「失われた10年の真因は何か」岩田規久男+宮川努(編)

もう6年も前の出版になりますが、この頃からなにも状況は変わっていないような気がするので、ご紹介を。

失われた10年の真因は何か (エコノミックスシリーズ)

失われた10年の真因は何か (エコノミックスシリーズ)

タイトルの「失われた10年」が、もう今では「失われた20年」になりそうな長い日本経済の停滞状況ですが、話がすこしも古く感じられません。経済論戦のポイントは、この頃からなにも変わっていないようです。


この本は

  • 構造改革なくして成長なし 林文夫
  • 失われた10年」と産業構造の転換 宮川努
  • 金融政策の機能停止はなぜ生じたのか 野口旭・岡田靖
  • 財政運営における失われた10年 中里透
  • 不良債権が日本経済に与えた打撃 櫻川昌哉
  • 社会資本の地方への重点的整備の評価 三井清
  • 産業空洞化が日本経済に与えた影響 櫻井宏二郎

という七つの論文が提示され、それに対して他の経済学者が疑問の提示、さらには批判を行い、論文著者がその疑問や批判に応答するという形式がとられています。
そして、この七つの論文というのが、まさに日本経済の長期停滞の原因として、今もよく議論されている「原因」ということになります。強いて言えば五つ目の不良債権原因説は、今となってはもう古い、というか不良債権自体は解消されても、ちっとも停滞から抜け出せない現在の日本経済をみていると、あまり主たる原因ではなかった、という見方ができます。しかし、それ以外については、今でも経済論戦のなかで、よく聞くような話です。


ということで
まず最初の論文構造改革なくして経済成長なし」
これはまさに、停滞が長く続いている → だから問題は短期の需要不足なんかではない → 長期の問題は供給側の問題 → 供給側の成長率を高めなくてはならない → だから構造改革が必要、という論理。


二つ目の「「失われた10年」と産業構造の転換」
ここでは、資源配分の歪みによる生産性の低下を原因と考えています。どういうことかというと、資金や労働力などが、産業構造の変化に合わせて、適切に再配分されていない、つまり成長産業に効果的に配分されていない。そのことが生産性が伸び悩む原因であり、さらには日本経済の停滞の主因だ、という論理。


三つ目、「金融政策の機能停止はなぜ生じたのか」
こちらは、金融政策のまずさが、停滞の原因だという考え。現在の日本は、長期にわたって需要不足が起きており、その主たる原因は、適切な金融政策がとられてこなかったからだ、というもの。いわゆるリフレ派の考え方。


四つ目、「財政運営における失われた10年
こちらは、97年の橋本内閣における財政構造改革が、その後の経済の失速の原因とする考え方への反論。財政構造改革自体は景気変動に大きな影響は与えていない、さらには財政政策自体の効果も薄い、という考え方。


五つ目、不良債権が日本経済に与えた打撃」
不良債権処理が先送りされてしまったことの弊害をみています。不良債権処理の遅れが実体経済に与えた影響として、不良業種への追貸し等、非効率な企業の救済や温存、逆に中小企業を中心にした貸し渋りなど、資源の非効率配分をもたらしている、というもの。


六つ目、「社会資本の地方への重点的整備の評価」
1970年代以降、社会資本が地方へ重点的に整備されてきたことの、非効率性を検討。いわゆる公共投資という形で行われてきた、地方圏での社会資本整備重点化が、非効率的であり、政策の見直しを考えるべき、というもの。


七つ目、「産業空洞化が日本経済に与えた影響」
工場の海外移転など、いわゆる産業空洞化による雇用量減への影響を検証。90年代の「失われた10年」を説明できるほどのものではないとし、その一方で途上国からの輸入増加が日本の経済厚生(貿易の利益)を高めることを確認。ただし国内の産業間での円滑な資源移動がうまく行われないことが、貿易の効果を抑えている、と整理。


どうでしょうか?こうやってずらっと並べてみると、基本的な論点はすべて出つくしているとも言えます。
これらの論文には、それぞれ他の経済学者から、批判や賛同、他の視点からの検証等、いくつかの意見が加えられ、さらに論文を書いた本人がそれらの意見に応答しています。内容は、統計データの解釈、経済モデルによる検証等、専門的なものとなっているので、ある程度の経済学の知識がないとついていけないかもしれませんが、読んでみる価値はあると思います。僕は、とても勉強になりました。

「古典派の二分法」と「貨幣中立説」

ちょっと、マクロ経済学ネタで、ものすごーく基本的なお話を。


デフレは困るとか、日銀の量的緩和だとか、インフレターゲットだとか、貨幣供給を増やすだとか、まあなんといいますか、マクロ経済学の、それも金融政策にまつわるお話が、あちらこちらから聞こえてきます。このブログも、まさにそんなネタを扱ったりもしています。ただいろいろなブログ記事や、コメント、はてブなんかのコメントもそうなんですが、経済学の基礎知識をあまりよくわかっていないで、リフレだ、いや生産性アップだ、国際競争力だ、なんていうような話をしている人も多々おられるようです。
そこで、今回は「古典派の二分法」と「貨幣中立説」についてです。まさに基本中の基本。これはしっかりとおさえておきたいところなので、僕自身用のメモとしても、まとめておきます。よく耳にする「長期」とか「短期」といった話も、この貨幣の中立性の問題と大きく絡みます。


