか、書店の経済本コーナーにはこんな本ばかりが並んでいたりして、タイトルからして胡散臭いなあ、と漠然と思ってはいたのですが、岩田先生のおかげで、ちゃんと理論武装できました。


岩田先生の文章は、色気がないというか、とにかく淡々と説明されるので、余計な修飾や煽り、話の脱線などが一切なく、つまりは1ページ当たりの重要な情報の密度が濃い。とにかく丁寧に読み進んでいかないといけない。薄い新書だからといって、なめちゃいかんです。僕自身も、まだ理解しきれていない部分が結構ありそうなので、また何冊か経済本を読んだ後で、再度読んでみようという気にもなっています。


金融入門 (岩波新書)

金融入門 (岩波新書)

日本銀行は信用できるか (講談社現代新書)

日本銀行は信用できるか (講談社現代新書)

「新しい労働社会」濱口桂一郎

数々の書評が個人ブログで書かれており、うちの近所の文教堂ですら平積みでドーン!(岩波の営業さん、気合い入っているのかな?)どうやらとっても売れているんじゃないか?と、ちょっと喜んでしまいそうですが、まあそんな話は置いておいて...

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)


僕がhamachanこと濱口桂一郎氏のブログを知ったのは、2007年。僕が前いた会社で、給与体系が大きく変わり、中高年社員、それも子供が成長して最もお金のかかるような人たちの多くが、月で10万近くも給与が減らされてしまう、という悲劇を目撃してしまい、にわかに労働問題への関心が高まっていた時期でした。日本の一般的な賃金体系は国際的に見てどう特殊なのか?それが歴史的にどのように形成されてきたものなのか?さらにはアメリカ流の成果主義というようなものが輸入されてきているけれど、これが本当にアメリカ流なのか?などなど、疑問は噴出するが、明確な答えを与えてくれそうな書籍(それも新書レベルで、ある程度全体が網羅されつつ、バランスよく整理されているもの)がなかなか見当たらず、とりあえずいろいろとググっていたら...たどり着いたのが「EU労働法政策雑記帳」というブログでした。
その当時「参考になるブログを発見した!」と喜んで、RSSリーダーに登録したのを覚えています。でもやはりブログという形式上、日本の雇用とか労働について、基本的なことを広く学びたいという僕の欲求にぴったりフィット、というわけにはいきません。またhamachan氏は「hamachanの労働法政策研究室」というHPに、自著の論文等を掲載していて、これがまたまた参考になるのだけれども、いかんせんどこにどんな論文があるのかがわかりにくく、さらには、それぞれの論文のページを開くと、これがまた見づらい。cssでもかまして、読みやすい体裁にでもしてあればいいんですけれどねえ(僕はテキストエディタにコピペして、読みやすい体裁にしてから読みました)。
ってなわけで、ようやくです。こんな新書、待ってました。


内容は、非常によくまとまっています。特に重要なのが序章。
著者は、日本型雇用システムの本質を雇用契約の性質に求めます。

日本型雇用システムの最も重要な特徴として通常挙げられるのは、長期雇用制度(終身雇用制度)、年功賃金制度(年功序列制度)および企業別組合の三つで、三種の神器とも呼ばれます。これらはそれぞれ、雇用管理、報酬管理および労使関係という労務管理の三大分野における日本の特徴を示すものですが、日本型雇用システムの本質はむしろその前提となる雇用契約の性質にあります。(p1-p2)

では、日本の雇用契約の性質はどのように特徴的なのか?世界的に通常な雇用契約は、ある程度具体的な職務内容(例えば旋盤を操作するとか、会計帳簿をつけるとか、自動車を販売するといったこと)が決められた契約内容で雇用されます。一方日本の場合は、具体的な職務はあいまいなまま(逆に言えば、会社の命令によって、どんな職務でもやらなくてはいけない)、採用されます。

 もちろん、実際には労働者が従事するのは個別の職務です。しかし、それは雇用契約で特定されているわけではありません。あるときにどの職務に従事するかは、基本的には使用者の命令によって決まります。雇用契約それ自体の中には具体的な職務は定められておらず、いわばそのつど職務が書き込まれるべき空白の石版であるという点が、日本型雇用システムの最も重要な本質なのです。こういう雇用契約の法的性格は、一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約と考えることができます。日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップなのです。
 日本型雇用システムの特徴とされる長期雇用制度、年功賃金制度および企業別組合は、すべてこの職務のない雇用契約という本質からそのコロラリー(論理的帰結)として導き出されます。(p3-p4)

