「新古典派経済学」とは

しばらくぶりの更新になってしまいました。今日は「新古典派経済学」について。ちょっと整理しておこうと思います。


ということで、まずはこちらから。ずいぶん前のネタですが...
最強の経済学者 ミルトン・フリードマン - 池田信夫 blog

アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。[・・・]時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。(藤原正彦国家の品格』p.183)

これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経済学を持ち出した」のではない。おまけに藤原氏は、シカゴ学派新古典派を混同している――と私が編集者(『電波利権』と同じ担当者)に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済学」と訂正されたが、そんな経済学も存在しない。

池田信夫先生のブログは、なんというか引用したくなるんですね。釣り上手というか、極論も多いし間違いも多い。だからネタフリに使いやすいし、批判的なエントリーも書きやすい。なるほど、これが池田流SEOなのかとも思ってしまうのですが、やっぱり便利なので今回も引用してしまいました。
池田先生はこのエントリーで、藤原正彦先生の「国家の品格」の中での「新古典派経済学」の記述がおかしいという指摘をしているわけです。僕は「国家の品格」なんていう本は持っていないし、ちゃんと読んでもいないのですが、池田先生の引用部分をみると、確かにおかしなことが書かれています。まるで「新古典派経済学」というのを生み出したのが、ハイエクフリードマンであるかのような表現です。
でも、それに対する池田先生の反論も変です。「ハイエクフリードマンは、当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって」とありますが、ハイエクフリードマンが挑戦したのは「新古典派」ではなく、「新古典派総合」ではないのか?と。さらには、「おまけに藤原氏は、シカゴ学派新古典派を混同している」とありますが、シカゴ学派は、広い意味では「新古典派」に分類されますし、ニュー・クラシカル(New classical economics)とも言われます。ちなみに「新古典派経済学」は英語で Neoclassical economics。なので、ニュー・クラシカルは日本では新古典派と区別して「新しい古典派」と言われますが、専門外の本ではニュー・クラシカルを「新古典派」と訳すケースもよく目にします。
ですから、池田信夫先生のケチのつけ方もなんか変なわけで、池田先生に指摘された編集者の方もお気の毒というか、誰かまともな経済学者の人に聞いた方が良かったのではないかと思ってしまいます。


さて、ここまで書いて、紛らわしい言葉が二つ出てきました。「新古典派総合」そして「新しい古典派」です。「新古典派総合」というのはもう既に過去のものとなってしまいましたが、「新しい古典派」は、今なお生きているというか、現在の経済学の主流派の一角を占めています。「新古典派総合」に挑戦したというか、ある意味葬り去ったのが「新しい古典派」と言えるかもしれません。そして「新しい古典派」は広義での「新古典派」に含まれます。「新古典派総合」は「新古典派」と「ケインズ経済学」を合わせたようなものですかね。まあとにかくいろいろあるわけです。
そして「新古典派」という言葉は、なにか特定の学派を表しているというよりは、むしろ経済学の前提となる考え方を意味しているようです。つまり経済学の主流派においては、「新古典派」の考え方をベースにしつつも、その「新古典派」のモデルと現実の経済との不整合性を補うために、「新古典派」的でない考え方を付加したり、あるいは「新古典派」の考え方をより発展させる、そんな意味合いにおいて使われていそうです。だから経済学者によって「新古典派」という言葉の意味合いも変わってくるのでしょうし、池田信夫先生のようなおかしな反論が出てきても不思議ないのかもしれません。ましてや、専門外の人から見れば、何がなんだかよくわからないわけです。


そんなわけで、おきまりの Wikipedia から。
新古典派経済学 - Wikipedia

もともとはイギリス古典派の伝統を重視したマーシャルの経済学をさしたとされるが、一般には限界革命以降の限界理論と市場均衡分析をとりいれた経済学をさす。数理分析を発展させたのが特徴であり、代表的なものにワルラス一般均衡理論や新古典派成長理論などがある。新古典派においては物事を需給均衡の枠組みで捉え、限界原理で整理し限界における効率性の視点で評価を行う。