ということで、僕がすっかりお世話になったマンキュー先生より。

 これまでは、貨幣供給の変化によって、財・サービスの平均的な価格水準がどのように変化するのかを学んだ。それでは、貨幣量の変化は、他の主要なマクロ経済変数、すなわち生産、雇用、実質賃金、実質利子率などにはどのような影響を及ぼすのだろうか。この問題は長年にわたって経済学者をとりこにしてきた。たとえば、18世紀の偉大な哲学者であったデービッド・ヒュームも、この問題に関して本を書いている。今日、この問題に与えられた解答も、実はヒュームの分析に負うところが大きい。
 ヒュームと同時代の学者たちは、すべての経済変数を二つのグループに分けるべきだと考えた。第1のグループは名目変数(貨幣単位で測られた変数)であり、第2のグループは実質変数(物質的な単位で測られた変数)である。たとえば、トウモロコシ農家の所得は、金額で測られているので名目変数である。他方、彼らの生産するトウモロコシの量はブッシェル(重量)単位で測られているので実質変数である。同様に、名目GDPは経済の財・サービスの生産を金額で測っているので名目変数である。実質GDPは財・サービスの総生産量を測定し、財・サービスの現在の価格に影響されないので、実質変数である。このように、経済における諸変数を二つのグループに分類することを古典派の二分法と呼ぶ(二分法とは二つのグループに分けることであり、古典派とは初期の経済学者たちを指す)。
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 なぜ、わざわざ諸変数を二つのグループに分類しなければならないのか。ヒュームは、古典派の二分法が経済分析に役立つことを示唆した。ヒュームは、実質変数と名目変数では、影響を受ける要因が異なると考えた。名目変数は経済の貨幣システムにおける出来事に強く影響されるが、実質変数は貨幣システムにはほとんど影響を受けないと主張したのである。
・・・・・・・・・・・・
 ヒュームの考え方では、貨幣供給の変化は名目変数には影響するが、実質変数には影響を与えない。中央銀行が貨幣供給を2倍にすると、物価水準が2倍となり、他のすべての金額も2倍になる。しかし、生産、雇用、実質賃金、実質利子率といった実質変数は変化しない。このように、貨幣量の変化が実質変数と無関係であることを、貨幣の中立性と呼ぶ。
(マンキュー入門経済学 第11章 補論2 古典派の二分法と貨幣の中立性)より

古典派の二分法とは、名目変数と実質変数を分けて考えましょう、ということ。そして、長期的には名目変数を無視して、実質変数だけで経済を説明できる。つまり、貨幣というものは、いわば「ヴェール」のようなもので(貨幣ヴェール観)、雇用や生産高などの実質的な経済活動の水準には影響をもたらさない、というのが貨幣中立説です。


さて、この貨幣が中立的であるという考え方、長期においては近似的に正しい、とされており、このことは現代の経済学の世界においても、異論を唱える人はほとんどいないようなんですが、問題は短期的にはどうなのか?という点です。

 貨幣の中立性という概念の意味を理解するために、つぎのようなアナロジーを考えてみよう。貨幣は計算単位であり、経済的取引を測る尺度であることを思い出そう。中央銀行が貨幣供給を2倍にすると、すべての価格が2倍になり、計算単位の価値は半分に低下する。同じことは、政府が1ヤードを36インチから18インチに変更したときにも生じる。新しい尺度の下で、すべての測定された距離(名目変数)は2倍になるが、現実の距離(実質変数)は変化しない。ドル(円)は、ヤードと同じで測定単位でしかない。したがって、その価値が変化しても、実物面には重要な影響を与えないのである。
 貨幣の中立性の結論は、われわれの住んでいる世界をどの程度現実的に描写しているだろうか。その答えは、完ぺきな描写ではない、ということになる。1ヤードが36インチから18インチに変更されても、長期的には大した問題にはならないだろう。しかし、短期的に混乱やさまざまな失敗が生じるのは確実である。同様に、今日の多くの経済学者は、(約1〜2年の)短期においては、貨幣量の変化は実質変数に重要な変化をもたらすと考えるに足る理由があると信じている。またヒューム自身も、貨幣の中立性が短期にあてはまるということについては、疑いを抱いていた(短期における非中立性は次章で扱う。非中立性を学ぶことは、中央銀行が貨幣供給を変化させる理由を理解するのに役立つ)。
(マンキュー入門経済学 第11章 補論2 古典派の二分法と貨幣の中立性)より

実にわかりやすい例えです。尺度というものが変わると、短期的には混乱やさまざまな失敗が生じるということですね。例えば、貨幣の価値が変わると、モノの値段や賃金などもそれに応じてすぐに変わるのか?といえば、そんな簡単な話ではないですよね。


ということで、基本知識は以上です。ここから先は、ちょっとたわごと、というか思ったことをつらつらと...