日本型雇用システムの本質は、メンバーシップ契約にこそあるとし、このあと日本的雇用システムの特徴を、この「メンバーシップ契約」という本質からの論理的帰結として、見事に説明されます。ここは是非、本を手にとって読んでいただきたいところ。序章だけならわずか22ページ。本屋で立ち読みできるくらいのボリュームです。かのfinalvent氏も「序章だけでもネットで公開されれば、多くの人の益になるかと思った。」と、ブログで書かれているくらいです。


さて僕の感想ですが、この「メンバーシップ契約」という言葉が、とてもとても気に入りました。
日本的雇用における、雇用者と被雇用者の関係って、左っ側の人たちとか進歩的?知識人の人たちに語らせると、「前近代的」だとか「伝統的エートス」だとか「封建的」だとか「儒教的」などというふうに「なんだか古臭いものがなかなか克服されずにいまだに残っている」というような感覚の言葉が使われます。アメリカかぶれの新自由主義系の人たちにかかれば、「社会主義的」だとか「既得権益」みたいな言葉で語られてしまう。保守系の人たちなら、逆に好意的に「家族主義」とか「血の通った」なんて言い回しでしょうかね。
でも、「メンバーシップ契約」と言ってしまえば、それこそ「契約」というある種ドライな言葉によって、さまざまな価値観からも中立的な感じがします。しかも、伝統だのエートスだの文化だのイデオロギーだのといった抽象的なアプローチではなく、より実体をつかんだ「契約」という側面で捉えるということは、社会学的にもより本質に近づけるように思えます。実際、日本的雇用なんていうものは、それこそ高度経済成長からバブル期までの間につくられてきた比較的新しいものであって、「伝統」なんていう言葉で一面的に語れるものではないことは、ちょっとよく知っている人からすれば常識です。
また制度経済学からみても、「メンバーシップ契約」という考え方は、実に意味深いように思えます。僕は以前、フランスのレギュラシオン学派の「フォーディズム」という考え方を、なにかの本で読んだことがあります。この「フォーディズム」というのは、アメリカの戦後20年の経済安定期を支えた賃労働関係を表現する言葉で、労働者側からすれば、テーラー主義的な労働の再編や管理・効率化を受け入れるという妥協、経営者側からすれば、生産性上昇に伴う賃金上昇を受け入れるという妥協により、アメリカは四半世紀にわたる安定した成長をなしえたという考え方です(逆に、その後70年代は「フォーディズム」が足枷となって、アメリカの経済が停滞した、と考えます)。で、僕はこの話を読んで、じゃあ日本はどうなんだろう?と、まあ当然考えたわけです。「テーラー主義」というのは日本には当てはまらないよなぁ...高い賃金っていうのもねぇ...むしろ労働者の生活や家族、人生をまるっと抱え込むようなかたちで労働の再編が行われてきたような気がするようなぁ...と。そういう意味でも「メンバーシップ契約」という言葉は実にしっくりきます。


とにかく、この「メンバーシップ契約」という言葉だけで、僕の脳内ではあっちこっちへと思考が広がってしまったわけなんですけど、まあそんな話はこのくらいにして、内容に戻ることにします。
ということで、ここで目次を

序章 問題の根源はどこにあるか―日本型雇用システムを考える
 日本型雇用システムの本質―雇用契約の性質
 日本の労務管理の特徴
 日本型雇用システムの外側と周辺領域
第1章 働きすぎの正社員にワークライフバランス
 「名ばかり管理職」はなぜいけないのか?
 ホワイトカラーエグゼンプションの虚構と真実
 いのちと健康を守る労働時間規制へ
 生活と両立できる労働時間を
 解雇規制は何のためにあるのか?
第2章 非正規労働者の本当の問題は何か?
 偽装請負は本当にいけないのか?
 労働力需給システムの再構成
 日本の派遣労働法制の問題点
 偽装有期労働にこそ問題がある
 均衡処遇がつくる本当の多様就業社会
第3章 賃金と社会保障のベストミックス―働くことが得になる社会へ
 ワーキングプアの「発見」
 生活給制度のメリットとデメリット
 年齢に基づく雇用システム
 職業教育訓練システムの再構築
 教育費や住宅費を社会的に支える仕組み
 雇用保険生活保護のはざま
第4章 職場からの産業民主主義の再構築
 集団的合意形成の重要性
 就業規則法制をめぐるねじれ
 職場の労働者代表組織をどう再構築するか
 新たな労使協議制に向けて
 ステークホルダー民主主義の確立

