日本における「自己責任」とは、「自業自得」の言い換えでしかない

不可解な日本の世論 - すなふきんの雑感日記
非常に、興味深いお話が、はてブの上位に挙がっていました。

「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」という考え方に賛成するか否かを尋ねている。
日本ではこの考え方に賛成しているのは59%である。この数字も国政的には際立って低い。ほとんどの国で80%以上の人が、貧しい人の面倒を見るのは国の責任だ、と考えている。

このアンケート結果を見て、何かピーンと来るものがありませんか?


そうそう、年越派遣村に関する、ネットでの反応を思い出します。
ジョン万次郎と派遣村 - 玄倉川の岸辺

心が索漠とする。
世間の風の冷たさとはこういうことか。いや、それにしても冷酷すぎないか。

政治に関心の薄い層に残る自己責任狂 - Munchener Brucke

今回の派遣村バッシングの特徴は、普段政治的な話題を取り上げない普通のブロガーやMixiで普段他愛のない日記を書いている人が、かなり辛辣に弱者に厳しいことを書いていることです。その意味で、ネット右翼や媚権派が騒ぐような事件とは少し様相が違うと感じました。

個人的にはこういうことをいえる人はすごいと思う。 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。

それにしてもなぜ派遣切りされた人たちを「甘えている」「ワガママだ」ときってしまうのだろうか?−中略−弱者をたたくことによって自分の位置や自分が「そうでない」ことを確認するなんてことは、もうやめてはいかがか。なんともとんでもない国になったものだ。哀しいがここはニッポソではなく正真正銘の「日本」なんだなァ。

貧困社会のメカニズム - 深町秋生のベテラン日記

この自己責任を叫ぶ人々に見られるのは強烈な嫉妬だ。もういろんなブログで語られつつあるが。上記のリンク先にあったタバコ云々にまでこだわる姿勢。「あいつらタダメシにありつきやがって。ああ、タバコまで!」という余裕のなさ。この手のバッシングに参加する人間と派遣村に行かざるを得ない人との差は紙一重にすぎないのだろう。

派遣村を叩いてるのは多分貧乏な下流の連中だよ

つまりね、派遣村叩きってのは、「普通の人」が右傾化してるとかそんなんじゃなくて、日本人のほとんどはもうマジでビンボーなんですよ、ってことを明らかにした現象なんだよ。


さてさて、僕はずーっと思っていたんですが、こういった負け組バッシングな人たちがよく使う「自己責任」って言葉。ものすごく違和感を感じます。もともとは、小沢一郎さんの「日本改造計画」という著書で、アメリカのグランドキャニオンに柵がないことを挙げて、規制の撤廃、自己責任、といったことを書いていたように、アメリカ的な自由主義思想の言葉だと思います。でも、日本で使われると、かなりニュアンスが違ってくるのは気のせいでしょうか?
自由を確立するための「自己責任」という言葉ではなく、自由を許さないための「自己責任」という言葉。つまり勝手なことをしたんだから自業自得だよっていう意味で使われているように思えるんです。


数年前、イラクでの人質事件の際、当時の小泉首相福田官房長官が「自己責任」なんて言葉を使いましたが、その時も世論は人質となった被害者に対してバッシングの嵐でした。
この時、高井守氏は永久保存版で、「世間」というキーワードからこの問題を語っています。
最新情報の地層 2003年6月〜2004年5月

「世間」の論理では、かれらのような一度望んで出た人間は、本人の帰属意識はどうであれ南米移民のように、後は生きようが死のうが知ったことではない、手を差し伸べるなど 言語道断、という一種の絶縁状態に置かれるのがルールなのです。

※「世間」という考え方は、阿部謹也先生が長年語ってきたこと。日本には社会や公共という概念がない。その代りに世間がある。といった考え方で、阿部先生はいくつかの本を出されています。最近では佐藤直樹先生も何点か本を出されています。


そう「世間」では、その世間からはみ出したもの、世間のルールに従わなかったもの、世間に迷惑をかけたもの、世間を騒がせたものは、まさに非難の対象であり、決して救済の対象にはならないのです。そして、世間に忠誠を尽くしたもの、世間と一体化したものこそが、その世間の内側にある人情や助け合いの恩恵を受けることができるのです。


考えてもみてください。日本がなぜこれほどまでに社会保障が脆弱であるのか。そしていかに企業による保障に頼ってきたのか?
それは、日本の「会社」こそが「世間」なのです。会社という名の「世間」に忠誠を尽くし、一体化した正社員こそが、その「世間」による庇護を受けることができるのです。逆にその会社という「世間」から脱落してしまったら、為す術もなくなってしまいます。でも、それが「世間」の論理なのです。
経済状況が変わっても、会社という「世間」を守るために、「非正規」や「派遣」という名の、「世間」の外側の労働力に頼ることで、なんとかしのいできました。そして「世間」の外側の「非正規」や「派遣」は、「世間」の外側ということだけで、差別的な待遇を受けることになります。


つまり、世間からこぼれおちてしまった人たちは、理由がなんであれ、世間からはみ出しているという結果のみから「自業自得」ということになってしまうのです。


しかし今の日本は「世間」の外側にはみ出してしまった人たちであふれています。いつまでたっても「世間」の論理に頼っていては、ますます社会が荒廃しそうです。ただ、こればっかりは日本人に染みついているものなので、どうしようもないのかもしれません。


最後に、思いっきり飛びますが...
政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいるかぎり、政治のもつ悪魔的性格は、それとして率直に承認されない - finalventの日記

回帰したのではなく単純に絶望したのかもしれません


日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書)

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「世間」とは何か (講談社現代新書)

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暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)

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