この「貨幣の中立性」、「長期」では近似的に成立するけれど「短期」では成立しないということ。ところで、この「長期」とか「短期」という話は、マクロ経済学ではよく出てくる話です。「長期」においては、経済の水準は「供給」側によって決まるが、短期においては「需要」の不足(あるいは過熱)がある。となると、「長期」にはなくて、「短期」だとあるもの、それが貨幣の非中立性であり、需要の過不足でもあるわけです。
ではでは、貨幣の中立性が成立しないことと、需要が不足したりすることには、何か関係があるのでしょうかねえ...。というのも、なぜ需要不足が起きるのか?を、多くの経済学者は価格の硬直性(あるいは粘着性)を問題にしたりしていますよね。でも、なぜ貨幣が短期的には中立的でなくなるか?といえば、価格の硬直性もそうなんですが、それ以上に「貨幣による錯覚」というものが大きいように思えるんですよ。実際、金融政策が効果があるのは、貨幣の錯覚によるところが大きいはずです。だとしたら、需要不足を深刻化させる原因の一つに、「貨幣による錯覚」があるとは考えられないんでしょうかね?というか、僕はもともと、需要不足は経済主体の非合理性によって起きるように思っていて、「貨幣による錯覚」もそんな非合理性の一つのような気がするんですよね。


僕らは、価値を貨幣で測っているわけですが、その貨幣自体の尺度がどう変わっているかなんて、それほど気にしていません。例えば、所得が名目で増えていれば、軽いインフレで実質所得はそれほど増えてなくても太っ腹になれるような気がしますし、逆に所得が名目で全然増えなければ、デフレで実質所得が増えていても、やたらケチケチ節約しそうな気がするんですよね、今の日本みていると。となると、賃金の下方硬直性よりも、名目で所得が増えない、ということのほうが問題として大きいようにも思えてきます。


それと、「短期」の問題といっても、それを具体的に1〜2年という短い期間で考えるのもどうかな?とも思うんです。まあ日本では、利子率による調整が効かなくなっていて「短期」の問題が長期化しちゃっているわけだけれども、アメリカの好景気が10年以上も続いて、しかも低インフレ・低失業率であったのも、これまたいい意味で「短期」の問題が、長期間続いていたという話もあります(以前ここで触れました)。なにが言いたいかというと、単純に長期的に続いていることだから「長期」つまり供給側の問題だ、なんていう話はおかしいんですよね。期間の長さで判断するんではなくて、やはり現象を見て判断すべきだなあ...と。
ちなみに、構造改革派の人たちは、日本の20年近くにわたる長期停滞は、長期間続いているから「長期」=供給側の問題だ!って言っています。
そうそう、リアルビジネスサイクル理論とか「新しい古典派」では、貨幣の中立性は短期においても成立するんでした。需要不足もないんだよなあ...。当然、経済主体は「合理的期待を形成する代表的個人」です。(以前ここで紹介しました)


マンキュー入門経済学

マンキュー入門経済学

『「空気」と「世間」』鴻上尚史

昨年の夏に出ていて、読んだのも昨年の秋。なんだか忙しくて、感想を書きたくてもなかなか書けないでいた本です。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

鴻上尚史さんといえば...
たぶん世代によっても、違ってくるんだろうけれど、僕はやはり80年代の小劇場ブームを引っ張っていた劇団「第三舞台」の主宰者であり、劇作家、演出家、という印象。「第三舞台」の公演は何度も見ました。また、僕くらいの世代では、オールナイトニッポンのパーソナリティで知った人も多いのではないでしょうか?さらにはエッセイストとしても活躍していて、週刊SPA!の「ドンキホーテのピアス」はもう10数年も連載が続いています。最近テレビではNHKでよくお見かけするんですが、タモリ倶楽部でもちょくちょく。まあマルチな文化人?というか、いろいろな顔を見せてくれています。


さて、そんな鴻上さんが、なぜか新書で、しかも堅苦しい『「空気」と「世間」』なるタイトルの本を出されました。もうちょっとうまい(というか売れそうな)タイトルにしてもよかったんじゃないか?と思ってしまうんですが、中身を読めばこれがとっても真面目なお話。大学の先生でもヒドイ釣りタイトルで中身のない新書を平気で量産するような時代にあって、まあ硬派というか、きちっとした本だぞ!という思いを伝えたかったんでしょう。でも、本屋でほとんど見かけないんだよなあ。タイトルにもうひと工夫!と思ってしまいます。


実は、鴻上尚史さんが、この「空気」なり「世間」なりに、違和感・関心を持っている、そういう感覚の人だということを、僕はよく知っていて、鴻上さんがこんな本を出してきたことにも、やはりそうきたか!と思ってしまいました。というのも十数年前、この日本の社会に対する違和感というものを僕なりに漠然と感じていた(けれどなかなか言語化できずにいた)頃に、第三舞台の「スナフキンの手紙」という芝居を見て、「あああ...そういえばそうだった...」と思ったシーンがあったんです。それは、帰国子女である女性が日本の学校教育(それも集団教育)の中で、思いっきり違和感を感じるシーン(子供の頃の回想?というか夢の中のシーンだったと思う)。その瞬間、そういえば僕も帰国子女だった、ということを思い出して、自分が感じる日本社会との違和感と、自分が帰国子女であるということが、あらためてつながったんです。そうだよな...と。それまでもなんとなく思ってはいたんですけどね。その後も、鴻上さんのエッセイなんかで、それこそ電車の中の女子高生の話だとか、ロンドン留学での話だとか、まあなんというか共感するお話をいろいろ読みまして、僕自身もずいぶん触発されました(帰国子女の話とか、電車の中の女子高生の話とか、みんなこの新書の中で出てきます。)。なので、僕が関心を持っていた阿部謹也先生の「世間」論、鴻上さんも関心を持って読んでいたことは、実にしっくりきます。で、鴻上さんなりの現代日本の解釈の仕方、「空気」や「世間」のとらえ方、なるもの、やはり読まずにはおれんぞ、と思い、で読んでみて、ああ、これはまた堅苦しい話を、うまく鴻上節でまとめあげたなぁ、比喩やエピソードがうまいなぁ、僕ももっと若かったら、この本読んでなんかちょっと励まされちゃったかなぁ?なんて思っちゃいました。