この本を読み終わって、なんだろう?この読後感は、と思ったんですけれど、そのポイントはこの章だてにあるのだなぁ...と気づきました。
序章は、上で述べたとおり「なるほど、メンバーシップ契約かぁ。わかりやすい!」という感想になって、さあいよいよ具体的な諸問題に切り込んでいくぞ!と、ちょっとわくわくしながら第1章に読み進みます。で、第1章、第2章あたりまでは、「なるほどなるほど。そうかそうか。」と読んでいけるんですが、章が進むにつれて徐々に「うーむ。これは厄介だ。」となり、「むむむむ。どうだろう。厳しいな。」となって、最後には何故か「ふうぅぅ...」と深い溜息をついてしまいます。どういうことかというと、問題の解決のための対策・提案が比較的シンプルで実現も容易そうな話から、逆に問題は複雑でその対策・提案も多岐にわたり実現が困難そうな話へ、という順番になっているのです。まあ、それだけ幅広くこの新書一冊に詰め込んだということでもあり、後半は内容を理解する上でもちょっと難解だな、とは思ったんですが、でもここまでの話をこの新書に詰め込んできた著者の意欲はとても評価できると思います。


第1章、第2章は、世間一般、特にマスコミ等で議論されている問題の設定のしかた自体がズレており、本来対策はこうあるべきだ!という内容となっているので、これは是非ともメディアの方々含めて読んでいただきたいところです。労働時間規制というのはもっと議論になっていいと思いますし、登録型派遣事業と常用型派遣事業を分けて考えるというのも、他ではあまり聞いたことのない重要な指摘だと思います。
一方、第3章、第4章。これはまさに日本型雇用システムを軸にした「社会構造」の問題であって、必要なのは、その「構造」の改革ということになってきます。ちなみに「構造改革」と言うと、なんでも壊してしまえ!市場に任せてしまえ!的な、実質「構造破壊」な言説を思い出してしまいますが、社会構造を改革するというのはそんな単純な話ではありません。ここでは、教育政策、住宅政策、社会保障政策と連携しながら、とりあえず手を付けられそうな部分から漸次改革していく、より現実的な方策が提案されます。そうはいっても、社会的な合意がつくられていくためには、相当な根気が必要な話ばかりです。特に第4章は、問題の解決を、現場の労働者と使用者との交渉によって行えるような環境・制度づくりの話であって、それこそ労働者の主体性が問われてきます。
じつはこのあたり、著者の思想、「人間」というものに対するある種楽観的な「信頼」が感じられます。社会に幻滅して「なんとかしないとこのままでは日本がダメになる」という悲壮感たっぷりな言説が目につく今の時代にあって、この著者の立ち位置には非常に好感が持てます。


まあ、長々と書きなぐってしまいました。
とにもかくにも、是非読んでみてください。日本の労働・雇用問題について基本的・全般的な知識を身につけたい、という人に「とりあえずこれ1冊読んでみな。大概の事は書いてあるから」とお勧めできる本です。

内田義彦「資本論の世界」「社会認識の歩み」

子供が夏休みに入ったために、すっかり更新できなくなってしまっていました。(妻は仕事に出ており、僕は自宅で仕事をしているので、僕が子供の面倒も見なくちゃいけない)


さて、今回は岩波新書の青版から。
岩波新書の青版で、今も増刷が続いているものには、名著が多いと思っているのですが、先日近所のブックオフの新書コーナーを眺めていたら、同じ本が何冊もあるのに目が留まりました。

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

近所に大学があるので、おそらく講義のテキストにでも使われているのでしょう。そういえば、内田義彦先生の本は、ちゃんと読んだことがなかったなぁ...と思い、早速購入。読んでみたらこれがなかなか面白い。


資本論の世界」はNHKで放送した講演、「社会認識の歩み」は「岩波市民講座」での講義が元となっており、文章自体も講演の形をとっています。とはいっても、

本書は、録音速記に加筆したものではない。テープをききながら、こうもしゃべればよかったかなという形で、まったく新たに書き下ろした ― といえば人ぎきがいいが、書き直してはテープにとり、それを聞きながら書き直すという作業を繰り返して出来上がったものである。(「資本論の世界」あとがき より)