ウィキペディアを見てみても、なんだかわかりづらいです。
でも「古典派」ではなく、あえて「新古典派」というようになったからには、「古典派」の経済学との違いが意識されているわけですよね。ということで「古典派経済学」のほうを見てみれば、もうすこしわかるかもしれません。
古典派経済学 - Wikipedia

古典派経済学(こてんはけいざいがく classical economics)とは、18世紀後半から19世紀前半におけるアダム・スミスデヴィッド・リカードマルサス、ミルなどのイギリスの経済学者に代表される労働価値説を基礎とした経済学のこと。 −中略− その以後にはジェボンやアルフレッド・マーシャルワルラスなどの限界効用論を基礎とした新古典派経済が経済学の主流となる。

「古典派」は「労働価値説」を基礎とした経済学。一方「新古典派」は「限界効用論」を基礎とした経済学ということになります。じゃあ「労働価値説」とはなんなのでしょうか?
労働価値説 - Wikipedia

労働価値説(ろうどうかちせつ、labour theory of value)とは、人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという思想。アダム・スミスデヴィッド・リカードを中心とする古典派経済学の基本思想として発展し、カール・マルクスに受け継がれた。

これは、わかりづらいですね。まあいいや、素人が我流で説明してみましょう。
商品の価格は、どれほどの資源(労働や天然資源など)が投下されたのか?とか、どれほどの資本(土地や設備など)が利用されたのか?とかどれだけの需要があるのか?といった様々な要因で決まることは、漠然と認識されていたわけだけれども、その基本を、どれほどの労働が投下されたのか?という視点で考えたのが労働価値説になるのだと思います。ただし、古典派の時代においても、同じ労働量が投下されていても価格の違う商品なんていうものはいくらでもあったわけですよね。だから、投下労働価値を上回る価格が付いている商品市場には、より多くの業者の参入によって、価格は将来的には投下労働価値に近づく。逆に投下労働価値を下回るような安い価格で取引されている商品市場では、利益が出ないゆえに多くの業者が撤退することによって、やはり価格は将来的には投下労働価値に近づく。アダム・スミスの考えていた「神の見えざる手」というのは、こういった市場原理のことだったのでしょう。


一方、「新古典派経済学」= 現在の経済学の主流 では、「限界効用論」で考えられます。
限界効用理論 - Wikipedia

さまざまな財を消費ないし保有することから得られる効用を考え、ある財をもう1単位だけよけいに消費ないし保有することにより可能になる効用の増加を「marginal utility 限界効用」と呼ぶ。

ミクロ経済学の教科書で、最初に習うような話です。この限界効用の理論から、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線が描かれ、均衡点で価格が決まる。この考え方によって、労働力そのものの価格(賃金)や、地代などなど、「労働価値説」ではうまく説明できなかったさまざまな価格が全てひとつの考え方によって説明できるようになったのです。現代の経済学においても、大前提の考え方であり、逆にいえばこの考え方をベースにしている経済学を「新古典派」と言うことができます。
ちなみに、現代の経済学のなかでも、「新古典派」の価格決定論を採用していない学派があります。スラッファ派、ネオリカード派、ポストケインズ派、ネオラディカル派、マルクス派などなど、異端派の経済学になります。


さて、「古典派」と「新古典派」の違いを見てきましたが、これだけを見れば、現代経済学はほとんどが「新古典派」ってことになって、なにもわざわざ「新古典派」っていう言葉を使うこともないだろうと思えてきます。それこそ「主流派」でいいだろうと...でも、実は新古典派誕生後、あの「ケインズ経済学」の登場によって「新古典派」という言葉があらためて意味を持って使われるようになった。つまり「新古典派」という分類は「ケインズ経済学」との対比の中で使われるようになったのではないでしょうか。では「新古典派」と「ケインズ経済学」を分けるものは何なのでしょう?