鴻上さんは、「空気」と「世間」なるものを説明する際に、テレビのバラエティ番組というものを持ち出します。それも、大物司会者がいてひな壇芸人がいる、トークバラエティのイメージです。大物司会者は、明石家さんま島田紳介でしょうか?トークのマナー、方向性が明確で、掌の上で他のタレントさんのトークを転がすようなタイプ。そしてひな壇には、それこそ吉本の芸人さんがいて、先輩と後輩の序列が非常に明確になっている(芸能界って、おそろしいほどの縦ノリなんですよねえ。その代表が吉本でありジャニーズ。)。そこで若手の芸人さんが、うっかり大物司会者が期待してないようなボケやリアクションをしてしまったとき、必ず先輩芸人がつっこみます。
「おまえ、空気読めや!」と。
このような番組では、「空気」は大物司会者が決めています。ですから「おまえ、空気読めや!」というつっこみは、じゅうぶんに成立します。
ところで、この大物司会者がもしもいなかったならば、どうなるのでしょう?あるいは、明確な番組の方向性を打ち出せない、あまり有能でない司会者だったら?そう、番組の「空気」はあやふやなものとなります。それでも、「おまえ、空気読めや!」はありなのでしょうか?

 居酒屋で、大学生のグループと遭遇したことがあります。4月でしたから、クラスの親睦の飲み会だったのでしょう。
 順番に自己紹介をしている時、一人がわりとくだらないダジャレを飛ばしました。冷めた笑いと沈黙の後、別の誰かがフォローの意味で、違うダジャレを言いました。沈黙はさらに深くなったようです。
 すると、また別の一人が、「お願いだから、空気読んで!」とおどけて叫びました。少し笑いが起きましたが、笑いが終わった後は、かえって場は緊張しているようでした。
 ほとんど初対面で、お互いがどんな人間かも分からず、自分がどんなことを言えば適切なのか明確でない場所で、「空気を読め」と要求することは、はっきり言って無茶だと、僕は思っています。

 『空気を読む力』(アスキー新書)という本で、放送作家田中大祐さんは、「大勢の人間が集まるトーク番組の場において、読むべき空気というのは、そもそもどのように発生するのでしょうか?/空気をつくるのは、出演者の『立ち位置』と『キャラクター』です」と書いています。
 放送作家ならではの、実践的なアドバイスだと思います。キャラクターだけでは不十分で、さらに立ち位置も考えることが必要だというわけです。
 けれど、それは、司会者(業界用語ではMC)が明快な場合に有効なアドバイスだろうと僕は思います。
 司会者が大物でなくても、中堅でも、とりあえずちゃんと仕切れる人、またはアナウンサーのように異業種の人で司会の立場を通せる人がいる場合のことです。
 けれど、現実の生活には、そんな明快な司会者がいないことが多いのです。
 それでもみんな、「空気」を読もうとします。
 大切なことは、有能な司会者がいない場合にできた「空気」に、過剰におびえる必要はない、ということなのです。
 これが、まず最初にはっきりさせたい「空気」の特徴です。

鴻上さんは、「世間」というものを大物司会者のいるバラエティ番組のようなものとします。「空気」が明確で、みんなの立場もはっきりしている。それこそが「世間」だと。一方、大物司会者がいなかったり、出演者の立ち位置も不明確な番組が、まあ仮にもしあったとしたら、それは「世間」が壊れていて「空気」だけが残った状態です。
そして、現代の日常では、この「世間」が壊れ始めていて、あやふやな「空気」だけが広がり始めている、と。


このように、まさに鴻上節というのでしょうか、この後もうまいエピソードや比喩によって、僕らの実感に沿った形で「世間」や「空気」の正体が紐解かれていきます。当然、この本では、阿部謹也先生の「世間」や山本七平さんの「空気」に関する話も、簡単にわかりやすくまとめられて紹介されています。そういった意味では、「世間」や「空気」に関する言説のちょっとした入門書のような趣もあります。
ただ、最大の力点は、「空気」というものに縛られ、抑圧される、と感じ始めた私たちに、ちょっとした「心の持ち方、構え方」なるものをアドバイスする、というところです。なので、より「世間」や「空気」を客体化し解体して、その意味を考える、というような内容を期待している人には、ちょっと物足りないです。でも、問題意識が刺激されるようなネタは満載ですので、いまさら「世間」や「空気」かよ、と言う人でも読んでみる価値はあると思います。


とにかく、もっと話題になってもいいのになぁ...と思える内容の本です。
こういった方面でも、鴻上さんには、これからもぜひぜひ頑張ってほしいものです。





ところで、話は変わるんですが、僕はこのブログでも何度か「世間」や「空気」に関して言及したことがあります。特に「世間」については、もうずいぶん前から僕の関心の中心にあります。さらには、会社員生活を送って、それこそ日本的経営、日本人の職場意識なるものを見てきたので、日本の職場こそが、「世間」であって、しかも近年問題になっている「年功序列」だの「新卒一括採用」だのといった問題も、この「世間」を考えずには、なにも本質は見えてこないようにも思えています。
ただ、なんていうんでしょうか?阿部謹也先生の「世間論」の本を何冊か読んでみても、で、どうすればいいの?日本の世間は、これからも変わらないの?というところから思考が抜け出せないというか、まあどこにも行けないなあ、という感覚があるんです。阿部謹也先生自身が西洋史専門で、それも風俗から宗教、呪術なんかが中心で、結局ヨーロッパにおいて「個人」なるものが誕生したのも、キリスト教の影響が圧倒的だということになっています。でも、キリスト教があったから「個人」というものが生まれ、「世間」が「社会」に変わったというのなら、日本においてもキリスト教のような信仰が必要なのか?ってことにもなってしまうんです。
というわけで、僕は阿部先生の「世間論」から、一度離れてみよう、と思っています。近いうちに、なんらかの話を、ここでできたらと考えています。


