教育における「平等」ついて、チョイと思ったこと

なんだか忙しくて、なかなか時間をとってエントリーを書くということが難しいので、今回もちょっと気軽に...


以前こちらで、苅谷剛彦先生の大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)という本の感想を書いたんですが、この本で書かれている内容にずいぶん刺激されまして、なんかいろいろな方向へ思考が広がっています。今回はそのなかでも、日本の教育における「平等」観について、少し思ったことを書きます。


実は、僕は小学校1〜3年生の2年間、イタリアの小学校で学んでいた過去があります。で、そんなイタリアの小学校の記憶を辿っていて、ふと思ったのが、そういえばイタリアの小学校には「落第」ってのがあったよなあ...と。僕のクラスは、1年から2年になったとき、クラスのメンバーはみんなそのまま学年が繰り上がったのですが、ひとり落第の子が新たにクラスに加わったのをおぼえています。
苅谷先生の本では、日本の教育において、「平等主義」のもと能力別教育などが否定されてきたことも考察されているんですが、実は欧米の多くの国にあって日本にはないもっともわかりやすい違いは、この初等教育、義務教育における「落第」の有無だと思うんです。で、そもそもこの「落第」はあったほうがいいのか、無いほうがいいのかということはとりあえず置いておくとして、それでもこの日本において「落第」はないよなあ、無理だよなあ...と率直に思っちゃうんです。日本で「落第」した子は、かなり追い込まれちゃうんじゃないか?もうそのまま立ち直れないんじゃないか?と。「落伍者」に対しては、尋常じゃない厳しさがあるお国柄です。周りからどんなふうに見られたり言われたりしてしまうのか、想像するだけでぞっとします。だいたい卒業時の就職活動に失敗しただけで、社会人失格のラベルが貼られて、そのまま負け組確定なこの国において、経歴に傷がつくことの恐ろしさを、どれほど皆が感じていることか...
まあそんな話は置いておいても、とにかく僕の不確かな記憶感覚としては、イタリアでは「みんな同じ」が日本ほど重視されていなかったように思えます。わかりやすい話を挙げると、クラスのなかに、誕生日を迎えるとクラス全員分のお菓子(ケーキ)を持ってきて、みんなに配る子が何人かいたんです。まあ当然育ちがいい(つまり金持ちの家)とか、親バカの家というか、まあそんなものなんでしょうけど...。で、当然持ってこない子もいます。他にも、カーニバル(謝肉祭)の日には、学校に仮装をしてくる子たちがいて、子供によっては衣装がこれまたものすごく立派な子もいるんです。その一方で仮装してこない子もいる。(ちなみに、これみんな30年以上も前の話です。しかも僕が通っていた小学校でのことなので、単純に一般化はできません。あしからず。)
これ、日本だとどうなんでしょうね?おそらく経済的に厳しい家庭の子でも、みんながやっているのならうちの子にも、ということにもなるでしょうし、どれくらいお金をかければいいのか?他の子たちはどうなのか?というのが親にとって最大の問題になって、母親同士ものすごい勢いで情報交換しあうことが想像できます。で、空気を読めないで過剰にお金をかけたり、逆にかけなかったりすると、これまた周りからどう見られるか、なに言われるかわかったもんじゃない。で、むしろ、そんなことを学校で許したら、学校内での差別が助長されるってことで、やめましょうってことになることのほうが多いと思います。
ほんじゃま、イタリアのほうが真っ当か?といえば、そうではないですね。そもそも階級差が明確にありますし、差別感情も日本とは比較にならないくらい激しいです。




まあとにもかくにも何が言いたいか?といえば、教育って社会の鏡でもあるわけで、教育における「平等」観って、日本人の平等意識がとてもわかりやすく表出しているような気もするんです。んで、この初等教育・義務教育で「落第」がありえないと感じる平等意識。いったいどこから来たんだろう...とも思うんです。「戦後」的なフレーバーに満ちていながら、でもでも一方で日本人の古層?な香りが根底にあるような。ねえ...


ということで、ちょっとだけ思ったことでした。