今年(一九七一年)の五月、私は「岩波市民講座」で「社会認識の歩み」という同名の講義をした。その時の話をもとに、何度か書きかえをくりかえして出来たのが本書である。(「社会認識の歩み」あとがき より)

というように、単なる講演本とは違って、その構成、内容もよく練られたものとなっています。しかも文体自体の講演調、この独特のリズム感と、話し言葉による平易な表現は、たぶん人によって感じ方も違うんでしょうが、僕は非常に好感を持ちました。


資本論の世界」が1966年11月、「社会認識の歩み」が1971年9月に刊行されています。後から刊行された「社会認識の歩み」は「資本論の世界」の姉妹篇という位置付けで書かれており、僕が読んだ感想でも、やはりセットで読んだほうが、より楽しめると思います。


ということで、まずは「資本論の世界」のほうから。
マルクス資本論について書かれた岩波新書は、同じ青版で、僕が知っている限り、他に2冊あります。向坂逸郎資本論入門」、宇野弘蔵資本論の経済学」。そして、どちらも絶版になってしまっています。向坂先生の本は、僕も残念ながら持っていないのですが、宇野先生の「資本論の経済学」は、今も手元にあります。でも今回、内田先生の「資本論の世界」を読んで、なぜこの本だけが今も増刷を繰り返しているのか、あらためてよくわかりました。
マルクス経済学は、いまやすっかり影をひそめていて、僕が学生の頃(今から20年も前)ですら、経済学部にマル経の先生なんてほとんどおらず、教養部に何人かいる程度でした。まあ確かに資本論を経済学としてみた場合には、古典派のリカードの経済学がベースとなっており、その後の限界革命ケインズ革命をくぐりぬけてきた現代経済学と比べれば、かなりの見劣りを感じざるを得ません。でも、社会科学の古典としてみた場合には、どうでしょうか。
僕たちは、社会主義の失敗から、マルクスは間違っていた、なんていう単純な理解をしがちですが、でもマルクスの文献を読むと、そんな単純な話ではないように思えます。むしろ、その後の社会科学に与えた影響というものは無視できない。哲学から経済学、歴史学社会学へと、まさに近代における総合社会科学の祖とも言えそうです。
資本論の世界」は、資本論の入門・解説書というよりは、マルクスがどのようにして社会を切り取って見せたのか、そんなマルクスの視座、目線に迫ります。当然、話は資本論だけにはとどまらず、若いころから晩年のマルクスまで、マルクス自身の社会認識が、どのように変わってきたのか。そして、その結実がどのように資本論に表れているのか。マルクスの社会を見る目が、より重層的、複眼的、立体的に広がっていく様が、内田先生の独特の語り口によって、まるで推理小説をひも解いていくかのように、読者の興味関心を常に喚起しながら解説されていきます。


「社会認識の歩み」は、マキャヴェリホッブスアダム・スミス、ルソーと、近代社会科学誕生前からマルクスに至る近代社会科学の発展における歴史上の人物に焦点を当てながら、社会を認識するということがどういうことなのかを問いかけます。この本の面白いところは、その問いかけが、読者自身に向けられるところでしょうか。読者を含め、一個人が社会認識を深めていく過程、それと歴史的に社会科学の方法論が発展してきた過程が重ね合わされるのです。読者は社会科学の歴史を追いかけながら、自らの社会認識の方法論を深めていく。内田先生の企図はそこにあります。ですから、この本を読んでもマキャヴェリホッブスアダム・スミス、ルソーそれぞれの思想についての理解は深まりません。あくまでも、これらの歴史上の人物は、ある一面、内田先生の語りたい部分だけが取り上げられ、内田先生の語る社会認識の方法の素材として扱われます。


この2冊、扱われている歴史上の人物の年代順でみれば、「社会認識の歩み」→「資本論の世界」と読むのがよさそうなのですが、僕が読んだ感想としては、やはり刊行順、「資本論の世界」→「社会認識の歩み」と読むほうが面白いと思います。なぜなら「社会認識の歩み」が、「資本論の世界」をかなり意識しながら書かれているのです。「社会認識の歩み」の後半で、どこが「資本論の世界」に結びつくのか、言及されている部分もあります。とにもかくにも、是非セットで読んでいただきたい。



僕は最近、経済学なるものをちょっとかじったりしているんだけれど、なんていうんだろう、純粋な理論はいいんだけれども、実際の社会を説明する上で「歴史」とか「社会構造(法・制度・社会意識・文化等々)」とかをすっ飛ばして結論を出したがるような、そんな傾向をかなり感じるんです。逆に社会学では、それこそ経済をほとんど無視して(つまり雇用の問題をほとんど無視して)、若者論が語られたり...
そんなわけで、この本を読むと、「社会を認識する」ということはどういうことなのか?ということを、あらためて考えさせてくれます。
硬派な内容が、内田先生独特の、ある意味艶っぽい、生きた言葉で語られており、そのことで、より重層的、立体的な広がりをつくっているように思えます。なんというか、とても文化的な奥行きのある「教養」が感じられるというか...