ではでは。

あけましておめでとうございます

はてダを始めたのが、去年の1月。もう1年にもなります。とはいっても、たいして更新していないので、エントリー数は30ちょっとですか。まあでもこんなものですかね。今年もぼちぼちマイペースでいきます。


さて、新年早々ちょっと興味を惹かれたので、田中秀臣先生の日記から...
松尾匡のマクロ経済学観 - Economics Lovers Live

僕は、1年ほど前から経済学に興味を持って、いろいろと経済学の入門書を読んできたんですけど、実は現在の主流経済学?に関して、どうしても納得のいかない部分があったんです。それは「マクロ経済での短期の不均衡が起こる理由は、価格や賃金が硬直的なため」という説明。特に悪玉にされやすいのが、賃金の下方硬直性や解雇規制の問題ですね。実際ニュー・ケインジアンは、メニューコストなる価格の硬直性を理論に組み入れたりすることで、動学均衡論を発展させてきたわけです。
でも、実感としては「違うよなあ...」というのが正直なところ。これは、今の日本経済の停滞状況を見ていれば当然感じるものです。賃金がどんどん下がって、物価も下がって、しかも経済はどんどん悪くなる。まあ確かに、名目利子率が実質0に限りなく近づいても需要が不足している、というのが今の日本の状況であり、つまりは利子率が調整機能を果たしていない、ということで、当然リフレ策のようなインフレ期待を生み出すマクロ政策が望まれるわけなんですけれども、でも、そもそもどうして利子率がこんなに低くなっても需要が不足するというような状況になったのか?ということこそが、僕が最も知りたい、というかちゃんとした説明がないぞ、と感じるところなんです。
ちなみに、田中先生の日記のリンク先である、松尾先生のエッセーには、小野善康先生の本の紹介のところで小野モデルについても触れられています。

小野先生のモデルは、人々が貨幣に飽くなき効用を感じることを出発点にして作られていて、なぜ人々がそんな効用を持つのかから導いていないので、流動性のわな均衡に落ちたら、いくら貨幣を増やしても不況を抜け出す効果はないことになっています。

そうなんですよね。なぜ「人々が貨幣に飽くなき効用を感じる」という状況になるのか?ということこそが知りたいんですよねえ。


というわけで、今年は松尾匡先生が執筆・紹介している本や、田中先生の言う78マクロ?であるとか、このあたりもちょっと攻めてみようかな、と。新年早々そんなことを思いました。ついでに言うと、現在温めているネタもありまして、こちらは経済学というよりも社会学歴史学に近いかな?まあ経済史がおもいっきり絡みますけど(それも近代以前から...)。こちらも、余裕のあるときにボチボチとアップしていきたいですね。


まあそんなところで、今年もよろしくお願いします。

「努力すれば報われる」と「努力しても報われない」を考える

なんていうんですかね。この「努力すれば報われる」というもの言い。
小泉内閣の時代に、なにやら格差を正当化するために使われてきた言葉でもあるんですが、僕が意外だったのは、「全くその通り!」と言う人たちが結構多くいたことです。しかも、その使われ方は、貧困に苦しむ人たちに対して「報われていないのは、頑張らなかったからだ!」といった「自己責任」論、いやいや自業自得論ですね。もうこれが聞くに堪えない。なんなんだろう、これは...というのが正直な感想でした。


そこで思ったんです。日本人はいつからそんな「努力すれば報われる」なんてことを、素直に信じられるようになったのか?ってこと。
以前、ここで紹介した苅谷剛彦先生の「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)」では、現実には学力における不平等が再生産されていながらも、学校内での平等主義のもと、その不平等が隠匿されていると分析していました。だからこそ「努力すれば報われる」という神話が成り立つのだと。
でも、ちょっと待てよ、とも思うんです。確かに、そこそこの大学にいける学力を持っている子は、努力すればもっと上の大学にいけるかもしれない。でも、偏差値50くらいの子に「努力すれば東大にいける」なんて期待は持たないでしょうし、勉強が全然得意じゃない子に「努力すれば、日東駒専くらい入れるぞ」なんていう人もいないはずです。そう、つまりみんなわかっているんです。もともとの素養とか環境によって、本人の努力の及ばない不平等が、学力という面に限れば、存在するということを。そりゃそうですよね。早ければ小学校低学年くらいから、その差は現れてきます。
では、それでも、それこそ社会の最底辺にいるような人たちに「努力すれば報われる」なんていう言葉を投げることができる、その感覚とはなんなのか?彼らはどのような努力を想定して、しかもどのような報われ方を想像して、「努力すれば報われる」なんていう言葉を発しているのか?で、僕はなんとなく思い当たることがあったんです。こういうことなんじゃないかな?と。