ケインズ経済学 - Wikipedia

ケインズ経済学の根幹を成しているのは有効需要の原理である。この原理は古典派のセイの法則と相対するもので、「供給量が需要量(投資および消費)によって制約される」というものである。これは、有効需要によって決まる現実のGDPが古典派が唯一可能とした完全雇用における均衡GDPを下回って均衡する不完全雇用を伴う均衡の可能性を認めたものである。このような原理から有効需要の政策的なコントロールによって、完全雇用GDPを達成し『豊富の中の貧困』という逆説を克服することを目的とした、総需要管理政策(ケインズ政策)が生まれた。これは「ケインズ革命」といわれている。

ケインズは、一国のマクロ経済において、総需要が完全雇用での生産量のレベルを下回ることによって失業が生まれるという、有効需要の原理を提唱しました。これは、それまでの「古典派」「新古典派」の、供給によって総生産量は決まる、といういわゆる「セイの法則」の考え方を覆したものです。つまりケインズ経済学は、総需要の不足によって不完全雇用を伴う均衡がありうるとしており、一方「新古典派」は、供給側によって総生産量は決まるので、完全雇用のレベルが均衡点だという考え方です。


実はこの二つ、戦後サミュエルソンの「新古典派総合」によって統合されるのですが、その「新古典派総合」も、70年代に入ってケインズ経済学を基にした総需要管理政策が行き詰まり、退いていきます。その後は「新しい古典派」と「ニュー・ケインジアン」が、「新古典派」のなかの大きな二つの流れになって現在に至っています。ところで「ニュー・ケインジアン」というのは、名前に「ケインジアン」がついているので「新古典派」とは違うのではないか?と思う人もいるかとは思います。しかし「ニュー・ケインジアン」は、長期においては「新古典派」のモデルで説明できるとし、ケインズ的な分析手法はあくまでも短期的で循環的な景気変動に役立つものとしています。また短期分析においても「新古典派」の手法による基礎付けを進めています。ですので、これはもう広義の意味での「新古典派」と言ってもなんの問題もなさそうです。




というわけで、ずいぶん長くなってしまいましたが、「新古典派経済学」とは、
1.限界効用理論を基本とする。
2.マクロ経済における総生産量は、供給側によって決まる。つまり「完全雇用(自然失業率)」のレベルで長期的には均衡する。
という考え方の経済学だというふうに、僕の頭の中では整理されました。そして、現在の経済学の主流は広義の意味での「新古典派」であると。そして「新古典派」という言葉は、短期分析と長期均衡の違いを説明する際に使われるか、あるいはマルクス派やポストケインズ派などの異端の経済学との違いを語る時にしか必要なくなってきているということでしょうか。


ずいぶん長々と、「新古典派」という言葉を追いかけてきました。なぜこんなことを整理してみたかというと、「新古典派」ではない異端の経済学とはどういうものかを考える上でも重要なことだと思いますし、さらには「新古典派」に含まれる「新しい古典派」や「ニューケインジアン」がどのような考え方を共有しているのかを考える上でも重要だと考えたからです。そしてその先「新しい古典派」と「ニューケインジアン」の違いはどこにあるのか?ということにも興味があります。特に「新しい古典派」はわかりづらいんです。マンキューやスティグリッツのようにわかりやすい教科書はみんな「ニューケインジアン」によるもので、「新しい古典派」によるわかりやすい教科書って、あまり聞いたことがありません。
そしてさらには、その「新しい古典派」について理解することが、日本における「構造改革派」を理解する上で、必要なことなんだろうと考えています。なので、この話は「新しい古典派」についてのエントリーに続く予定です。


それにしても、なんだか個人的お勉強メモな内容のブログになってきてしまいました。ここ半年くらい趣味で経済学を勉強してきたので、学んだことをどうしても文章にして整理しておきたいという気持ちがあります。なので、しばらくはこんなわけのわからないエントリーが続きそうです。まあマスターベーションに近いですな。