ところで内田義彦先生は、今年没後20年になるのですね。没20年の今年、こんな本も出版されているようです。

学問と芸術

学問と芸術

「教育と平等」苅谷剛彦

今回は、最近読んだ本を紹介


苅谷剛彦先生の本は、「欲張り過ぎるニッポンの教育」(講談社現代新書)という対談本(この本は、対談本としては極めてよくできた本なのでオススメ)しか読んだことがありませんでしたが、今回中公新書の新刊本のところに並んでいたのを見つけ、早速買って読んでみました。

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)


教育問題というのは、それこそ右側や左側の国を想う人たちの最大の関心事であると同時に、誰もが一度は日本の教育を受けたことがあるという、自らの体験による議論への参加のしやすさもあってか、なんというか上っ滑りな、それこそ居酒屋談義のような話がやたらと多く耳に入ってきます。まあでも居酒屋の中だけで済んでいればまだしも、現実には政治や思想の中心にまで浸食してきている。この本はそんな実状に対して、「教育」というものを考える上で必要な視座、アプローチの方法を、自らの実践を以て提起しています。

 かつて、ロラン・バルトは、神話の作用について、「歴史を自然に移行させる」ことであると言った(バルト1967、169頁)。「自然」、すなわちあたりまえのこととして、「歴史」を忘れさせてしまう。

 戦後の日本社会に特徴的な「平等」 ― 考え方だけにとどまらず、その制度化やその作動、さらにはその影響やその結果としての状態を含めて ― があったとしたら、それはどのようにして生まれ、どのように変節してきたのか。それが生成する過程で、私たちにどのような影響を及ぼしてきたのか。「全員が百点!」を標榜する立場も、それを日本的平等観と単純に見なし批判する立場も、いずれも「歴史」を忘れている。あたかも、それらがすでにそこにあるものとして見なしている。だから、さまざまな誤読や誤解が生まれるのだが、そうした錯誤=屈折が生じる理由を探るためにも、「歴史」を取り戻すことが重要な課題となる。

 公教育が税金によってまかなわれている以上、そこで行われる教育を支えているのは、さまざまな教育資源(施設・設備、教職員、教材・教科書、その他諸々の財やサービス)であり、それらの多くは、義務教育の場合、公的な教育支出に負っている。当然、そこには、どのようにして教育資源を配分するかを決めている仕組みがある。さらには、そうした仕組みを動かしているルールや考え方がある。

 ところが、私たちの多くは、それらがいかなるものなのかを知らない。ましてや、そこでのルールやそのルールの元になる考え方、理想、理念といったものが何であったのか、それがどのように作られ、制度化され、どんな影響を教育の実践に及ぼしてきたのか、私たちの考え方にどう影響してきたのかを知らない。知らなくても、いまの教育を論じることはできる。

 いや、もっと言えば、そのようなことに気づかずとも、毎年、日本中のすべての公立小中学校にはお金が配分され、そのお金で雇われた一定数の教師が、これまたそのお金によって利用できるようになった施設や設備や教材を使って、日々「教育」を行っている。その資源の配分には、必ず一定の仕組みとルールがあり、それを私たちが ― 多くの場合には暗黙のうちに ― 受け入れているからこそ、中断することなく教育が行われているのである。

 本書の企ては、こうして「歴史を自然に移行」させてしまったことが生み出す平等神話の解読である。この神話のもっとも基底にあると私が仮定する、教育資源の配分の構造とそれを作動させているルールに着目し、それらを地層から掘り起こし、時間軸に沿って、その生成と変化を再構成してみようというのである。