僕は能力の不平等なるものを考えていたとき、ふと村上春樹の小説「海辺のカフカ」に出てくるナカタさんを思い出しました。
ナカタさんは、二つの世界が並行して描かれるこの小説の、片方の世界の主人公です。60過ぎの初老の男性なんですが、子供の頃、とある事情から知能障害のようなものを患って、読み書きすらできない。そのかわり、なぜか猫と会話できる、という人。といっても、ここでは小説の内容はどうでもよくて、僕が思い出したのは、そのナカタさんが知的障害を抱えながら送ってきた人生です。
ナカタさんは、中学卒業後に家具製造会社で木工の仕事につきます。図面を読んだり計算をすることは不得意でも、繰り返し作業は上手にこなせるようになって、2年間見習い工をやったあと、本雇いに昇格。ここでナカタさんが52歳になり、木工所が閉鎖されるまで働き続けます。ナカタさんはハンデを背負った人です。でも、木工所では戦力になった。熟練の職人だったという話です。
そうなんです。同じような作業を何度も繰り返すことで、技術を磨く。そういう仕事では、それこそ何年かの見習い期間を経て一人前になる。学力は劣っていても、ある程度の器用さや集中力があれば、なんとか技術を身につけることができる。というよりも、そもそもガテン系って、そういう世界ですよね。町工場の旋盤工や金型職人、建築土木関係では左官屋や塗装屋や建具屋。料理人なんていうのも、それこそ町の大きな料理店で見習い修業して、一人前になったら自分で店を出すとか、他の店に引き抜かれるとか...だから根性がなくて、飽きっぽくて、見習い期間中に我慢できなくてすぐ辞めてしまう。そういう人には、確かに「努力がたりない」「我慢が足りない」「今は辛くても、続けていれば必ず報われる」という説教は意味があるのかもしれません。
さらに言うと、こういった熟練技術者というのは、技術向上によって所得も安定するんですね。生産性が高いから、というのも理由なんですが、同時にその技術の希少性(つまり誰でもできるわけではない)によって、労働力は高く売れるわけです。なるほど、確かに「コツコツと努力すれば報われる」っていう言葉がフィットする世界のようにも思えます。
でも、「海辺のカフカ」のナカタさんは、52歳で失業します。家具会社の社長が亡くなったため、木工所が閉鎖されたのです。もう木工家具なんてものがあまり売れなくなってきた。時代の流れですね。




というわけで、いままでつらつらとなにを言いたくて書いてきたのか?というと、そもそも熟練技術者、熟練労働者の労働需要というものが、時代の流れの中で、著しく減ってきたのではないのか?ということです。だからこそ、以前であれば「努力すれば報われる」だった世界が、成り立ちづらくなってきたのではないか?と。
僕は、以前広告関連の会社に勤めていたんですが、最も印象に残っているのが、DTPの技術によって、印刷にかかわる多くの熟練労働者が失業していったことです。写植屋さんに製版屋さん、みんないなくなりました。今ではデザイナーがDTPソフトでつくったら、データ入稿でおしまいです。じゃあ代わりにデザイナーの労働需要が増えたか?といえばそんなことはないですよね。むしろ専門学校上がりの、とりあえずイラレとフォトショが使える、というデザイナー予備軍は大量にあふれているけど、デザインって、センスとか理解力とか創造力なんてものが必要で、それこそ修業すればだれでも上達するっていう仕事ではないです。
要するに、IT等の技術進歩や、合理化、マニュアル化、定型化等によって、今まで熟練労働者が担ってきたような仕事が、実は非熟練労働者でもできるような仕事に変わってきたのではないか?ということなんです。そうなると以前のように見習い修業によって技術を取得することで、生活の安定を得るということが難しくなる。「努力すれば報われる」が「努力しても変わらない」になってきた、ということです。
よく、海外の安い労働力の脅威、というものが製造業において語られますが、問題は、「海外の安い労働力」が脅威というよりは、「非熟練労働者で事足りる」という状況のほうにこそ、あるように思えます。「非熟練労働者で事足りる」からこそ、より安い労働力でまかなえるわけで、海外に工場をつくろうが、国内に工場をつくろうが、「非熟練労働者を安く雇用する」という状況は変わらないわけです。実際、「海外の安い労働力」との競争に直接さらされない国内サービス業、流通、小売、飲食等々でも、「非熟練労働者で事足りる」という状況がものの見事に展開されています。定型的なサービス、マニュアル的な応対しかしない店員。食べ物屋に入れば、どこぞの料理店で修業した調理人ではなく、アルバイトが工場でつくられたものをただ温めて出してくる。そして、そこで働く人たちは、いつでも代替可能なために賃金は低いままです。そこには、熟練によって自分の労働力がより高く売れるようになる、という可能性が微塵も感じられません。


思考力、創造力、交渉力、応用力等々、ある程度の能力を有している人たちとは異なり、以前であれば、定型的な労働をより正確に早くできるようになるための訓練・修業の積み重ね=「熟練」によって自らの経済的価値を高めてきた人たち。そんな人たちの労働力の経済的価値を高める方策が無くなってきて、それこそパートのおばさんとか学生アルバイトと同じ土俵で競争しなくてはならない状況。
そう考えると、問題はむしろ深刻なように思えてきます。「努力しても報われない」が、単純にマクロでの需要不足の問題であれば、マクロ政策を中心に需要を喚起する政策を打っていけばいいし、労働法制や社会保障制度、教育制度等、制度の問題もあるのであれば、制度改革によって状況は改善できるでしょう。でも、それだけで事足りるのでしょうか?
他人にはできないことができて、その能力、労働に対して相応の対価が支払われる。つまり「誰でもいい」じゃなく「自分だからできる」労働は、それこそ自尊心を高め、生きる自信にもつながります。でも、そういう労働による精神的、社会的恩恵は、これからは一部の恵まれた人たちだけのものになってしまうのでしょうか?
経済学者や社会学者でも、あまりこういう問題、視点では取り上げられていないですよね。どうなんでしょう?