わたしたちが、教育問題を語る際に、当たり前のものとして埋もれさせてしまっている「歴史」「制度」「経済」。この本では、まさにその埋もれた「当たり前」の構造が掘り起こされていきます。
内容は、新書にしては専門性も高く、まあ悪く言えば地味です。スリリングな展開もなく、「目から鱗が落ちた」みたいな、今までの常識をひっくり返すような発見もなく、ただただ淡々と、日本の公教育の「歴史」、それも教育財政の配分ルールの形成史、そしてそれが今なお「公教育」における土台となる教育財政において、脈々と生き続けているという事実、さらにはこの土台に規定されてきた日本の教育思想に至るまで、ディテールをもって、まさに「掘り起こされ」ます。
わかりやすい「答え」を求めるような人たちには、とても退屈な本かもしれません。でも、より立体的でディテールの細かい「認識」を求める人からすれば、これほどわくわくする面白い本もないかもしれません。


「社会科学」とはこういうものだ!と、苅谷先生が手本を示してくれている、そんな本です。
ということで、同じく中公新書の「大衆教育社会のゆくえ」も、読んでみたくなりました。


「POSSE」第4号

『POSSE』第4号つづき: EU労働法政策雑記帳
告知(H21.7.7): 後藤和智の雑記帳
精神は貧困でかまいません(笑)|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ

POSSE」第4号 特集「格差論壇」の座標軸
座談会「ニート論壇」って言うな! −「セカイ系」化する論壇か、論客の「精神の貧困」か−
杉田俊介 × 増山麗奈 × 後藤和智

ものすごく気になってしまったので、取り寄せてしまいました。
とりあえず、どんな対談なのかは、上のリンク先を読んでみてください。一部引用して紹介されています。ここでは、いちいち内容を引用しての紹介はしません。たぶん、この不思議な空気は、全部読んでみないとよくわからないと思います。いや、読んでみてもよくわからないかもしれない。



最近気づいたのは、「ニート」「ロスジェネ」論壇に限らず、まあネットなんかでもそうなんですけど、身近な感覚、現場のリアリティみたいなものから、一挙にマクロな話に飛躍する言説をよく見かけるなあ...と。まあ、別に最近に限った話ではなくて、大衆的な言説って、昔から往々にしてそんなものかもしれません。


わかりやすい話を挙げると、シバキ「構造改革」論。日本経済の停滞は、日本の企業や労働者が規制等によって甘やかされてきたことが原因だ!ちょっとくらい苦しくても我慢して頑張らなくちゃいかん!もっともっと競争だ!!!みたいな言説。これ、実は経済学的には、かなりトンデモに近い言説で、経済学の主流派(主流派だけでなく、オールドケインジアンポストケインジアン等々含めてですね)の考え方では、日本の長期停滞の原因は、完全雇用(自然失業率)レベルからみて需要が不足している、というのが問題であることは、ほぼ間違いない話なんですね。にもかかわらず、このようなシバキ「構造改革」論を語るなんちゃってエコノミストがメディア等に溢れているのは、その言説が読者にもっとも受け入れられやすいからなんだと思うんです。頑張れば報われる。うまくいかないのはみんなの努力が足りないからだ。甘えているやつがいるからだ。みたいな感覚にフィットするんです。(あるいは、経済は戦争だ!みたいな、戦国武将好き経営者層?の感覚にも。)
でも、そもそも需要が不足している。つまり、働きたい人の数に対して、働き口の数が不足しているような状態で、みんなが頑張るとどうなるのか?どう考えても、職からあぶれる人はいるわけで、それでもみんな職にありつきたい。そして、かなり劣悪な条件でも文句は言えない。賃金が下がっても頑張る。サービス残業が月100時間以上になっても頑張る。ということをみんながやったら、着実に賃金は下落していきますし、労働環境も劣悪になってくる。そうなると、所得は減るし、消費も減る。需要はさらに減る。働き口も減る。職からあぶれる人が増える。つまり、みんなが頑張れば頑張るほど、世の中悪くなっていく。負のスパイラルですね。
でも、働く人、一人ひとりにとってみれば、頑張るっていうのは、これはこれで圧倒的に正しいわけです。


ニート」や「ロスジェネ」ってのは、まさにこのミクロの感覚の正しさをそのままマクロに広げてしまうという「誤り」の被害者でもあるわけで、もうちょっとこの辺に突っ込んだ議論っていうのがあってもいいんじゃないか?と思うんですよね。


まあでも、保守側の論説では、欧米的な価値観・文化を問題にして、日本的なるもの(例えば武士道)への回帰を訴えてみたり、左派の論説では、「カジノ資本主義」とか「金儲け主義」みたいな、これまた人々の精神の問題に持っていっちゃうところなんか、どこも同じ問題を抱えているんでしょう。