というわけで、今回の話はここまで。すんません、まとまりが悪くて。でも個人的には、「非熟練労働者で事足りる」がこのままどんどん進行していくのは、経済的にみても合理的ではないと思っています。もっと深く考えたいテーマですので、またいろいろな視点から、触れていきたいと思っています。

国の赤字がこれほど多いということは、当然どこかがものすごく黒字

asahi.com(朝日新聞社):新規国債53.5兆円 今年度税収36.9兆円 財務相 - 政治

ものすごい赤字です。おそらくこれで鳩山内閣の支持率は下がるんでしょう。でも、これほどまでの赤字をつくらなければ、今度は逆に経済の停滞、失業率の増大によって、やっぱり鳩山内閣の支持率は下がっちゃうんでしょうね。


そこで、ふと思ったんです。
国の赤字がこれほど多いということは、当然どこかがものすごく黒字だということ。
日本という国全体(マクロレベル)で考えると、国家財政が赤字だということは、国家財政以外のどこかが黒字だということでもあるわけです。当たり前ですね。みんなが赤字だったら、日本経済全体が赤字になるはずだけれど、日本は黒字国です。


で、日本は歴史的に家計部門がずっと黒字。家計貯蓄率の高さは、他の先進国を圧倒します。とはいっても、ここ10年くらいは、この家計の黒字は大幅に減ってきました。貯蓄を増やしていく現役世代に対して、逆に貯蓄を減らしていく高齢世代の割合が増えたこと。つまり高齢化の進行によるものと、給与所得が増えない → 貯蓄も増えないという、低所得層の増加によるものと考えられています。(でも、そこそこ所得のある人でみれば、貯蓄率は変わっていないどころか、むしろ増えているということらしいです)
一方、大幅に黒字化しているのが民間企業。もともと企業部門は成長前提のもと設備資本等を増やしていく = 借金も増やしていく、という赤字主体の代表でした。特に高度経済成長期には、日本人の高い貯蓄率に見合うほどの、資金需要 = 企業の投資(借金)の需要があり、日本の貯蓄率の高さが成長を促進したとも言えるんです。ところが、バブル崩壊以降は、企業はその膨大な借金を減らし(= 黒字)てきました。さらに、成長しない = 将来の期待収益率が低い、となると、企業は自己資本内部留保)が多くなければ、ファイナンスが難しくなる(お金を貸してもらえない)という問題もあって、貯蓄も増やしてきました。つまり企業が黒字主体になってきたんです。


で、家計も黒字で企業も黒字だったら、どこが赤字になるのか?
今までは公共部門(国や地方自治体)に加えて、アメリカという赤字を引き受けてくれるところがあったわけですが、そのアメリカの赤字はこの経済危機によって、一挙に減ってしまいました。となると、家計と企業の黒字を支えるのは、公共部門の赤字しかないわけです。


それでは、その公共部門の赤字を減らせば、どうなるのでしょうか?
当然家計や企業の黒字は減ります。単純に総所得が黒字分だけ減ればまだいいんですが(いちばんいいのは民間需要増で民間の黒字(貯蓄)が減るということなんですけどねえ...)、実際は、それでも貯蓄を維持しようと個々の経済主体は考えるので、総所得はもっと減るかもしれません。
例えば、今まで年収1000万で、そのうち100万を貯蓄に回していた人がいるとします。つまり年間100万の黒字です。で、この黒字が減るには、年収が減るか、消費が増えるかどちらかしかありません。一方、国が赤字を減らすためにすることといったら、支出を減らすか、収入を増やす=増税ですね。そうすると、国の赤字減の影響で、この人の黒字が減るとしたら、消費が増えるんではなくて、所得が減るということになるのは間違いありません。
それでは、所得が900万に減ったら、この人の黒字は0になるのでしょうか?そんなことはないですよね。おそらく消費を減らして、80万くらいを貯蓄に回すんじゃないでしょうか?いやいや、逆に将来に不安を感じて貯蓄に回す金額を増やすかもしれません。そうなると、この黒字が大きく減るためには、よっぽど所得が減らないと無理でしょうね。
それでは企業はどうなるのか?おそらく企業のほうが赤字をやむなく受け入れざるをえないでしょう。でも、そうなると今度は資金調達が難しくなり、なかなか投資(借金)ができなくなる。さらに個人消費の落ち込みも、企業の投資行動に影響を与えます。
つまり、公共部門の赤字を減らせば、国民生産、国民所得の総量が減り、当然失業が増えます。企業の業績も良くなく、税収も減って、結果思ったほど赤字は減らないかもしれません。


思い出してみてください。1990年代、橋本内閣は財政健全化のために、構造改革を行い、さらに消費税を5%に上げました。結果、不況を深刻化させ、そのあと小渕内閣が大量の赤字をつくることでなんとか持ち直しました。今でも、消費税増税論をよく聞きますが、たとえ増税しても、民間部門が黒字(貯蓄に回す分)を維持しようとすれば、景気が悪化することは避けられません。


何度も言います。
企業も家計も国も自治体も(さらには貿易相手国も)みんな黒字なんて、ありえないんです。


ちなみに、今の日本経済は需要不足だと言われます。ここで注意すべきは、僕らがよく知っているミクロ経済での需要・供給の関係と、マクロ経済での総需要・総供給の関係はちがうということ。ミクロでは需要側と供給側は別の経済主体ですが、マクロでは需要も供給も同じです。つまり供給が所得となり所得が需要となり需要が供給となってぐるぐる回っているんです。そして、マクロ経済での需要不足とは、黒字(貯め込む)の人たちの「総貯蓄」のほうが、赤字(借金して投資する)の人たちの「総投資」を上回ってしまうと、総所得より総需要が少なくなって総供給も減って総所得も減って...つまり総生産=総所得が完全雇用レベルより減ることで貯蓄(黒字)と投資(赤字)が均衡する状況を言うんです。


ということはですよ、企業や家計の異常なほどの貯蓄性向の高さをなんとかすることが、国の赤字を減らす根本的な対策になるはずですよね。そして、そのためには「個人の消費を増やす = 個人の貯蓄を減らす」ことと、「企業の投資を増やす = 企業の借金を増やす」ことを考えなくてはなりません。



まあとにもかくにも、貧困で苦しむ人たちに対して、「なんで貯蓄しておかなかったんだ!」「自己責任だ!」なんていう国では、所得が減っても、貯蓄性向は高いままでしょうから、とりあえず、そこんとこだけでもなんとかならないものですかね。ほんとに。

教育における「平等」ついて、チョイと思ったこと

なんだか忙しくて、なかなか時間をとってエントリーを書くということが難しいので、今回もちょっと気軽に...


以前こちらで、苅谷剛彦先生の大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)という本の感想を書いたんですが、この本で書かれている内容にずいぶん刺激されまして、なんかいろいろな方向へ思考が広がっています。今回はそのなかでも、日本の教育における「平等」観について、少し思ったことを書きます。


実は、僕は小学校1〜3年生の2年間、イタリアの小学校で学んでいた過去があります。で、そんなイタリアの小学校の記憶を辿っていて、ふと思ったのが、そういえばイタリアの小学校には「落第」ってのがあったよなあ...と。僕のクラスは、1年から2年になったとき、クラスのメンバーはみんなそのまま学年が繰り上がったのですが、ひとり落第の子が新たにクラスに加わったのをおぼえています。
苅谷先生の本では、日本の教育において、「平等主義」のもと能力別教育などが否定されてきたことも考察されているんですが、実は欧米の多くの国にあって日本にはないもっともわかりやすい違いは、この初等教育、義務教育における「落第」の有無だと思うんです。で、そもそもこの「落第」はあったほうがいいのか、無いほうがいいのかということはとりあえず置いておくとして、それでもこの日本において「落第」はないよなあ、無理だよなあ...と率直に思っちゃうんです。日本で「落第」した子は、かなり追い込まれちゃうんじゃないか?もうそのまま立ち直れないんじゃないか?と。「落伍者」に対しては、尋常じゃない厳しさがあるお国柄です。周りからどんなふうに見られたり言われたりしてしまうのか、想像するだけでぞっとします。だいたい卒業時の就職活動に失敗しただけで、社会人失格のラベルが貼られて、そのまま負け組確定なこの国において、経歴に傷がつくことの恐ろしさを、どれほど皆が感じていることか...
まあそんな話は置いておいても、とにかく僕の不確かな記憶感覚としては、イタリアでは「みんな同じ」が日本ほど重視されていなかったように思えます。わかりやすい話を挙げると、クラスのなかに、誕生日を迎えるとクラス全員分のお菓子(ケーキ)を持ってきて、みんなに配る子が何人かいたんです。まあ当然育ちがいい(つまり金持ちの家)とか、親バカの家というか、まあそんなものなんでしょうけど...。で、当然持ってこない子もいます。他にも、カーニバル(謝肉祭)の日には、学校に仮装をしてくる子たちがいて、子供によっては衣装がこれまたものすごく立派な子もいるんです。その一方で仮装してこない子もいる。(ちなみに、これみんな30年以上も前の話です。しかも僕が通っていた小学校でのことなので、単純に一般化はできません。あしからず。)
これ、日本だとどうなんでしょうね?おそらく経済的に厳しい家庭の子でも、みんながやっているのならうちの子にも、ということにもなるでしょうし、どれくらいお金をかければいいのか?他の子たちはどうなのか?というのが親にとって最大の問題になって、母親同士ものすごい勢いで情報交換しあうことが想像できます。で、空気を読めないで過剰にお金をかけたり、逆にかけなかったりすると、これまた周りからどう見られるか、なに言われるかわかったもんじゃない。で、むしろ、そんなことを学校で許したら、学校内での差別が助長されるってことで、やめましょうってことになることのほうが多いと思います。
ほんじゃま、イタリアのほうが真っ当か?といえば、そうではないですね。そもそも階級差が明確にありますし、差別感情も日本とは比較にならないくらい激しいです。




まあとにもかくにも何が言いたいか?といえば、教育って社会の鏡でもあるわけで、教育における「平等」観って、日本人の平等意識がとてもわかりやすく表出しているような気もするんです。んで、この初等教育・義務教育で「落第」がありえないと感じる平等意識。いったいどこから来たんだろう...とも思うんです。「戦後」的なフレーバーに満ちていながら、でもでも一方で日本人の古層?な香りが根底にあるような。ねえ...


ということで、ちょっとだけ思ったことでした。